十一月/ダリア
さて、ここに一本のダリアがある。
深みを帯びた赤の華は悠然と、女王の風格をもってたたずんでいる。草木が枯れはじめた季節にも衰えぬ、孤高の花である。
その花の首に、花鋏をあてる。みずみずしさを感じながら、チョン、と切る。
そういう一連の動作を、
十六の、とりたてて特徴のない、咲くまえの水仙のように、しゅっと姿勢だけはよい少年だ。赤のダリアをまえにしても、ひるむことなく粛々と日々のならいをこなす少年には、流るる水のような清冽さがある。音もなく鋏をかたわらに置くと、馨はダリアを盆のうえに横たえた。
切られた花の首から、微かに香気がたちのぼる。
目を細めた馨のまえに花精が現れた。花精は尋ねる。
「未練をひとつ、話してもよいかしら?」
馨は目を伏せて、ただ耳を澄ませている。
「――はい」
嫣然たる笑みを浮かべ、花精がかたりだす。
*
アジアのとある国にかつて存在した魔窟都市・月影楼をご存じ?
売春街にアヘン窟、犯罪の温床となったこの都市は、違法に増築を重ねたせいで、建物自体がまるで生きもののように、夜の月に向かってそびえていたわ。……わたし? わたしは、子どもの頃からこのスラムで育った籠の鳥。つまり娼婦よ。母もそうだったし、姉たちも、わたしもそう。十三ではじめて身体を売ったわ。
月影楼は、腐食した水道管が張り巡らされた下に狭路があるせいで、いつだって湿気と悪臭が立ち込め、あとはネズミがはびこっていた。二十階以上はある違法建築のビルが群れをなしているから、昼であっても陽はほとんど射さない。常に闇のなかよ。ただ濃淡があるだけ。
かれがわたしのまえに現れたのは、月がひときわ高くのぼった、足元の闇が深い夜のことだった。かれは外の住人の顔をしていたわ。ええ、わたしたち月影楼の人間には、身なりひとつ、歩き方ひとつで、自分たちの街の人間かそうではないかがわかるの。かれはアジア人らしい艶のある黒髪にダークブラウンの眸をしていて、年齢は十八、十九――いやもっと年上にも見える。ジーパンにカーキ色のモッズコートを羽織っただけの出で立ちだったけれど、眸がわたしたちとはちがっていた。
狡猾な獣。ハイエナ。
目が合ったとたん、眸の奥にひそんだ獰猛さに、わたしは身震いしたわ。月影楼には、指折りの犯罪組織がいくつか拠点を置いていたし、麻薬の密売人も、殺人鬼だっていたけれど、かれはそれよりずっとこわいひとに見えた。
だから、売春街の片隅で客を待つわたしのまえで、かれが足を止めたとき、あぁやっぱりねって思ってしまったの。こういうたちのわるい客に引っかかってしまうのがわたしなのよ。
「こんばんは、お嬢さん」
コートのポケットに手を突っ込んだまま、かれは微笑みかける。
姉たちなら、かれの甘い声やここいらではめずらしい紳士然としたたたずまいにのぼせたかもしれない。けれど、わたしからすれば、だいぶ胡散臭い笑い方だった。
「君さ、歳いくつ?」
「……十七」
幾分警戒しながら答えたわたしに、かれは一笑した。
「うそだね。十五、いや十四くらいにみえる」
「わたしの歳なんてどうだっていいでしょ。買うの? 買わないの?」
かれをおそれているのに、わたしはついいつもの虚勢を張ってしまう。
見上げると、狡猾な獣を思わせる、金のひかりが散ったダークブラウンの眸と目が合った。かれはポケットから手を出すと、「もちろん買うよ」とへらりとわらって、銀の硬貨をわたしの手に落とした。
「おいで。ここの辛気臭い売春宿はどうにも好かない。場所を変えよう」
「ちょっと!」
断りもなしにわたしの手をつかんで、かれは月影楼の湿った階段を軽やかにのぼっていく。
いったいどこへ行くつもりだろう。かれは、いまにも切れそうな豆電球が灯った売春街を抜け、工場区画を過ぎ、共同住宅のひとつに入ると、年中壊れているエレベーターは無視して、階段をどんどんのぼっていく。
二十階はある違法建築を屋上までのぼりきる頃には、息が切れていた。アンテナとケーブルがごちゃごちゃと張り巡らされた屋上は猥雑で、だけども、ひときわ高い場所から見上げる月の近さに、わたしは息をのんだ。
いつ倒れたっておかしくないビルの屋上に、巨大な月がひとつ架かっている。
晩秋の凍てた木枯らしが吹いて、わたしは薄いワンピースに重ねたぺらぺらのショールをかき寄せた。屋上からは、この魔窟都市の外にひろがる、街の夜の灯りが見渡せた。輝く無数の宝石。きれいだとわたしは思った。
「ここから見える街は、ひときわまばゆいな」
ビルの端に立って、かれはポケットから取り出したコインを宙に投げる。もちろん落下防止柵なんてものはこの街のビルのどこにもついていない。かれが一歩、まえへと踏み出せば、ビルの下にひそむ、悪臭漂う坩堝にまっさかさまだ。
この頃にはわたしにも、かれの目的が売春でないことはうっすらわかっていた。
かれには飢えた男特有の、どろりとした熱や欲がない。かといって冷めているわけでもない。本性は欲深そうな男なのに、つけた仮面は温厚そうな青年であるのもちぐはぐだ。
「あなた、なにもの?」
「じつはね、追われていたんだ」
「そうは見えない」
「ばれたか。まあどちらかというと、追っているほうかも」
かれは肩をすくめ、モッズコートの内側から護身用の拳銃を取り出した。ただ持ち方がさまになっていない。てんで素人に見えた。
「追っている? だれを?」
「月影楼のエンプレス」
かれが持ち出した名前に、わたしは一度沈黙した。
見透かすように目を眇め、かれはすこしかがんで、わたしと視線を合わせる。
「君の母親。この街の支配者だ」
伝説の娼婦。もう表に出ることはない、この街の影の支配者。
エンペラーに対しエンプレス。女帝という意味だ。
その母を追っていると、かれは言った。しかも拳銃をちらつかせてである。
「君、母親を俺に売る気はない?」
ディナーに誘う程度の気軽さで持ちかけてきた男に、わたしは眉根を寄せた。
たしかに、わたしは運が悪い。母親が次々生み捨てた二十は下らない娘たちのなかで、このたちの悪そうなハイエナにまっさきに標的にされるなんて。
ぺらぺらのショールをかき寄せ、わたしはかれを睨んだ。
「あなた、本当になにもの?」
「この無法地帯を『掃除』したい政府に雇われた、しがない始末屋だよ。君は知らないかもしれないけど、いま外の世界ではこの街を一掃するべく、始末屋を集めてコンペが行われているありさまだから」
飄々とかれは言うが、始末屋のくせにひとりだなんておかしい。
指摘すると、今日は偵察だから、と嘘か本当かわからないことをこたえる。
「でもあなた、ぜんぜん始末屋っぽくない。銃の持ち方、下手だし」
「そうかな?」とかれは心外そうにつぶやいた。手元の拳銃に目を落として、それを玩具かなにかのように手のうえでごろっと回す。
「銃の持ち方イコール腕前とはかぎらないでしょ」
「なら、あててみれば?」
「君は恐怖では言うことを聞かない人間らしい」
「死ぬのはこわいわ。ただ、おびえて死ぬのと、好き勝手言って死ぬのがあるなら、後者がいいってだけ」
「ふうん。そういう考え方は結構すきだよ。シンプルで」
同調したかれが、おもむろに肩を動かしたので、撃たれる、とわたしは思った。思ったから、それよりもまえに口をひらく。十三歳から毎晩けだもの相手に死闘を繰り広げてきたわたしは、この手の勘が鋭い。
「教えてもいいわよ、母の居場所」
笑みをつくり、わたしは街のもっとも高いビルの一角を指す。
「ただし、廟のなかだけどね。――母は死んだの、三年前に」
命と引き換えにあっさり手のうちを明かしたわたしに、かれはふいに無表情になる。
「……それは知らなかったな」
「姉たちが必死に隠しているからね」
「でも、君は俺に話した。姉たちに怒られるんじゃない?」
「下手な銃に蜂の巣にされるのはごめんだもの。それに、こんな街つぶれてしまえってずっと思っていたから」
「ふうん?」
軽薄に相槌を打ち、「傾国の美女だなあ」とかれはつぶやく。
無表情だった面に、ふいに笑みが兆した。
「そのくせ、考えが甘いときた。母親を売ったら助けてもらえると思った?」
かれの指がゆるやかに銃の撃鉄を起こしたので、わたしは舌打ちをする。
かれにはディナーはいかが、と差し出した手で銃口を向けそうな、そういう危うい気配がある。欲しい情報が得られたのなら、わたしはもう用済みということらしかった。
確かにわたしは甘い。情報と引き換えに命乞いできると盲信してたわけではないけれど、賭けに負けたのだ。この男は女子どもも容赦なく殺すらしい。なるべく一発ですみますようにと祈りながら瞼をおろそうとする。視界にきらきらと光が飛び込んできたのはそのときだ。手を伸ばすと、さっきの硬貨だった。
「情報料だよ。傾国の美女」
笑みを含んだ声で嘯いて、かれはわたしのほうに近づいてくる。
わたしはそれでも身体を強張らせていたけれど、かれはわたしの横を過ぎ去るときに、かるくわたしの頭に手をのせただけだった。
「……殺さないの?」
「お望みなら、下手な腕前で銃弾一発撃ち込もうか? 死体処理は面倒だから、ここから蹴落としておしまいにするけどね」
「なんだか、腹が立ったわ」
「君さ、なまえは?」
歳を聞いたときと同じ、軽い口調でかれが尋ねる。
すこし考えたすえ、「十七」とわたしは素直にこたえた。
「歳を聞いたんじゃないんだけど」
「知ってる。十七がなまえなの」
「……十七番目の娘だから?」
「ちがう。十七時に生まれたからよ」
「なるほど。シンプルで、かえって粋かもね」
そんなことさっぱり思っていない口調でかれが言った。
異様に巨大な月が、かれの頭上で輝いている。そのまま立ち去ると思ったかれが、なぜか足を止めてわたしを待っているので、わたしは眉根を寄せた。
「いかないの?」
「いくよ。でも、はじめに渡した銀貨ぶんの夜がまだ残っている」
「あなた、まさか本当にわたしを買うつもりだったの?」
「君みたいな薄っぺらい女は好みじゃないから、そっちは期待できないな。でも、捨てるにはちょっと惜しい。一緒に来ない?」
差し伸べられた手は、月光のせいで金色にひかって見える。
ハイエナの手だ、とわたしは思った。
ぜったいに取るべきではない。この男についていく女は、頭がいかれている。
ちいさくわらって、わたしは男の手を取った。
「《ダリア》」
あたりまえのようにわたしの手を引いて歩き出しながら、かれが言った。
「君のことはそう呼ぶよ。エンプレスの娘にふさわしい名だろ?」
ダリアという花をわたしは見たことがない。
かれが何を想って、そう名付けたのかはわからないし、あとになって金貨の表にダリアの花が彫ってあったことを知ったときは、その安易さに呆れたものである。けれど、そのときはダリアという響きに、わたしは満足した。
「あすの朝、起きてもその気だったら商談成立で」
ちっとも誠意のない言葉で、かれはわたしをこの街から連れ出した。
・
・
・
「そうして、わたしはかれとともに街を出たの」
花精は長い睫毛を伏せて、回想を終えた。
馨の顔をちらりと流し見て、「結末はあなたの想像にお任せするわ」と微笑む。
「かれ、ろくな死に方をしないように思えるでしょう? 期待どおりかもしれないし、案外ちがったかもしれない」
「あなたが住んでいた街は?」
馨の問いに、花精は笑みを深めた。
「たぶんあなたがどんなに調べても、月影楼なんて街は見つからないと思う。アジアのどこにもね」
いつの時代の、どの国の街であったのか。
ちいさな無法地帯は、やはり政府に一掃されたのか。あるいはいまも、ほそぼそとどこかで営みを続けているのか。
「わたしの未練はひとつ。あのとき、かれをビルの屋上から突き落とさなかったことよ」
目を伏せた花精の顔を盗み見て、馨は軽く眉根を寄せた。
「そうは見えないけれど」
「そう?」
「うん。あなたはひねくれてそうだから」
「失礼ね。本当だって、すこしは混じっているわ」
「月影楼は、本当に存在する?」
「するわ。探してみて」
夜伽をするまえのような甘やかな声で囁き、花精は馨のかたわらにかがんだ。まぼろしの指先が、つっと馨の咽喉を撫ぜる。
見つかりっこないけどね、と意地の悪い一言を残して、花精のすがたはかき消える。静かになった殿内で、しばし扉に吹きつける木枯らしの音に耳を澄ませ、馨は神前にそっと花を献じた。
/承前/
端末に表示された検索結果を見て、馨は嘆息した。
「やっぱりないかあ……」
「どうしたの、馨くん」
頭上から待ち人の声がしたので、馨は顔を上げる。
いつもはバス停で待ち合わせることが多いが、十一月に入り寒さが厳しくなってきたので、最近はどちらかが遅くなるときは教室内で暇つぶしをしている。馨とちがって活動的な鹿乃子は、弓道部に放送委員会にと毎日忙しい。必然、待っているのは馨が多かった。
「誰も知らない街ってちょっと惹かれるなって」
通学用のリュックを肩にかけ、教室を出る。
まだ夕方の四時なのに、廊下は薄闇に沈んで、窓から見える山の端には一番星がのぼっていた。冬が近いのだと、膚で感じる。
「えー? 馨くん、引っ越したいの?」
「引っ越さないよ」
どこにも行かない。行くわけない。
鹿乃子が隣にいるこの場所が、馨はいちばんすきだから。
思ったけれど、校舎内で口にすることははばかられて、ダッフルコートの襟元に顎をうずめる。猥雑なまぼろしの街にひらくダリアの花が、ふいに瞼の裏によみがえった。
「俺の女王さまはかのだな」
「ええっ、そういう趣味はないよ!?」
一日一花。繰り返される、馨の日常である。
ここに、ダリアがいた。まぼろしの街にひらいた女の花だった。
十一月/ダリア(終)
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