たくや君

宮元多聞

たくや君

先輩を頼りに医薬品の営業に来た帰り、車の陰から男の子が1人、飛び出してきた。

「大丈夫?ごめんね」

車から降りると、虫かごをぶらさげた10歳くらいの男の子が転んでいた。

「どっか痛い?ケガしてないかな?」

「大丈夫」

「本当?良かった」

男の子が落とした網を拾って手渡す。

「たくや」と書かれた虫かごには、1匹のちょうちょが捕らえられていた。

「あっ、ちょうちょ?」

「うん」

「きれいね。僕が捕まえたのかな?」

「あ」

少年の瞳が何かを追いかけて動いた。

「待って」

少年は、駆け出して行ってしまった。

大丈夫そうだな。近所の子かな。大久保。こんな街中の病院にも蝶は飛んでくるのか。


それから時々、病院の敷地内で網を持って走るたくや君の姿を見かけるようになった。

駐車場、庭。廊下、ロビー。

誰も気に留めていないところを見ると、長期入院患者さんのご家族なのかなと思った。


今夜は、学生時代のゼミの飲み会があり、先輩の仕事終わりを待っていると、

21時を回ってしまった。

あれ?

明かりの落ちた談話室に、たくや君が1人ぽつんと座っているのが見えた。

「どうしたの?」

「逃げちゃった」

「え?」

からっぽの虫かご。

「そっか」

「…」

「もう遅いよ。まだ帰らないの?」

「もう少し探す」

「じゃあ、お姉ちゃんも一緒に探して」

あげると言いかけた時

「杉原、お待たせ」

先輩に呼ばれた。

「急ごう」

「あ、はい。ごめんね。明日、一緒に探そうね」

たくや君がうなずくのを確認して、先輩のもとに走った。

振り向くと、たくや君はもういなかった。


次の日の朝、ロビーの公衆電話のかげで蝶を見つけた。

あっ、もしかして?

青紫の大きな羽の蝶だった。

「逃げないでよ。よし」

総合受付に走る。

「いつも網を持って走っている男の子の部屋、わかりますか?」

「入院患者さんですか?」

「入院されている患者さんのご家族かなんかだと思うんですけど」

「男の子」

「ほら、蝶が好きで、いつもこのあたりを走りまわってる子」

受付の2人が、小首をかしげる。

「たくや君かな。虫かごに名前が」

その時、エレベーターから少年が降りてくる姿が見えた。

「あっ!あの子です。いましたいました。すみませんでした」


「たくや君。はい」

指の隙間から、蝶を見せる。

「たくや君が探していたちょうちょさんかな?」

「うん」

「良かった」

「ありがとう」

そっと、たくや君のかごにちょうちょを移した。

「お姉ちゃん」

「なあに」

「僕の部屋にちょうちょ見に来る?」

「うん」

虫かごを大事そうに抱えたたくや君のあとに続く。

「杉原?どこ行くの?」

「あ、先輩。おはようございます。すぐ戻ります」

「ああ、うん」


病室の入り口には、「かたぎりたくや」とひらがなで書かれていた。

あれ?

プレートを確認している一瞬の間に、たくや君の姿が消えた。

「ねえ、たくや君?」

病室の扉を開けると、闇が見えた。

えっ?

あっ、違う。閉めきった窓、壁一面にびっしりと、蝶の標本が飾られているのだった。

天井にまで…隙間なく…。

黒い床の真ん中に真っ白なベットが1つぽつんと置いてあり、男の子が横たわっていた。

「たくや君?」

部屋に入ろうとすると、床が動いた。

「何?」

ざわっと床が逆立つ。

床が…全部、蝶!?

ベットを取り囲むように、床一面、壁一面に蝶がうごめいている。

「あ」

青紫の大きなちょうちょが、どこからかふわっとベットの真ん中に舞い降りた。

突然、部屋中の蝶が動き出す。

バタバタとものすごい羽音。

たくさんの蝶が、青紫の蝶めがけていっせいに集まり始めた。

ベットの白が、何層にも折り重なった蝶の群れで埋まっていく。

バタバタバタバタ、バタバタバタバタ。…何これ。

「杉原!」

大きな声がして振り向くと、先輩が立っていた。

「何してるの」

「あの、今たくや君が蝶に」


羽音は消えていた。

病室の中は、がらんとした何もない真っ白で

窓からの朝の光が、まぶしかった。


「どうした?」

「…あ、あの」

「失礼します」

「おはよう」

「午後から、新しい患者さんが入られるので準備を」

「はいはい。杉原、邪魔だから。行くよ」

「…はい」


あ、ネームプレートがなくなってる。

もう一度振り返る。

看護師さんが開けた窓から、蝶が1匹、飛び出していくのが見えた。

窓の外でゆっくりと、大きく羽を広げた青紫が空にすーっと消えていった。

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たくや君 宮元多聞 @tabun_m

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