入水動機《2》

 あの日から、倉知の事故について、何も調べる気が起きなかった。噂を耳に入れる気もなかった。それっぽい話題から逃げるように、しばらく過ごした。誰かに倉知のことを聞かれたら、殴るようにした。すると、次第に誰も僕に寄り付かなくなった。寧ろ、僕は軽くいじめみたいな扱いを受けるようになった。別に構わなかった。元々、誰のことも好きじゃなかった。


「秋野くん、さっき、スマホ見てたでしょう」


 それでも、倉知みたいな例外は、一応ほかにもいた。それが、清原水香きよはら みずか。元々倉知の知り合いで、中学の時は、付き合ったりとかしてたらしい。


「倉知のこと、調べてたでしょう」


「殴るよ?」


 エスパーでもつかえるんだろうか。水香がそれ以外ないとばかりに言い切るので、隠してる方が少し馬鹿らしいような気がした。


「次聞いたら、殴るから」


「いいよ? だって秋野くん、激弱だし。てか、別にいいじゃん。私なんだし」


「僕はお前の言いなりじゃない。都合いい舎弟でも、従順な執事でもなんでもない。話す義理ない」


「友達じゃん」


「あ、そう」


「とにかく、どうせ、自殺とかなんとかそんなワードで検索かけたでしょう」


 声がでかいんだよ。クラスメイトの視線が、少しずつ僕と水香に集まっていた。多分、彼女が僕に声をかけた時からだろう。

 水香は、容姿は整っている方だ。清潔感のある装い、線の細い体つき、薄ピンクの唇......なによりその透き通った瞳が、僕には好ましかった。けれど、彼女はクラスで少し浮いていた。水香は自分が他人にどう見られるのかをあまり憂えない。それゆえか、クラスでの自分の立場とかを、人の輪の中に見い出すこともしなかった。他人がどうでも良すぎて、もはや気にする対象にすらならない、ということらしい。とはいえ、彼女の前には意味をなさない奇異の視線も、僕には痛く刺さる。


「ここじゃなんだし、昼休み屋上来いよ。待ってるから」


「嘘、絶対待ってないし。来ないやつだよそれ」


「なんにせよこんなとこで話すことじゃない」


 水香は不服そうにしながらも、認めざるを得なかったらしく、すんなり引き下がった。かと思えば、「放課後、絶対」とだけ言い残して、自分の席の方に戻って行った。



 昼休み、水香はまた僕の元に来た。流石に逃げられそうもなかったので、菓子パンと水を手に立ち上がった。

 屋上は通常立ち入り禁止で、僕ら以外には誰もいなかった。彼女は意外と、学校のルールに頓着ないようだ。水香は小走りで日陰に入ると、壁に背を預けてゆったりと座った。僕はそこから何メートルか距離をとって座り、昼食を食べた。


「倉知ね、私、自殺だったと思うの」


 食べながらぽつりと、あまりシリアスな感じでもなく、水香は話しはじめた。僕はあまり驚かなかった。水香と同じように感じていたからだ。


「ほら、あいつ、あんなだったから。私、死んだの聞いても意外と冷静だったの。全然意外じゃなかった」


 水香は、半分くらい嘘を言っていると思う。今の話しっぷりから、冷静さはあまり感じられなかった。現に、話し始めた彼女は食事の手が止まって、サンドイッチを具が飛び出るくらい強く、握りしめていた。


「倉知はね、なんとなくで生きてたでしょ。けどそれって珍しいことじゃないよね。みんな、別になんとなく、生きてる。私だってそうだし」


「何が言いたいんだよ」


 そりゃあ人はみんな、なんとなくだろ。食事だって趣味だって。それこそ学校なんかなんとなくの極みだ。人はある程度、慣性かんせいに従ってすすむ生き物なのだ。大体、魚だって鳥だって、水流に乗って泳ぐし風向きに沿って飛ぶ。なんとなくなんて、ありふれているし、従っちゃいけない道理もない。


「なんで、倉知だけは死ななきゃいけなかったんだろう」


「違うね、倉知だけじゃない。世の中には、年頃なんて関係なく、何となく死にたいヤツらでもう溢れてる。そうさ、別に珍しいことなんてない。あいつが勝手に、自分の判断で死んだだけだろ。誰のせいとかじゃないし、あいつだけじゃないんだ」


 そういうことが言いたいんじゃないと思いながら、でも本当にそうなんだよなとも思う。そう、死にたい人間は有り触れているし、溢れている。けれど、他人の心理をつきつめて、その中に倉知の真意があるとは思えない。あいつが特別なのではないとして、しかし誰も、あいつと同じ人生をあゆみ同じように死んでいくやつなんていないのだから、皆それぞれ特別なのだ。


「なんというか、倉知は自分の人間性に殺されたんだと思うよ。気まぐれさというか、そういうものに」


「それで納得しろってこと? 甘すぎるよそんなの」


 さっきは冷静とか言ってたくせに......言いかけて、飲み込む。水香はゾッとするような暗い顔で、サンドイッチを噛みちぎった。その荒っぽい所作が、僕には倉知のように見えた。僕らの中に、形を変えて、性質を損なわず、倉知はずっと生き続けている。それは、ありふれたフィクションが讃える結論みたく、おめでたいことでは全くない。ひたすら煩わしくて、陰鬱で、悲しいばかりのことだ。


「私、倉知が死んだ理由を知りたい」


「なにそれ。勝手にやれよ、適当に。僕もう興味無いんだ。人と関わりたくないんだ。ほっといてよ」


 言いながら、僕は倉知が初めて僕に話しかけて来た時のことを思い出していた。僕はその時も、今と同じようなことを言って、倉知のことを突き放した。けれど、彼はあんまり気が悪そうではなかった。他の人間とは違う感性で、僕の言葉を受け止めたらしかった。どう解釈したら、そんな笑顔ができるんだ、と思って僕は思わず吹き出した。『お前、笑った方がいいね』そう言ってくしゃっと笑った彼のことが、僕には妙に眩しかった。


「今ごろになって、あいつのこと調べてさ。秋野くんだって満足してないんでしょう?」


 ペットボトルの蓋を弄りながら、水香はドスの効いた声で言った。


「そりゃ、思い出しもするよ」


 僕は、どうなんだろう。倉地のこと、満足してないのだろうか。黙り込んで考える。......わからない。


「でも、死んだやつのことなんか考えて、今更どうするんだよ」


 思わずぼやいた途端、鈍い衝撃が僕の横腹を貫いた。座ったまま横に倒れ込む。吐き気を抑えながら見上げると、水香は今にも泣きそうな顔で僕を見ていた。それを見て初めて、水香が僕を蹴ったのだと理解した。


「私たち、倉知のこと救えなかった」


 救うなんて、そんな傲慢なことをよくも言えたものだ、なんて茶化す気にはなれなかった。確かに、それは別に義務とかじゃないのだろう。誰かを救ったりする義務があるのは、警察とか消防士とか医者みたく、初めから人を救うように在る人達だけだ。けれど、僕らにだって義理はあったはずだ。友人......として、彼を助ける義理はあった。そういう話なのだろうか?


「でも、僕らにはどうしようもなかった。義理はあっても、他人の命に、たかだか冴えない高校生風情が責任持てるわけないんだ」


「だからって、責任がないと、誰も助けられなかったの?」


 ふてぶてしく呟くと、水香はもう一度、僕に蹴りを入れる体制を取った。それを、避ける気にはなれなかった。横腹を蹴られる。何度も蹴られる。水香は泣いていた。自分でもどうして、何を蹴っているのかもわからないみたいに、次第にその蹴りは弱くなっていく。でも、僕はその全てが痛みに感じた。痛みを通して、僕は初めて彼女を理解したような気がした。何もわからなくても、やりきれない思いのその深さだけは、どうしようもなくわかった。辛くて、痛くて、悲しかった。痛みはいつも正直だ。痛みの先には、傷という結果だけが残る。蹴られた跡は赤くなるし、トラックに跳ねられたら血だらけになって、そして死ぬ。


「わかってる。責任じゃなくて、僕はとにかく、倉知を助けなきゃいけなかった」


 それは多分、倉知と親しかったから、ということではない。そもそも、抵抗しようがないほどに正しくて、誰にも抗えないような理由があれば、死にたい誰かを助けられるのだろうか。それは絶対に違う。そんなことは問題ですらない。僕に後悔があるのは、友人が死んだからだ。細かい理屈なんてない。親しい人が死ねば悲しいのは当たり前のことだ。悲しいから、悔しいから、僕も、水香も、倉知を助けるべきだった。けれど、僕らは......自分の醜さ《エゴ》に気を使いすぎてしまった。


「僕だって、本当は痛くて仕方ないんだよ」


 水香は僕の顔を覗くようにして見ていた。


「ごめんね」


「僕が悪いんだよ。もう泣かないで」


 水香は泣きはらした目を拭って、呼吸が落ち着くまで待ってから、ゆっくりと話し始めた。


「倉知のこと、憧れてたし、好きだった。でも、ずっと怖かった。いつか、倉知の持ってる暗さみたいなものに引きずり込まれていきそうで」


 それは、覚えのある感覚だった。あの類の暗さは、同じような性質を持っている人間にウイルスみたいに伝染して、知らずその人を蝕んでいく。


「気づいたら、秋野くんのこと好きになってたの」


「それ、錯覚だよ」


「多分、倉知に似てたから。君がいると、もう一人倉知が居るみたいで、安心したの。でも、これから私、あいつみたいな人間にばっかり気を取られるんだと思ったら怖いよ」


「だから、知りたいの?」


 知る、ということは、安心するということだ。真実がどのようなものであれ、何もわからないということがいちばん怖い。水香は僕の手を取って、両手で優しく握った。滑らかな掌は、ほんのり冷たく汗ばんでいた。


「違うよ。私は......もう、自分のエゴを押さえ込んで嘯くのはやめる。私は倉知が好きだった。忘れられるわけないんだ。全部時効になんてしたくない」


「それで、水香はどうしたいの?」


「倉知みたいに死んでみたい。本当は私もあとを追うべきだった」


「倉知は絶対望んでない。それに、半端なポーズを取るだけじゃ、なんの意味もない」


 この言葉は半分嘘だった。ポーズかどうかに関わらず、生者が死んだ人間に傾ける感情は、死者に対してなんの効力もあげえない。やる前から、僕らの行動は全てが無意味だ。しかし、それを伝えたところで水香の気持ちを変えるのは不可能だろう。彼女は今、倉知を捉えた引力に導かれようとしている。


「それでも?」


「いいよ。私は、彼と同じ死を体験したい。本当に、死ぬ気で」


 つまるところ、水香は贖罪をなしたいのだろう。死を再現することで、倉知を誘惑した死に挑戦する。それをやることで、自己満足的に、倉知に許しを請いたいのだ。


「それでも、罪は消えない」


 水香は首を振る。そうして僕を見る目は、はじめて見るタイプの、真っ直ぐな目だった。こんなにも真剣に、誰かに見られたことはない。


「気持ちを忘れないためだよ。それを記憶して、いっしょにある罪も忘れない。というか、罪かどうかなんて、それも結局私たちのエゴでしかないよ」


 水香は立ち上がって、僕に背を向けた。すると、狙ったようなタイミングでチャイムが鳴る。


「私、誰かを助けたい気持ちは全部エゴで......否定されるべきだと思ってる。私が倉知でもきっと、誰かに手を差し伸べられたって全部振り払っちゃうよ。それは分かってる。エゴは誰も救わないんだって。でもさ......」


 水香は少しだけ言い淀んで視線をそらす。ややあって翻り、僕の目を真っ直ぐに見つめて言った。


「そんな事ならいっそ、倉知と一緒に死にたかったんだ」


 消え入りそうな声で言う水香を、僕は無言で肯定した。だって、こんな世界じゃどうしようもないんだから。



 チャイムが鳴り終わった屋上で、僕らは食べ損ねた昼食を平らげ、学校を抜け出した。それから、二人でゲーセンとか、あの日倉知と行き損ねたカラオケのフリータイムに行ったりして、暇を潰してから帰った。


 夏休みに入ってからも、少しずつ、僕らは会って、倉知とそうしたように遊んだ。その中で、僕らは学校のプールの鍵を盗む算段や、どういう方法で自殺体験をするのか、計画を話し合った。真夏の暑さで狂ったとしか思えないような、馬鹿みたいな案も時には出た。時間をかけて話し合っていたら、大まかなシナリオは出来上がって、後はその通りに事を進めるだけとなった。僕らは、恋人的な仲になっていたのかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。どちらかが付き合おうといえば本当にそうなったと思うし、言わなくてもどちらかはそう思っていてもおかしくない、という感じだった。けれど、結局僕らが想いを口に出すことはなかった。確かに僕らの距離感は言い表しようのない絶妙なバランスで成立している、唯一無二のものだった。だからこそ、もしそういう関係になりたければ、全てを口に出して具象化する必要があった。現実に生きる覚悟をするのなら、曖昧であることは許されない。二人の了解は、つまるところそれに終始していたのだ。それに......水香は「死ぬ気で」と言っていたけれど、その実、僕らは心のどこかで、本当に死んでしまおうと思っていた。だから、もし死んでしまうのなら、せめて都合よく死ぬのだけは御免だと......それを言葉にはしないだけだった。

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