十月/金木犀
さて、ここに一枝の
濃緑の葉よりこぼれる橙の小花から、深く艶美な香りがたちのぼる。記憶の小部屋に隠したひみつを、指でそっとなぞるような香りだ。とくに夜ほど匂い立ち、ひとをつかの間の懐古の回廊へといざなう。
その花の枝に、花鋏をあてる。みずみずしさを感じながら、チョン、と切る。
そういう一連の動作を、
十六の、とりたてて特徴のない、咲くまえの水仙のように、しゅっと姿勢だけはよい少年だ。紺のブレザーを脱いだ、長袖のシャツからのぞく手首のかたちだけが、少年というよりは青年に近いシンプルな硬い線をそなえている。手に取ったはずみにはらりと小花のひとつが、正座する馨の膝のうえに落ちる。一瞥を向けただけで花を払いはせずに、馨は鋏を置いた。
切られた花の枝から、微かに香気がたちのぼる。
目を細めた馨のまえに少女の花精が現れた。花精は尋ねる。
「未練をひとつ、話してもいい?」
馨は目を伏せて、ただ耳を澄ませている。
「――はい」
あどけなく微笑み、花精がかたりだす。
・
・
わたしには、すきなひとがいました。
そのひとはいつも、秋の陽が射す教室の窓辺でだれかと笑いあっている、爽風のようなひとでした。クラスの中心にいる声が大きくて元気な男子たちとはちがって、そのひとはいつだって「その他大勢のひとり」になってしまいそうな、取り立てて何かで目立つことのない、ふつうの男の子だったけれど、クラスの誰よりも毎日たのしそうにしていた。かれはきっと、たのしいことを見つけるのが、誰よりも上手なひとだったんでしょう。
わたしはかれがすきだった。
高校の入学式があった日、花吹雪のしたで老いた猫を撫でるかれを、はじめて見かけたときから。労わるような手つきのやさしさと、身体にあっていない制服の着方のギャップが、ちょっとかわいいなって思ってしまったときから。
わたしのほうから、かれに声をかけたことは、一度だってなかったのだけども。
それでも、わたしは教室の片隅から、かれを目で追いかけ続けた。
かれが掃除当番を絶対にさぼらないところとか、みんなが嫌がるゴミ捨てをだいたいやってくれるところとか、朝いちばんに教室に来て、花の水を替えているところとか、宿題を忘れないところ、教室の窓からときどき外を眺めているところ。みんな、そっと盗み見ていた。そうして見つけた、かれのすてきなところを、わたしは仲良しのミーコに話すのだけども、ミーコはだいたいつれない仕草で聞き流しているだけで、相槌代わりにあくびをしたりする。ミーコはかれにあまり興味がないようだ。こんなにすてきなのに、目が節穴なのだろうか。
かれはたいてい、教室の中心ではない場所で、気の合う友人たちと軽口を叩いたり叩かれたりして一日を送っていたけれど、なぜか昼休みだけは裏庭の金木犀のそばで、ひとりでお弁当を食べる。
一緒に食べる友人がいないというわけでも、教室の居心地がわるいというわけでもなくて、かれは「裏庭でひとりでお弁当を食べること」を習慣にしているらしい。それは、「その他大勢のひとり」というカテゴリにだいたい埋没してしまうかれの人間性のなかで、唯一はっきりと「ほかのひととちがっている」ところだった。かれがなぜ、ひとりで昼ごはんを食べたがるのかを、わたしは知らない。なにしろ、かれはこの学校に入学したときから裏庭ランチを日課にしており、わたしはかれと話したことが一度もなかったので。
その日はきのうまで降り続いていた雨が止み、秋晴れの空がのぞいた以外は、なにひとつ変わったところのない、ふつうの日だった。雨のあいだは教室でごはんを食べていたかれも、陽光に誘われるようにひとり裏庭にやってきて、金木犀のそばにあるベンチに腰掛けた。
金木犀は、まんかいだった。
橙の小花はどれもひらき、深く艶美なあの香りを、微かに濡れた土のうえに振りまいている。スニーカーを履くかれの足元にも、かれの紺のブレザーにも橙の小花がのっていた。
ひと目見て、わたしは深く息をつきたくなってしまった。
秋晴れの空。まんかいの金木犀。かれ。香りごと硝子瓶にしまっておきたくなるような、うつくしい光景だった。
わたしがいくらかれのことを話しても興味がなさそうだったミーコは、こういうときだけ、かれのベンチの隣に平然と座り、お弁当のおかずを物色している。ずるい。ミーコには、こういう油断ならないところがあるのだ。
お弁当を食べるかれにくっつくミーコを遠くから恨めしげに睨んでいると、ふいに野分のような強い風が裏庭に吹いた。橙の小花がはらはらと散り、わたしはプリーツスカートを握りしめたまま、身体を突き抜ける風のつめたさに身震いする。
かれと目が合ったのは、そのときだった。
視線がかち合ったときづいた瞬間、わたしはとっさに顔をそむけた。心臓がばくばくと飛び出しそうなくらい早鐘を打つ。そのまま逃げだそうとしてから、そんな必要はないかと思い直し、だけども、足をうまく動かすこともできずにその場に立ち尽くす。
「……あのさ!」
声に引かれておとがいを上げると、かれはこちらをまっすぐ見ていた。
気のせいではない。わたしを、見ていた。
サンマのフライに鼻をひくつかせていたミーコが、尻尾をひるがえしてかれの足元から立ち去る。わたしの話はだいたい聞いていない、おばあちゃん猫のミーコ。
「ずっと気になっていたんだけど。話しかけていいか、わからなくて」
「え?」
「入学してからずっと俺のこと、見てたみたいだったから」
飛び出しそうなくらいだった心臓が、ばくっと大きな音を立てて機能を停止する。
実際、停止なんてしてないんだろうけれど、ほんとうにそう錯覚してしまうくらい、びっくりした。かれが、わたしにきづいていたことに。わたしの視線に。わたしの存在に。だって、きづくわけないって思っていたからこそ、ぶしつけなまでに毎日眺め回せていたわけで。
「ごめんなさい!」
とっさにわたしは謝っていた。
「すとーかーしていたわけじゃなくて……」
「え、おもってないけど」
かれが打ち返す球は、かれらしいスローな直線を描いている。
こういうときに、かれはたぶん嘘をつかない。わたしはほっとして、及び腰になりかけていた姿勢をすこし正した。距離は離れていたけれど、真正面から向き合うと、かれのほうが背が高いことにきづく。春にはぶかぶかでかわいい、と思っていた制服はいつのまにか、かれの背丈にそぐわっていた。たった半年なのにすごいなあ、とへんなことで感心してしまう。
「俺に聞いてほしいことがあるんじゃないの?」
尋ねるかれに、微かに顎を引く。
そう――かれに伝えたいことなら、あった。
入学式の花吹雪のなかで、ミーコを撫ぜるかれを、はじめて見かけたときから。どうしてミーコにきづいたんだろうってふしぎに思った。だって、ミーコは入学式の前日に、わたしと一緒に交通事故に巻き込まれて死んだので。
それからも、ふしぎなことはたくさんあった。
この学校は墓地の跡地に建てられたせいで、あちらこちらでその手の「声」が絶えないというのに、掃除当番を絶対にさぼらないかれが、せっせと半年掃除を続けるうちに、みんな静かになって、校内には爽やかな風が吹き抜けるようになったこととか、クラスの皆が行くのを嫌がるゴミ捨て場には、ミーコも恐れて近づかない鼻塚があること、入学式を迎えられずに死んだわたしを悼んだ担任の先生が、そっと持ち去られた机の代わりに窓辺に生けた花、その水替えをかれが毎日してくれていることとか、校庭で遊ぶミーコのすがたをかれが窓越しにときどき目を細めて眺めていることとか。
かれのすてきなところが、わたしにはとってもたくさんわかるのに、クラスメートの皆があまりわかっていないらしいのも、歯がゆかった。それでもかれはぜんぜん平気そうだったし、いつも楽しそうにしていたけれど。
伝えたいことがあった。
ずっと伝えたかったこと。金木犀が散り去るまえに。
だけど、いざ向き合うと胸が詰まって言葉がぽろぽろ逃げてしまう。わたしは何度か息を吸って吐くのを繰り返し、「……
「好きなひと、いるの?」
それはかれにとっては、思いもよらぬ言葉だったらしい。
瞬きをしたあと、すこし視線を逃して、それから思い直したようすで顔を上げた。
「うん。いる」
かれらしいシンプルなこたえだった。
うん、知っているけど。これでも半年間ずっとかれをすとーきんぐしていたので。
窓から校庭に向けられるかれの視線が、ミーコだけでなくだれを追っていたのかとか、なにを見つけたときにやわらかく変わるのかとか、かのじょと話しているあいだよりも話し終えたあとに雄弁に気持ちを語る口元だとか、毎日眺めていてわからなかったらおかしい。
かれが取り繕わなかったことに満足して、「そっか」とわたしはほほ笑んだ。
さよなら、わたしの初恋。
「ずっと、坂上くんに伝えたいことがあったんだ」
「うん」
「ミーコのお墓を作ってくれてありがとうって」
金木犀の根のそばには、ちいさなお墓とあとは野花が欠かさず供えられている。
あぁ、とそれできづいた顔をして、かれははにかみがちに眉をひらいた。
「ううん。ぜんぜん」
「わたしの花の水替えも」
「それも、ぜんぜん」
金木犀の小花が、金の砂粒のようにかれの肩に落ちる。午後のひかりがかれの輪郭をあかるくふちどっていた。ふいに、わたしは泣きたくなってしまった。深く艶美なこの香りごと硝子瓶にしまっておきたくなるような、うつくしい光景だった。わたしの記憶の底、ひみつの小部屋の窓際にずっと置いておきたくなるような。
あとでミーコに自慢しよう、とわたしは胸のうちでこっそり決めた。
・
・
「未練はね、一世一代の告白をできなかったこと」
花精は苦笑まじりに肩をすくめる。紺のブレザーの制服に、艶やかな黒髪が落ちている。ひかりを弾く、細くやわらかな黒髪。
「したかったな、告白。ずっとしたくて、半年間すとーきんぐしていたのに」
「すればよかった」
「うん。でも坂上くんはまじめだから、絶対振っていたと思う」
プリーツスカートを花びらのようにひるがえして立ち上がり、「だから、よかったんだよ」と花精は後ろで手を組んで、のびやかにほほ笑んだ。
「たのしかったから……終わってしまうのは、もったいない」
馨はわかるような、わからないような顔をする。
馨の表情がおかしかったらしく、花精は笑みを深めた。ひかりが射す、朝の殿内をなにかを惜しむように一歩、二歩と歩く。馨は黙したまま、透明な足音に耳を澄ませる。やがて歩みが止まり、花精が閉まっていた扉をひらいた。
「じゃあね、ばいばい。坂上くん」
あとはなにもいない。実際は閉まったままの扉から漂う花の残り香に、馨はつかの間目を細め、神前にそっと花を献じた。
/承前/
「あれ、馨くん、遅弁?」
バスの停車場のベンチに座って、膝上にお弁当を広げていた馨に、あとになって追いついてきた
冬物の制服にパーカーを羽織った鹿乃子は、部活で使っている弓具をベンチに立てかけて、馨の隣に座った。横から手を伸ばして卵焼きをひときれ勝手に食べる。
「馨くんちの卵焼きはお出汁がきいてて好きだなー」
「じゃあ残りも、かのにやる」
「元気ないね」
「そんなことないけど」
「裏庭のひとりランチはもうやめたの?」
じゃあもうひとつ、と卵焼きをつまみながら、鹿乃子はなんでもないことのように尋ねる。つめたくなったごはんに鮭をのせて口に運びながら、うん、と馨はうなずく。
「待ってたひとに会えたから、もうおしまい」
その言い方、とからかおうとして、鹿乃子はふいに口を閉ざす。
隣でのろのろとごはんを咀嚼する男の子が、いまにも泣き出しそうに見えたから。
卵焼きをのみこむと、ちいさく伸びをして、ベンチに深く座り直す。もしかしたらバスを何台か見送るかもしれないし、そうしないかもしれない。どちらであっても、遅い昼ごはんを馨が食べ終えるまでは、待っていようと思った。
一日一花。繰り返される、馨の日常である。
ここに、金木犀がいた。心の片隅にしまわれる、ひみつの花だった。
十月/金木犀(終)
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