入水未遂

 頬に冷たい衝撃が走る。痛い。死んだのに、なぜか痛い。目を開けると、いつもより青白い水香の顔がある。熱い雫が落ちてくる。


「生きてたね」


 水香と僕の首輪は、途中で縫い目が緩んで、引きちぎれたようだった。それでもまだ、赤い違和感が残っていた。


「案外死ねないんだな、人って」


 まだ、実感がなかった。てっきり僕は、水香が浮かんでいくのを見た時に死んだと思っていた。水香も、僕も。けれど結果はというと、この通り、意外と生きてしまっている。もう一回死に直すような気にもなれない。微妙だ、というのが正直な感想だった。


「余裕そうだし、もうどいてよ。痺れてきちゃった」


 言われてみれば、僕は水香の膝に頭を乗せて寝ていた。腹筋に力を入れて起き上がる。上手く力が入らなくて、頭が大きく揺れた。


「水の中で、連れていかれそうになったんだ」


「何に?」


 と言うと、聞きなれたメロディがどこからともなく流れ出す。フェンスの向こう側に見える生活棟の、音楽室からのようだった。力強いピアノの音。『メイド・イン・ヘヴン』だ。


「天使」

 

 それは、天の思し召しではなかったのかもしれない。だから、彼女は今、生きてる。


「水香があんまり重いから、思し召しはお預けになったんだよ」


 茶化して言うと、癇に障ったのか肩を小突かれる。ヘラヘラ笑いながら、僕は自分の体験した出来事に関して、正直に話すべきかどうか迷った。


「倉知と会ったって言ったら信じる?」

 

 水香は、まるで知っていたみたいに無反応だった。多分、そういうことなのだろう。


「ふざけてるよ......マジで」


「私、忘れてよって言われた。でも絶対、忘れないって言ったら」


 水香は、少し言い淀んでから「秋野は結構寂しがりだぞ、だって」無感情っぽく言った。うるさいんだよ、と思う。

 フェンスに体重を預けて、僕は考えながら、休んだ。しめつけるようなフェンスの感触、その反発も、松の木の青臭ささえも、全てが生に通じていた。死の気配は、さっきまですぐ傍にあったのに、今は遠く向こうのものに感じる。また死にかければ、あいつに会えるような気がする。けれど、何度行っても多分、あいつに突き返されるだろう。生きろ、的なことを言われて。なんで死んだやつの幻影は、いつも生きるやつのことを助けようとするんだろう。自分は死ねたからって好き勝手しやがって。


「最期の最期で、君のことを考えたよ」


 水香は黙って、俯いて、聞いていた。まるで、罪の判決を待つかのように、神妙な面持ちで。


「水が記憶してるんだって、そう考えたんだ」


 そうして僕は、水中で見いだしたことを水香に話した。


「君のおかげで、拾った命って感じ」 


「いい話風に纏めたいんだね」


 言いながら、水香は本当に良い話を聞いたみたいに、軽やかなステップで水際まで歩いた。そこまで行って、僕の方を振り向く。淡い風が、濡れた髪を涼やかに揺らした。


「いい話だろ、泣けよ」


 冗談めかして言った、つもりだった。水香の瞳から、透明な線が伸びていた。泣いている。

 堰を切ったように、嗚咽が漏れる。涙が溢れ出す。それは、夏の乱反射達に混ざって、光った。蝉の音が聞こえる。夏の音が聞こえる。初めての、倉知のいない夏が終わる。ぼんやりと、またいつかこうやって、死にたくなる時が来るかもしれない、と思う。でも、こうやって死んだあとのような余韻に浸りながら、あいつを思い出すことで、絶対忘れない。忘れないどうなるのだろう。いや、忘れないことなんてないんだ。水が僕らを忘れるように。水香はまだ泣いている。それを見て僕は、それでいいんだ、と本当に思った。


「あいつ、バカだよな」


「バカだけど......私たちなんかより、ずっと輝けるバカかもしれないよ」


「でも結局、生きても、死んでも、バカは治らないからやりきれない」


 倉知はただ生きていたいだけだったのだろう。ちょうど植物のように。けれど、そういうスタンスを一度理想に据えてしまうと、人間という器が倉知には少し合わなかった。本当にそれだけの事だ。今頃は花とか、貝とか......あるいは遠い星の宇宙の塵にでも......生まれ変わって、上手くやっていたりするのだろうか。だとしたら、こんなに恨めしいことも無い。僕らは......どうだろう。倉知と同じで、多分、人間には向いていないのかもしれない。それでも、僕らは生きている。


「うまくやっていけるかな」


「バカには難しいよ」


 僕は、水香の手に触れる。水香は握り返してくる。そして、僕らは赤い首輪を解いて、もう一度繋ぎ直す。


「今度こそ、これが運命だ」


 でも、運命なんてわからないから、祈るしかなかった。

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プールサイド 葉月空野 @all5959

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