雪を溶く熱
野森ちえこ
本編(約6,000文字)
美冬
再会の夜
ざく、ぎゅ、ざっ、ぐっ。
慣れない雪道をおっかなびっくり進む。足音がぎこちなくて、自分ですこし笑ってしまう。
いったん足をとめて、空を見あげた。ずいぶん明るい。地面をおおう雪の白に、街灯や家からもれる光が反射しているのだろう。うすいピンクと青みがかった灰色と――なんとなくメルヘンチックな夜空である。
都会とはいえないまでも、ど田舎というわけでもない。このあたりは比較的温暖な地域で、雪が降ること自体あまりなかった。積もることなど数年に一度あるかないかだ。
生まれて二十四年、ずっとこの土地で暮らしてきたあたしの記憶にあるかぎりでは、たぶん片手でたりるくらいだと思う。しかも、もう三月だ。いわゆる異常気象というやつなのかもしれないけれど、いつもは見られない景色になんだかワクワクしてしまう。はあーと、わざと吐きだした息が白い。
ひらひらと、無数の雪片がまた落ちてきた。音もなく降りそそぐ雪の結晶。見あげたままのひたいに、頬に、ふわふわと着地する。つめたい。
だけど三月か――と、ふいに脳裏をよぎったある顔が、たのしい気分に水をさした。
あいつは、無事卒業できたのだろうか。わりと要領のいいやつだったから大丈夫だとは思うけど。もう二年ほど顔をあわせていない。進学はどうするのだろう。
浮かんだそばから消えていく思考に、今度はわざとではないため息がこぼれた。のろのろと傘をひらく。
あのころは、ずっと幼なじみでいられると、なんの疑いもなく信じていた。我ながらおめでたいと思う。それでも、つい考えてしまうのだ。いつまでも姉弟のような関係でいられたらよかったのに、と。
❅
ひとり暮らしをしているアパートにとぼとぼと帰りつく。会社は実家からでもかよえなくはないのだけど、あたしは就職をきっかけに独立した。どうせなら通勤に便利な場所で暮らしたかったし、狭くても自分だけの城がほしかった。なにより、両親から離れたかった。
三階建ての二階。階段をあがりきったところで若い男の姿が目に飛びこんできた。ギョッとして足がとまる。
そいつは廊下のつきあたり、あたしが借りている部屋のドアにもたれかかっていた。黒っぽいダウンジャケットのポケットに両手をつっこんで、思いつめたような表情で足もとをみつめている。
先ほど脳裏をよぎった顔にそっくりに見えるのは気のせいだろうか。それとも、まぼろしだろうか。混乱する思考に硬直していると、あいつにそっくりな青年がふとこちらを見た。その顔が一瞬ホッとしたようにほころんで、だけどすぐに引き締まる。
「ミユちゃん」
今度は幻聴か。年度末でこのところ残業つづきだし、疲れているのかもしれない。
まぼろし青年が近づいてくる。二年まえはまだ残っていた少年のやわらかさがなくなって、顔の輪郭がずいぶんシャープになっている。鼻の頭がうっすら赤くなっているのは寒さのせいか。幻影にしてはリアルすぎないだろうか。
ためしに「なにしてるの」とたずねてみれば、すこし緊張したようすで「待ってた」と返ってきた。
足音もするし、影もあるし、会話もできる。なにより、
「どうしても、話したいことがあって」
意を決したようにそういったのは、本物の
❅
――好きなんだ。このままミユちゃんと離ればなれになるなんて、そんなのたえられない。
そのとき秋人は十六歳で、あたしは二十二歳だった。
お向かいの家に生まれた男の子。
ずっと弟のように思っていた男の子。
彼は最初『ミフユ』といえなかった。だから『ミウちゃん』とか『ミューちゃん』とか、そのときどきで呼びかたが変わっていたのだけど――たしか、小学校にあがったころからだった。だんだん『ミユちゃん』と呼ばれることが増えていって、最終的にその呼び名が定着したのだ。
まさに文字どおり、赤ん坊のころから知っていただけに、彼からの告白は衝撃だった。十代の男の子が年上の女性に憧れるというのは、特にめずらしいことではないと思うけれど、まさか自分と秋人のあいだにそんなことが起こるなんて、想像もしていなかった。
だけど、秋人は真剣だった。適当にあしらうことなんて、とてもできなかった。なにより、彼の気持ちを知ってなお弟としてあつかいつづけるということは、彼を傷つけつづけるのとおなじだと思った。だから、あたしは拒絶した。それまでの関係も、すべて。
「おれ、東京の大学に行くんだ」
東京。東京か。そういえば、あたしは東京にあまりいい思い出がない。以前は都会への憧れもそれなりにあったのだけど、中学の修学旅行で東京をまわったとき、もともと人ごみが苦手だったのもあって、そうそうにダウンしてしまったのだ。どこに行っても人人人で、観光どころではなかった。そのときかもしれない。自分に都会暮らしはできないと実感したのは。
思考がもつれて、どうでもいいような記憶が浮かんでは沈んでいく。
しかし、秋人はそんなことをいうために待っていたのだろうか。たしかに、進学はどうするのだろうと多少気にはなっていたけれど、こちらから聞くつもりはなかったし、わざわざ報告しにくるようなことでもないはずだ。
二年まえ、あたしは秋人に『つきまとうな』といった。告白をつっぱねてからもマメに電話やメールをしてきたものだから、あまりしつこいとストーカーだと訴えるとおどしたのだ。
すこし胸が痛んだけれど、彼の気持ちを受けいれられない以上、ズルズルとつきあいつづけるのはおたがいのためにならないと思った。
まさか忘れたわけでもないだろうに。怪訝に思うあたしをよそに、秋人はたんたんと言葉をつづける。
「両親も離婚して、家も売ることになった。だからもう、ここには帰ってくる場所がなくなる」
一瞬、なにをいっているのか理解できなかった。にわかには信じがたい。あたしはぼう然と秋人を見あげた。
男の子というのは、高校生くらいで急に背が伸びることがあるという。きっと、秋人もそのタイプだったのだろう。以前はほとんどおなじ目線だったのに、今は見あげないと目があわない。ずいぶん、おおきくなった。
「母親の実家が東京にあるから、しばらくはそこに下宿させてもらうつもり」
「どうして……だって、仲よかったじゃない」
やっとのことで口をひらいた。そう。秋人の両親は仲がよかった。すくなくとも、あたしの目にはそう見えていた。
「人まえではね。仮面夫婦ってやつ」
「まさか、ずっと?」
「うん。おれが小学生くらいのときにはもうそんな感じだったな。家族だけになると、いつも微妙にピリピリしてた。おれが高校を卒業するまでは――ってことだったみたい」
離婚したいならさっさとすればよかったのにな、と、まるで他人ごとのようにいう秋人をまえに、あたしは完全に声を失ってしまった。あれほど近くにいたのに、まったく気づいていなかった。
「そんなわけだからさ。どうしても、ちゃんと会っておきたかったんだ。あした」
不自然に言葉がとぎれた。秋人は笑顔をつくろうとして失敗してしまったみたいな顔をしている。
「あした。朝、七時の電車で出発する」
「あした」
「うん。おれ、まだガキだけど、ちゃんと勉強して、大人になるから。もし、もしも、もう一回くらい、おれにチャンスをやってもいいと思ったら、見送りにきて」
「アキト」
ひさしぶりにその名を呼んだ。やはり『アキヒト』といいにくくて、子どものころからあたしは秋人を『アキト』と呼んでいた。
自分の口からこぼれたその響きに、なぜだか胸が締めつけられる。
「ミユちゃん。おれ、たぶんずっと、ミユちゃんのこと好きだよ。じゃあね」
秋人はやはり、つくりそこねたようなぎこちない笑顔でそういうと、あたしのわきをすり抜けて階段を駆けおりていった。
うっすらと雪が積もっている外廊下の手すりから、アパートの出入り口を見おろす。
いつもよりずっと明るい夜。ひらひらと空から舞い落ちてくる、白い花びらのような雪片が目にまぶしい。
まさか秋人の家が、うちとおなじだったなんて。
雪のなか、みるみる遠ざかっていくダウンジャケットに包まれた背中を、あたしはいつまでも見送っていた。
(つづく)
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