おまけ(約4,000文字)

秋人

帰る場所

 ――秋と冬。家はお向かいさんで、名前はおとなりさんだね。


 美冬みふゆがそういったのは、たしかおれが小学校二年生のとき。自分の名前の由来を調べるという宿題が出された日のことだった。


 単純な好奇心から、美冬にもその由来をたずねてみれば『冬の澄んだ夜空に、星がとてもきれいに輝いていたから』という答えが返ってきた。おれの、秋に生まれたから秋人あきひとなんていう、そっけない由来とはくらべものにならない。内心しょぼくれていたおれに、美冬はにっこりと『名前はおとなりさんだね』と、つづけたのである。


 六歳上の美冬がときおり見せるその笑顔に、わけもなくドキリとしたことをおぼえている。うれしそうなのに、ほんの一滴さびしさがにじんでいるような、なんとも不思議な笑顔。それが、おれのなかで彼女の存在を特別なものにしたような気がする。


 そして、美冬がおとなりさんだといってくれた自分の名前も、すこしだけ好きになれた。



 ❅



 おれの両親はおたがいを嫌っていた。いったいなぜ結婚したのか。ふたりを見ていると、恋愛どうこう以前に人間不信になってしまいそうだった。

 あの人たちは、他人のまえでだけ『いい夫婦』で『いい親』になる。ほんとうに、ものの見事にパチンとスイッチが切りかわる。俳優にでも転職したら案外成功するかもしれない。

 家族だけになったときの、刺々しい空気との落差にはいつまでも慣れなかった。そのなかでおれにできたことといえば、親の手をわずらわせない、聞きわけのいい子どもでいることだけだった。


 はたして自分はのぞまれた子どもだったのか。


 もし美冬がいなければ、そんな思考にのみこまれていたかもしれない。


 彼女といるだけで、不思議と自分を肯定できた。彼女の顔を見るだけで、なぜか心がやすらいだ。

 記憶にないほどちいさなころから知っていて、恋も愛もわからないころから特別だった年上の幼なじみ。気がついたときにはもう、好きで、大切で、かけがえのない女性ひとになっていた。


 ただ、いくら好きでも、やっぱりあの告白は失敗だったと思う。


 当時おれは十六歳で、美冬は二十二歳。就職がきまった彼女から、会社の近くでひとり暮らしをすることにしたと聞いて、おれは自分でも驚くほど動揺してしまった。

 考えないようにしてきた可能性が現実になってしまった衝撃。美冬と離ればなれになるなんて、考えたくなかった。

 とはいえ、その時点ではまだ気持ちを伝えるつもりなんてなかった。

 なかなか会えなくなるとしても、つながりがなくなるわけじゃない。今告白したところで相手にされるわけがない。伝えるにしても、もうすこし大人になってからだ。なかばいい聞かせるようにではあったけれど、たしかにそう思っていたのである。


 しかし当日。いざ引っ越しの手伝いに行ってみれば、アパートは電車で三十分もかかる場所で、会社に行けば大人の男だってたくさんいるはずで、自分たちの年の差を考えたとき、たまらなく不安になった。

 おれが社会人になるまで、美冬がひとりでいる保証なんてどこにもない。きれいだし、やさしいし、なにより、すでにいつ結婚してもおかしくない年ごろなのだ。考えれば考えるほど不安になって、もう、踏みとどまることができなかった。



 ❅



 好きだと告げたあの瞬間、美冬の心にシャッターがおろされたのがわかった。ものすごいスピードで、ガシャンという音が聞こえてきそうな勢いだった。


 とりつく島もないというのは、きっとああいうことをいうのだと思う。気持ちは受けとれない。これまでのような関係にももどれない。幼なじみとしての電話やメールもするなと、美冬の拒絶は徹底していた。


 何度も諦めようと思った。忘れようと思った。でも、無理だった。


 おれは、美冬だから好きになったのだと思う。年上も年下も関係なくて、美冬が美冬だったから好きになった。きっとこれからもずっと好きだ。

 でも、おれの気持ちが彼女の顔を曇らせてしまうのなら、恋心なんて捨てたほうがいいとも思った。

 だからおれは、東京の大学に進学をきめた。むだな抵抗かもしれないけれど、物理的に距離ができれば、気持ちも遠くなるのではないかと考えたのである。


 実家が近いぶん、完全に縁が切れることはきっとない。薄くでもつながっているかぎり、いつか関係が修復できる日がくるかもしれない。その日のためにも、気持ちに整理をつける必要がある。そう、思っていたのだけど、現実はままならない。


 おれの高校卒業にあわせて、両親が離婚することになった。それ自体に驚きはなかった。やっとか――というのが正直なところだ。ただ、家も売り払うと聞かされ、ガツンと頭を殴られたような気がした。どちらかは家に残るのだろうと、勝手に思いこんでいたから。

 母親は東京の実家に、父親は市外にある会社の近くに部屋を借りるという。

 つまりもう、この街におれが帰ってくる家はなくなるということだった。



 ❅



 出発の朝。季節はずれの雪に、街は白くおおわれていた。こんなに積もるなんて、何年ぶりだろう。雪が降ること自体あまりない土地である。しかも、もう三月だというのに。


 昨夜、二年ぶりに会った美冬は、なんだかすこしちいさくなっていた。もし口にだしていたなら『あんたがおおきくなったんだよ』と、いわれていたかもしれない。残念ながら、そんな軽口をたたく余裕は、これっぽっちもなかったのだけど。


 ギリギリまで迷った。二年まえのあの日、自分たちの関係は壊れてしまった。おれが、壊した。もうこのまま、なにもいわずに行くべきじゃないかとも思った。


 だけど、雪が降った。春を目のまえに、冬の象徴のような雪が降ってきた。背中を押されたような気がした。会いに行けと、音もなく空から落ちてくる白い結晶に、そういわれたような気がした。


 ――もう一回くらい、おれにチャンスをやってもいいと思ったら見送りにきて。


 あんないいかたで、なにがどう伝わったかはわからない。

 ただ、急激にせりあがってきた、熱いかたまりのすきまから押しだした、精一杯の言葉だった。


 恋心なんて捨てたほうがいいと思う自分。

 ずっと好きだと思う自分。

 美冬の負担にはなりたくないと思う自分。

 美冬の特別になりたいと思う自分。


 矛盾だらけの思いはむかしからなにひとつ変わらない。自分でも扱いかねる気持ちはすべて本心だ。


 ホームに発車メロディが流れだしても、美冬の姿は見えなかった。


 予想はしていた。きっと答えは二年まえに出ていた。おれが、認められなかっただけで。


 これでほんとうにお別れだ。この街とも、美冬とも。せめて『ありがとう』と伝えたかったなと、そんな往生際が悪いことを考えながら乗りこんだ電車は、おれの感傷など関係なく走りだす。


 幼いころ『ミフユ』と発音できなくて、いつのころからか『ミユちゃん』と呼ぶようになったこと。

 小学校の高学年になるころには、素直に『遊んで』とも『遊ぼう』ともいえなくなって、彼女と会うために『宿題を見て』とか『勉強を教えて』という口実をつかうようになったこと。


 頭のなかはあふれてくる思い出に占領されていた。だから、一瞬幻覚かと思った。

 乗降口わきのフリースペースから、見るともなしに見ていた車窓の外。歩道橋の上に彼女はいた。


 音も、景色も、すべて消えた。視界に残ったのは、ぽつんと佇む美冬の姿だけ。


 ダウンジャケットとズボンと、考えるまえに両手があちこちのポケットをさぐってスマホをとりだしていた。

 文面を考える余裕はなかった。みつけたと、ちゃんと気がついたと、早く伝えないと。なぜか、彼女が泣いているような気がした。


 混乱のためか手がうまく動かなくて、文字を打ちこむのも苦労する。


 ――歩道橋


 やっとのことで送った二年ぶりのメッセージは、たった三文字だった。



 ❅



『なあ、週末』

「いかない」

『せめて最後までいわせろよ』

「どうせ合コンの誘いだろ」

『そうだけど。もったいねえな。ぜってーモテるのに』

「べつにいい。好きな人いるから」

『はいはい、一途な秋人くん。こうなったら、今度は適当にだましてつれてこう』

「聞こえてるぞ」

『あはは。じゃあなー』


 大学で知りあった、パーティー好きの友人からの通話を切って苦笑する。よくもこうしょっちゅう合コンを開催できるものだ。


 夜十時。バイトをおえて先ほど帰宅したところである。東京での暮らしもそろそろ三か月。下宿先でもある祖父母のサポートもあり、なにもかもがあわただしく感じる生活にもようやくすこし慣れてきた。


 美冬とは週に何度か、電話やメッセージでやりとりしている。といっても、恋愛からはほど遠い。


 なにしろ、美冬から送られてくるメッセージといえば、ごはんはちゃんと食べてるかとか、お風呂はゆっくりはいれとか、カゼひいてないかとか、これはもはや姉がわりいうより母がわりなのではないかと思うものばかりなのである。


 もっともおれが送るのも、これから講義とか、バイトおわったとか行動報告のようなメッセージばかりなのだから、美冬のことはいえない。


 でも、そんな色気もそっけもないようなやりとりのなかでも、ひとつわかったことがある。

 幼いころから感じていた、美冬の笑顔にひそむわずかなさびしさの正体。


 ――うちの親もおなじ。今も現役の仮面夫婦。


 電話で話したとき、やっぱりどこかさびしそうな声で、彼女はそう教えてくれた。


 好きで、大好きで、ずっと見てきたけれど、おれはまだ、彼女のことをちゃんとは知らないのかもしれない。


 生まれ育った故郷に帰る家はもうない。けれど、美冬がいる。だからおれは、夏休みに『帰省』するつもりだ。


 電話やメッセージだけではたりない。聞きたいことも、話したいこともたくさんある。


 ピロンとスマホがメッセージを受信した。バイト帰りにこちらが送った、行動報告のようなものへの返信だろう。


 ――お疲れさま。ごはんは食べた?


 恋人への道は、まだ遠そうである。



     (おまけ――了)



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雪を溶く熱 野森ちえこ @nono_chie

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