後編

 社務所の中は掃除と整頓が行き届いており、十五畳ほどの広さで、片側に事務用の書棚、中央にはロの字型に縦長で脚の低い事机が置かれている。

 志津子は中に入ると、片側の壁に積まれていた座布団の山から二つとって、丁寧に畳の上に敷き、俺を招き入れた。

『どうぞ、お座りになってください。今お茶をお淹れしますから』

 俺が座ると、彼女はすぐ後ろにある流しに行き、急須と湯呑を盆に載せて戻ってきた。


『もうじき夏越のお祭りがあるんです。そのために氏子の婦人会で何かやろうと相談をしていたんですよ』


 楠本志津子はそう言って、俺の前で急須から番茶を注いで淹れてくれた。


『早速ですが・・・・』俺が口を切ろうとすると、


『浅見さんですね?浅見雄介さん。乾さんに依頼をされたのって』


 ちょっと驚いた。


『どうして分かったんです?』

 彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべて答えた。

『顔に書いてありますもの。私、本屋さんに長年勤めていましたからね。お客さんが何を望んでいるか、見抜くのは得意です。それに、ミステリーの大ファンでもあるんですよ』


 やるもんだな。俺は苦笑した。プロの探偵が形無しだ。


『それなら話は早いですな』俺はそう言って、浅見雄介氏からの依頼の主旨おもむきを話す。


 彼女は眼を閉じ、何事かを考えていたが、やがて自分の湯呑に茶を注ぎ、一口飲んでから口を開いた。


『お付き合いしていたのは本当です。いえ、それ以上の関係にあったのも事実です。何もかも捨ててとまで考えたこともありました』


 彼女は『でも』といい、それからまた少し間を置いた。


『あるきっかけで、お別れした方がいいと思ったんです。ほんの些細な事ですけど、』


 まだ広島に越してくる前、帰宅した夫がこんな話をしたという。


広島あっちに戻ってお宮を継ごうと思っている。会社の方はカタがつきそうだしな。後はみんなの考え次第だ。特に君が反対なら、僕はいかない。それに子供たちも駄目だというなら辞める。別に優柔不断だからじゃないんだ。跡を継ぐのは家族の協力がないと無理だからね。”


『私、びっくりしました。それまで主人が私にあんな言い方をしたことなかったものですから・・・・でも、嬉しかったです。”ああ、やっぱり家族は一緒にいなきゃいけない。私の居場所はここしかないんだ”そう思ったのを今でも覚えています。』


 彼女は夫に賛成し、次の日子供たちにそのことを告げると、二人とも同意してくれたという。

『主人とは友人の紹介で知り合いました。一応恋愛結婚ですけど、でも無口で物静かな人ですから、最初から熱烈なものはありませんでした。

正直、平凡そのものの生活に不満を持ったこともあります。このまま一緒にいるのが良いかどうか、悩んだこともあります。そんな時に出会ったのが浅見さんでした。』

 彼女は少し言葉を切り、少し経ってから続けた。

『彼とは本当に燃えるような、刺激的な時間だったんです。楽しかったのは確かです。私は初めそれを『愛』だと思い込んでいました。』

 彼女は落ち着いた口調でそう話した。

 俺は何も答えず、黙って茶を啜る。

 沈黙が続いた。

 柱に掛けてある掛け時計が静かに時を刻む音が流れる。


『”不安定は情熱を生み、安定は情熱を殺す”っていう言葉をご存じですか?』

 突然彼女が聞いた。

『マルセル・プルーストでしたかね?』

『そうかもしれません。でも私が知ったのは、遠藤周作先生のエッセイでした。とてもいい言葉だと思います』


 彼女はまた茶を一口飲んだ。どこからか汽笛の音が聞こえてくる。

『浅見さんとの関係ことは、情熱です。激しいけれど、長く続くとは思えません。でも私には主人や子供たちと築いてきた家族の日常があります。人から見れば退屈でつまらないものでしょう。でも、今の私にとってはそのつまらなさ一つ一つが愛おしい。そう気づいたんです』

『・・・・』

『出会いはとても素敵なものでしたから、後悔はしていません。それどころか感謝してもし足りないくらいの気持ちを今でも持っています。だからこそいい思い出にしておきたいと思うんです。』


『ご主人は?』

 俺は口を開いた。

『え?』

『ご主人は知ってるんですか?浅見氏とのことは』

『知らないだろうし、言うつもりもない』この場合、通常のパターンならそういう模範解答が返ってくると思ったが、彼女はかぶりを振り、


『私は何も話していませんけれど、多分主人は気が付いていると思います。知っていても何も口にしない。黙って私を見守っていてくれる。とても、とても有難いと思います。そんな思いやりのある人を捨てるなんて、罰が当たりますわ。』

 実に、きっぱりとした口調だった。


『浅見さんにお伝えください。これからももっと素敵な作品を沢山書いてください。私、広島ここからずっと応援していますって』

 

 もうこれ以上何も聞くことはなかった。

 俺はポケットに忍ばせておいたICレコーダーを取り出して告げた。

『・・・・事後承諾で申し訳ありませんが、今の会話は全部録音させて頂きました。依頼人に聴かせるためにね。勿論これは誰にも渡しませんし、他所にも流しません。報告が完了したら全部消去します。プロの探偵として、それだけは確約します。何なら誓約書を書きましょうか?』


『いいえ、貴方を信頼します。名探偵はウソはつきませんもの、ミステリーファンなら、そのくらい分かりますわ』


 彼女はまた悪戯っぽく笑った。目じりに寄った小じわが実にチャーミングに映る。


 社務所の入り口を閉め、俺たちが外に出ると、黒い絽の羽織、浅黄の袴に白衣姿の口ひげを蓄えた男性が上がってくるのが見えた。


『主人です』


 彼女が小さな声で言う。


 志津子の夫である、現在この神社の禰宜ねぎを務める楠本龍吉氏だ。


 彼女は俺を『東京からいらした探偵さんで、私にお友達のことで聞きに見えたの』と紹介した。


 龍吉氏は微笑みを浮かべ、


『それはわざわざどうも』俺に頭を下げてから

『解決はついたのかい?』

 彼女に訊ねた。

『ええ、もうすっかり』晴れやかな顔で志津子は答えた。


『そうか、ならいい。』

 彼女の答えを確認してから、龍吉氏は俺の方に顔を向け、

『でも、せっかく東京からいらしたなら、今晩は家に泊まって行かれたら如何ですか?』と、如才ない調子で言った。


『有難うございます。でも他に急ぎの仕事がありますんで、またいつかこちらに用事がありましたら寄らせて頂きます』


 

俺はそう答え、頭を下げた。


『それは残念ですなぁ。ああ、そうだ、さっき隆介と明子から電話があったよ。隆介は明後日、明子は明日にでも帰ってくるってさ』

 隆介というのは長男で、現在は大学を卒業し、神職の資格を取得して、東京の神社で奉職中(あの世界では就職することをこう呼ぶらしい)で、明子と言うのは長女、現在は広島市内にある幼稚園で働いているそうだ。


『まあ、そう、よかったわ。いけない!それじゃ戻って準備しなくちゃ』


 彼女は舌を出し、もう一度俺に頭を下げると、足早に山を下って行った。

『いい奥さんですね。』


『ええ、私には勿体ないくらいの女房です。彼女がいてくれんかったら・・・・私もここにはおらんでしょう』


 確かにな、俺は思った。

 二人は何もかも理解しあった上で、こうしてここにいるんだ。そしてその家族も。この絆を壊すことは誰にも出来やしない。


 その日のうちに俺は在来線、そして新幹線と乗り継ぎ、東京に帰り着いた時には、午後11時半になっていた。


 東京駅からタクシーを拾い、我が愛すべきネグラに帰り着き、まず風呂に入って汗を流し、その後速攻で報告書をまとめ上げ、バーボンを二杯。


 後はもう夢心地でベッドの中だった。


 翌朝目を覚ました時は、もう午前9時にさしかかっていた。

 俺は急いでいつも通りの『日課』をこなすと、事務所に降り、身支度を整えて出発した。


 依頼人の浅見雄介氏は世田谷にある彼のマンション兼仕事場で、俺の到着を待っていた。


 報告書を渡し、彼女の声を聴かせ、見たままを語ると、彼は大きくため息をつく。

『”不安定は情熱を生み、安定は情熱を殺す”か・・・・』彼はそう答え、しばらく黙って窓の外を見つめた。


『僕はまだ若いから、百パーセント理解できたとはいえないけれど・・・・でも、自分が好きになった女性ひとが幸せでいてくれるなら、その方がいいに決まってますからね』


 そう答え、彼は机の引き出しから封筒を出し、俺の前に置いた。


『ご苦労様でした。少し足してあります』


 俺は何も言わずにそれを受け取り、中身を改める。

 予想外の多さだった。

『お願いがあるんですが、そのレコーダーのメモリーカードを・・・・』

『いや、それは出来ません。楠本さんとの約束ですから、消去させてもらいます』


『そうですね。分かりました・・・・未練は止しましょう』彼はそういって立ち上がり、俺に手を伸ばす。


 俺は黙って握手をし、そのまま部屋を出た、戸口で振り返ると、彼はまた椅子に腰かけ、パソコンに向かって執筆にとりかかっていたが、横顔に何か光るものを見たのは、気のせいだったんだろうか。


 外に出ると、まだあの鬱陶うっとうしい梅雨の季節が来ていないってのに、太陽が照り付けている。


 俺はサングラスをかけ、歩き出した。


 さあ、懐もあったかくなった。


 今日はセルフサービスは止めて、”アヴァンティ”で呑んだくれるとしよう。


                              終わり

*)この物語はフィクションです。登場人物その他全ては作者の想像の産物であります。


 

 









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情熱の果てに見たもの 冷門 風之助  @yamato2673nippon

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