情熱の果てに見たもの
冷門 風之助
前編
◎不安定は情熱を生み、安定は情熱を殺す・・・・マルセル・プルースト◎
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その町は瀬戸内海の海沿いにあった。広島県のちょうど中ほど、未だに小さな漁船が行き交う穏やかな所だった。
瀬戸内沿岸がどこもそうであるように、家々は斜面ににへばりつくように並んでいる。
こうした風景を好んで描いた映画監督の
広島で新幹線から在来線に乗り換えること約1時間とちょっと。
俺はようやくその町の駅に着いた。
降りる客は俺を含めて制服姿の高校生らしき3人、そして大きな荷物を背負った年老いた女性が2人だけ、つまりは俺を入れると合計で6人ということになる。
駅に降りた途端、海から漂ってくる潮の匂いが鼻をくすぐった。
改札口(とはいっても駅員はいない、つまりは無人駅だ)にある小さな箱に切符を通すと、きしむような音がして、改札のバーが開いた。
駅舎の中は当たり前だが誰もいない。
売店にはシャッターが下りたままだ。
外に出ると、ますます潮の匂いがきつくなる。
まだ梅雨になる前だというのに、いやに蒸し暑い。
(コートなんか着てくるんじゃなかったな)俺は心の中でそう呟き、トレードマークのレインコートを脱ぎ、ぶら下げていたアタッシュケースと一緒に小脇に抱えた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その依頼を受けたのは、今からちょうど
『僕はその
乃木坂にある、瀟洒なカフェテラスで会った男は、ウェイターが運んできたアイスティーを一口飲んでから、開口一番そう言った。
俺は何も答えず、黙って目の前のジンジャエールを一飲みする。
男はこっちが反応を示さないのが、少し不満気なようだ。
『貴方に依頼したいのは、その女性についてなんです』
『矢島弁護士の紹介なら、私の噂は聞いているでしょう?』
『私立探偵、
『まあ、そんなところです。特に結婚と離婚に関する依頼はね』
彼はまたアイスティーを飲み、続けて、ため息を吐き出す。
薄いブルーのジャケットにノーネクタイ、グレーのシャツを着て、髪をきちんと七三に分け、一見すると年齢より若く見えるこの男。
名前を
ライトノベル・・・・つまりは読んで字の如く”手軽に読める、少年少女向け小説”という意味だ。
彼は高校一年生の頃から小説を書いては持ち込みを続け、高校三年の時に、あるメジャーな出版社が主催しているライトノベルの新人賞に入選し、そのまま大学に進学してから本格的な
『とりあえずお話を伺いましょう。その上で引き受けるか引き受けないかはこちらで決めさせていただくということでは』
彼はほっとしたような顔になり、アイスティーをまた一口すすり、それから話し始めた。
大学に進学したばかりの頃である。
当時発表した作品が『都内の本屋さんが選ぶ、読みたい本ベスト10』とやらに選ばれ、都内大手の書店で何度かサイン会を行った。
ある時、赤坂の『マルミ堂書店』でサイン会があり、そこで
『彼女』と運命的な出会いをした。
『彼女』の名前は
『一瞬で
雄介は幼い頃実母に死に別れ、それ以来祖父母と父の手によって育てられたから、”年上の女性”という存在に並々ならぬ憧れを抱き続けてきた。
そんな理想の女性が今目の前にいるのだ。
何の感情も抱かない方がおかしいというものだろう。
女優でいうなら、市毛良枝をもう少し若くしたような、ちょうどそんな感じの女性だという。
彼がスマホに登録してあった写真を見せてくれた。確かに市毛良枝に似ていなくもない。
勤務している書店の前で写したものだろう。
制服姿でこちらを向いた女性が、にっこりとほほ笑んでいる
ショートカットの髪型が良く似合う。心持ちふっくらした面差しに、色白で化粧も余り濃くない。
最初の出会いはごく事務的なものだったが、その後何度か用事を作っては店に立ち寄り、彼女に声をかけ、店が終わる頃に誘ってお茶を飲んだり、とりとめもない話をしたりした。
向こうも彼のことを憎からず思ってくれたようだったが、無論のっけから深い関係になったわけではない。
何しろ二十歳以上年長、しかも二人の子を持つ人妻だったのだ。
仕事以外で暇を見つけて何度か会い、話をするうちに、互いに惹かれあっていった。
ある時のことだ。
彼のマンションに訪ねてきてくれた。
”風邪ひいたって、ウチの店に来ていた出版社の方に聞いたものだから”そういって何やら食べ物を買って持ってきてくれ、料理を作ってくれた。
ベージュのトレーナーにジーンズという軽装だったが、いつもの彼女に比べ、格段に美しいと感じた。
キッチンに立っていた彼女を後ろから抱きしめてキスをした。
彼女が驚いたのは初めだけで、やがてすんなり受け入れ、どちらからともなく求めあった。
それが始まりだったという。
二人はお互いの事情が許す限り逢って、身体を重ねた。
そうしているうちに、彼女の家庭の様子も分かるようになってきた。
夫は大手電機メーカーに勤める技術者で、年齢は五十三歳。
子供は二人。当時大学一年の長男と、中学三年生の長女。
夫は無口で物静かだが、優しくて大らかな人。他人が困っていると見捨てておけない性格。
長男は明るく、朗らかで性格もいいスポーツマン。
長女はいささか生意気なところはあるが、根は優しく、勉強もよくできる。
”特別可もなく不可もなく。そんな家族よ”
ある時彼女がそう語ってくれた。
そんな家庭の様子を聞かれても、雄介は臆することなく志津子を求めていった。
求めずにはおれなかったのだ。
彼女も雄介の情熱に応えるような形で、二人の逢瀬は次第に多くなっていった。
『”ずっと一緒にいたい”って思ったのも、そんな時だったんです。』
『つまりそれは結婚をしたいと、そういうことですか?』
俺の言葉に浅見雄介はアイスティーを飲み干すと、少し辛そうな顔をして
『分かっています。僕がそう望むということは、ご主人との離婚。つまりは彼女の家庭を破壊することになる・・・・それでも彼女を自分のものにしたかった。それだけだったんです』
『彼女は何と言ったんですか?』
”貴方のことは好きよ。でも、私には・・・・・”
雄介がその話を切り出すと、志津子はいつもそういって黙りこくったという。
それでも二人の関係は続いた。
彼との情事が重なるにつれ、彼女は次第に美しさが磨かれ、年相応な魅力に、さらに艶めいたところが増していったという。
そうして五年が経過した。
『去年のことです』
大きくため息をつくと、雄介はスマホを取り出して画面を見つめた。
『彼女のところにメールをしました。そうしたら』
”もう貴方とは逢えません。今まで有難うございました”とすぐに返ってきた。
LINEでも連絡を取ろうとしたが、返ってくる答えは同じだった。
電話もかけてみた。しかし彼女は
”お別れしましょう。もう逢わないほうがいいと思うんです。ごめんなさい”
そう繰り返すだけだったという。
それっきり連絡は絶えた。
志津子が勤めていた書店を訪ねたところ、彼女は三か月前に退職したのだという。
何でも”夫の事情で今度広島のo市に越すことになった”ということで、それ以上深くは教えてくれなかった。
『これ以上僕一人がしつこくしても、却って彼女に迷惑をかけるだけだ。そう自分に言い聞かせて諦めようとしたんですが、どうしても出来なかったんです。だから、お願いします。せめて彼女がどうして僕と別れようとしたのか、その
俺はシナモンスティックを出し、口に咥えて上を向き、腕を組んでしばらく考え込む”ふり”をした。
あくまでも”ふり”である。腹の中はもう決まっていたからな。
『いいでしょう。引き受けます。ギャラは一日6万円、他に必要経費。仮に拳銃等の武器が必要となった場合は、危険手当として、4万円の割増金を付けます。それ以外は契約書を読んでいただければ結構。他にご質問は?』
『ありません』
彼はそういい、契約が成立し、俺は仕事にかかることにした。
◇◇◇◇◇◇◇
『楠本課長ですね。ええ、確かに広島の実家に帰られましたよ。当時ウチの社はちょうどリストラの最中でして、早期退職ってやつです。』
俺が楠本志津子の夫、楠本龍吉氏の元の勤め先の『東日電機』を訪ねた時、彼の部下だった男がそう教えてくれた。
『当時わが社は業績が下がり気味の頃でしてね。一部事業を縮小していたんですけど、楠本課長はとても優秀な技術者だったのに”何故早期退職なんか?”と、誰もが不思議がったんです』
しかし後で話を聞くと、如何にも『困っている人を見過ごせない』タイプの人らしく、会社には『私が辞める代わりに、自分の部署からはこれ以上人員整理をしないでくれ』と掛け合ったそうで、その結果リストラは最小限に抑えられたのだという。
『で、広島に帰られて何を?』
俺の言葉に、元部下氏はこう答えた。
『楠本課長の実家は、広島のO市で先祖代々から続く神社の宮司だったんです。長男ですから、本当ならすぐに跡取りにならないといけなかったらしいんですがね。若い頃は”どうしても東京に出て技術者になりたい”ということで、固辞してたそうですけど、年をとられたお父さんの体の具合があまり良くなかったので、決心されて神職の資格を取り、帰郷されたんです』
送別会の折、社の皆に礼を述べた後で、こんなことを言ったという。
”家族が背中を押してくれたのが一番だな。妻は『貴方のやりたいことをなさったら?』と言ってくれたし、息子は『僕も将来神主になって後を継ぐよ』娘も『私、昔から海って大好き。だからお父さんと一緒に行くわ』ってね。有難いもんだ”と嬉しそうに語っていたらしい。
広島に向かう間、俺は彼のその言葉を記した資料を何度も読み返していた。
町は静かだった。
さびれているという訳でもなさそうだったが、活気はお世辞にもあるとはいえない。
”これでは道も訊ねようがないな”俺がそう思っていると、杖をついて、腰の曲がった老婆が声をかけてくれた。
『何かお困りですかいの?』
俺が神社の名前を出すと、
『ああ、太田山八幡神社ですわ。ここらじゃあ、”お宮さん”っていえば、誰でも知っとります』
そういって丁寧に道順を教えてくれた。
名前の通り、そこは山だった。
町並みから外れ、急な昇り道がどこまでも続く。
いい加減汗を掻いていた。
だが、俺の足腰はまだまだ衰えちゃいない。
山道を登り切ったところに、その神社はあった。
想像よりはずっと大きくて立派な建物だった。
大きな石の鳥居をくぐると、百段ほどの石段があり、そこを登り切ると、やっと神社があった。
一応礼儀だからな。
俺は賽銭箱に百円玉を投げ入れ、神道の正式な作法に
信心深い方ではないが、こういう場所というのは、心が落ち着く。
本殿の周りはうっそうとした木々に覆われている。
向かって右側に、
『社務所』と札の出た建物があり、中で人の声がする。
しばらく眺めていると、やがて正面の入り口が開いて、中から数人の女性たちが出てきた。
老人ばかりだと思ったが、若い女性も結構いた。
彼女たちは何か喋りながら、そこにいた見知らぬ俺に小腰をかがめて挨拶を
して去っていった。
一番最後に”彼女”が出てきた。
彼女は全員を見送ると、エプロンのポケットから出したカギで扉を閉めようとしている。
少し年をとったかなとは思ったが、あの写真と殆ど変わっていない。
ただ、細い銀縁の眼鏡をかけているところだけが、ちょっと違っていたくらいだ。
ショートカットのヘアスタイル、薄いピンク色の長袖ニットのプルオーバーにジーンズ。そして紺色のエプロンと言うラフな服装。
楠本志津子がそこにいた。
『
俺が声をかけると、彼女はほんの少し戸惑ったような表情をしたが、それでも礼儀正しく頭をさげ、
『はい、そうですが?』
俺は
”東京から来た、
そう名乗ると、彼女は黙って頷き、
『中へどうぞ』と、カギを閉めかけていた社務所の扉をもう一度開けてくれた。
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