出発の朝
一夜明けて、あたしは実家の最寄り駅、そのホームが見渡せる歩道橋の上にいた。空にはまだ厚い雲がいすわっている。
朝方まで降りつづいた雪のおかげで、街はどこもかしこも白くおおわれていた。道もところどころ凍っていて、足を踏みだすたびにツルツルすべる。移動するにも、いつもの倍は時間がかかった。電車もすこし遅れている。ホームにいる人間が普段より多いのはそのせいだろう。
この二年、あたしはほとんど実家に帰っていない。お正月に、ほんの三十分ほど立ち寄ったくらいだ。
なぜ両親がいまだ離婚せずにいるのか、あたしにはまるで理解できない。口をひらけばたがいの悪口ばかり。結婚なんてするもんじゃないと、子守唄のように聞かされてきたあたしは、恋愛にも結婚にもまったく夢を持てずに育った。
だから秋人の告白にも、ある意味失望してしまったのかもしれない。大切だからこそ、彼とは幼なじみのままでいたかった。壊れない関係でいたかった。家族仲がいい彼にはわからないのだろうと、そう思っていた。
なのに、秋人が置かれていた境遇もまた、あたしのそれとよく似ていた。きのう彼から聞くまでそんなことすこしも知らなかったわけだけど、おそらく秋人のほうもあたしの家庭環境には気がついていないと思う。
あたしはべつに、隠そうとして隠していたわけじゃない。ただ、ミユちゃんミユちゃんと慕ってくれる彼がかわいくて、一緒にいるとたのしくて、その笑顔を見るだけで心がやすらいだ。家のことなんて、わざわざ話す必要がなかったのだ。
もしかしたら、秋人もおなじだったのかもしれない。
二年まえときのうと。彼はいったい、どんな気持で『好きだ』と伝えてくれたのだろう。
あたしとおなじような環境に育ちながら、どうして彼は、恋愛を否定せずにいられるのだろう。
わからないけれど、秋人は昨夜『おれにチャンスをやってもいいと思ったら見送りにきて』といった。
ひと晩、考えた。
秋人が好きかと問われれば『はい』と答える。
秋人が大切かと問われれば、やはり『はい』と答える。
でも、それが恋愛感情かと問われたなら、正直わからない。
あたしだって、今まで恋をしてこなかったわけじゃない。それなりに彼氏がいたこともある。ただ、それなりはやはりそれなりでしかなく、どこかゲーム感覚のようなところもあって、そういう意味では恋をしたことがないのかもしれないと思う。
考えすぎて、しまいには『そもそも恋ってなに?』と、おかしな方向に思考がまわりはじめてしまって、しかもなにひとつ答えが出ないまま朝になってしまった。そこでひとつ、あたしは賭けをすることにした。
見送りはする。だけど、ホームには行かない。
もしも、秋人が歩道橋にいるあたしに気がついてくれたなら、そのときは幼なじみとしてではなく、ひとりの女性として彼と向きあってみようと。気がつかなかったのなら、秋人との関係はすべてそこでおわりにしようと。そう、きめた。
❅
エスカレーターに乗った秋人が、スーツケースを引いてホームに出てきた。昨夜とおなじ、黒っぽいダウンジャケット。歩道橋の上からでは、その表情まではわからない。
きょろきょろと、どこか落ちつかないのはあたしの姿を探しているからだろうか。惜しいな、と思う。左右だけじゃなく、上も見てくれたらいいのに。
ほどなくして秋人が乗る電車がホームにすべりこんできた。降車する人間はほとんどいない。ならんでいた人たちがぞろぞろと乗りこんでいく。
軽やかな発車メロディーが流れだした。
乗車する人々からひとり離れて、最後までホームに残っていた秋人も、スーツケースを持ちあげながら、なにかを振り切るように大股で乗りこんだ。
ドアがしまり、やがてゆっくりと動きだす。そうして電車は、加速しながら歩道橋の下を通過して、瞬くまにあたしの視界から消えた。
あっけない。
笑おうとしたら目に映る線路がにじんで、右からひと粒。左からもひと粒。涙が落ちた。ああ、バカだなと思う。こんな賭け、なんの意味もない。誰もよろこばない。自分の気持ちを運にまかせるなんて、ひどい話だ。
やっと、わかった。
二年まえ、秋人をつきはなせたのは、おたがいの実家がすぐ近くにあったからだ。彼が大人になって、いつかほかに好きな人でもできたら、また幼なじみにもどれるのではないかと、そんな期待を持てたからだ。
だけどもう、この街に秋人が帰ってくることはない。
東京の大学に行けば、おなじ年ごろの、おしゃれでかわいい女の子がたくさんいるだろう。秋人もどちらかといえばカッコイイほうだし、背もすらっと高くなって、性格だってやさしい。きっと、モテるようになる。そうすれば、あたしのことなんてすぐに忘れてしまうにきまってる。
それでいい。自分できめたことだ。未来を運にまかせてしまったのは自分だ。それでいいのだと納得しようとするのに、そんなのイヤだと心が悲鳴をあげる。
あたしはほとんど無意識に、コートのポケットからスマートフォンをとりだしていた。
もしも、ほんとうは見送りにきていたのだといったら、秋人は信じてくれるだろうか。今さらだとか、でもとか、だってとか、意味をなさない言葉が脳内を埋めつくす。そのとき、両手で握りしめていたスマートフォンからピロンと場ちがいなほど軽い電子音が響いた。ショートメッセージを受信する。
――歩道橋
たった三文字。差出人は、秋人。ひらいたそばからつぎのメッセージが届く。
――ありがとう
さらにもうひとつ。
――っていっていいんだよね?
熱いかたまりがこみあげてくる。こらえようとしたら、のどがぐうっとおかしな音を立てた。
ぬぐってもぬぐっても涙があふれて、なかなか返事が打てない。
やっとのことで『うん』と、ふたつのひらがなを送信する。これが恋なのかどうかはやっぱりわからない。だけど、チャンスをもらったのは、きっとあたしのほうだ。
ふいに、じんわりとした熱を後頭部に感じて、振り返りながら空を仰ぎ見た。
雲のわれ目からさしこむ太陽の光。
街に降り積もった白い雪が、キラリときらめく。
ピロンとまたひとつ、新しいメッセージを受信した。
(本編――了)
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