冬林檎の欠片
田所米子
冬林檎の欠片
座敷牢の奥からはいつもごほごほと、ひっきりなしに咳の音がする。けれどもミツは火鉢に薪を足しただけで華奢すぎる背を摩ろうともしなかった。主人が、それもミツと同じ十五の少女が独り苦しんでいるというのに。
「……なに見てんのよ」
少々咳の音が止んだので、繕い物から眼を上げる。すると在りし日は林檎のごとく赤くつやつやと輝いていた頬は、雪よりも白くなっていた。代わりに、あるいは頬の白さを引き立てるがごとく、唇はぬらぬらと赤い。
――別に、何も見ておりません。
そう呟く代わりに、口の端を薄く歪めながら手拭いを差し出す。するとお嬢さまは飢えた野良猫がそうするような、けれども酷く緩慢な仕草で手拭いを奪った。
綺麗好きで派手好きな鈴子は、後は死を待つばかりの身となっても、血で汚れた唇を着物の袖で拭うのも、折角の着物を血で汚すのも厭う。貧乏な家から奉公に出された娘の常として、血に塗れても泥が跳ねても構わないような着物に身を包むミツからすれば、随分と贅沢な話だった。鈴子お嬢さまとミツは同じ村に生まれども、育ちは天と地ほども違うので、無理からぬことではあるが。
政権が徳川の将軍から今上陛下に返還されて、今年で早二十七年。鈴子お嬢さまのおっとうは、徳川の世が終わる頃丁度二十の好奇心旺盛な若者だったという。
新し物好きの青年は米国の宣教師を通じて知った西洋林檎に目を付け、北海道開拓使農場で技術を学んだ者から林檎の苗木を購入した。それから林檎の生産に励んだ鈴子お嬢さまのおっとうは、三年前に通った鉄道の勢いもあって、すっかり名士となったのである。
元々お嬢さまの一族は、代々名主を務める家柄だった。だが、時代の趨勢を見抜く慧眼を持つお嬢さまの父親に逆らえる人間など、この一帯にはいやしない。
一方ミツの父は、女房が男を作って逃げても探そうともせず、寝っ転がって酒を呷る極めつけのろくでなしときた。たとえ未だ江戸城に将軍がいようとも、鈴子お嬢さまとミツは決して分かり合えなかっただろう。
別にミツは、自分を棄てたおっかあを恨んでいる訳ではいない。時折どうして共に連れて行ってくれなかったのだろうか、とぼんやり思うことはあるけれども。
おっかあは酒に呑まれたおっとうに、日頃から罵声どころか蹴りや拳を雨あられと浴びせかけられていた。そんな生活に何年も耐え忍んでいたのだから、おっかあの堪忍袋の緒がぷっつり切れて、逃げ出したくなったのも道理である。
だいたいミツは、仮におっかあと再び巡り合えたとして、恨み言を言う術を失って久しい。そしてそれ故に、労咳に蝕まれるお嬢さまの世話を申し付けられたのである。
おっかあがいなくなってからしばらくして、ミツは声が出せなくなった。おっとうは最初、ミツが黙りこくっているのは自分への当てつけに違いないと、蹴って殴って声を出させようとした。いなくなったおっかあにそうしていたように。だが流石のおっとうも、近隣の者どもが血相を変えて止める段になっても叫び声一つ上げない娘の様子に、これは振りなどではないと悟ったのである。
おっとうは、急に喋れなくなった娘を気味悪がって、できる限りミツに近づいてこなくなった。そうして終いには、物言わぬ娘を厄介払いし、またどんなにあっても足りない酒代に充てるべく、ミツを奉公に出したという次第である。物言わぬミツは、どうあっても鈴子が肺を患ったと言いふらさない。
いよいよ病が篤くなった娘の処遇に悩んでいた鈴子お嬢さまのおっとうは、ミツの父に通常の倍以上の銭をはずんだと聞いた。が、その銭もとっくに泡沫と消えてしまっているだろう。まさしくあぶく銭である。
「あんた、いっつも置物みたいにぼーっと黙ってないで、いい加減何か言ったらどうなの?」
鈴子お嬢さまは、経緯はともかくミツが声を失っていることは、とっくに分かっているはずだ。その上でこの物言いなのだから、つくづく愛らしい顔に似合わず性格が悪い。病に倒れる前は、あからさまに村の他の子供を見下して、村中の子供から反感を持たれていただけはある。どんなに富裕でも、所詮同じ農民の子なのに。
いくら労咳が伝染する病だとはいえ、家族が一度も見舞いに来ないのも、鈴子の性根のゆえだろう。もっとも、あまり人の出入りが多いと気疲れするから、ミツとしてはお嬢さまの家族がこの座敷に訪れてこなくともちっとも構わないのだが。
「もう、いいわ。あんたの辛気臭い顔をこれ以上見ていたくないから、しばらく外に行ってなさい」
声には出せずとも、腹の底で考えていたことが伝わったのか。お嬢さまは、再び厚い布団にくるまった。透き通る頬の血の気は、蒼白から林檎の花弁の薄紅ぐらいには戻っている。けれど熱で潤んだ目の様子からして、今夜はまた寝込むかもしれない。
鈴子お嬢さまの命令に従った訳では全くないが、座敷牢の外に出ると、粗末な衣では防ぎきれぬ寒気が肌を射した。それでもミツは、降り積もる雪を草履で踏みしめ、奉公する屋敷の垣根を抜ける。
薄々事情を察する他の使用人たちは、たとえ豆粒ほどの大きさであってもミツの姿を見つければ、蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げ出す。大方、鈴子の病を
とにもかくにも、村の名士の使用人たちの態度が屋敷の外へと、あたかも悪い病のごとく広まるのには、一月もあれば十分だった。だからミツがふらりと葉を落とした林檎の林の一画に近づこうが、素手で雪を掘ろうが、皆好きにさせてくれるのだ。
この地域一体には、頼んでもいないのにうず高く降り積もる雪を利用して、夏まで食物を保存する、知恵が代々受け継がれている。
通常の雪室は、盛った雪に塩を撒いて固め、更にその上に
かじかみひび割れた指先で掴んだ果実はつやつやと赤かった。まるで、鈴子お嬢さまの身体から日々抜けていく生気が、何かの間違いで流れ込んでいるみたいに。
抱えられるだけ林檎を盗むと、ミツは棒きれ同然の脚を使って自ら掘った穴を埋めた。もう何度もやっていることなので、その動作に無駄はない。
いくら咎められぬとはいえ、盗みを人に知られるのはまずかろう。ゆえにミツは小走りで踏み固められた雪の上を駆けたのだが、奉公先に戻った頃には、空は既に赤くなっていた。丁度、ミツが痩せた胸に抱えた林檎か、今宵も鈴子お嬢さまの口の端から伝うだろう血潮のごとく。
広い広い庭の片隅に設けられた座敷牢に辿りつくと、その入り口には既に夕餉が置かれていた。すっかり冷めきった夕餉など、結核だけでなく贅沢病も拗らせているお嬢さまは、箸もつけないだろう。だいたい、こんなものを食べたら身体が冷えてしまって、余計に体調を崩しそうだ。そもそも近頃とみに寝込むようになった鈴子に、箸を持ち上げる力があるかどうか。
荒くなった息を整え、さも何事もなかったかのような顔をして、熱にうなされるお嬢さまの枕元に夕餉の膳を置く。その片隅に、盗んできた林檎を添えて。すると鈴子お嬢さまは、顔も出さぬ父母が自分を哀れんで差し入れてくれたものだと勘違いしているのか、赤く燃える実にだけは手を伸ばすのだ。そして、ぺろりとはいかずとも、二口、三口は必ず平らげる。
普段よりも熱が上がっているのか、たったの一口齧っただけで林檎を置き目蓋を降ろしたお嬢さまに対して、思うところなど特にない。これはミツが完全なる自らの意思でやったことなのだから、感謝や労いの一言など端から求めていない。雪の寒さにかじかむミツの指が切れて血が滲もうが、お嬢さまには関係のないことだ。
万が一にでも盗んだ林檎を食べさせていたと知られたら、鈴子の気性を鑑みるに、枕と痛罵を投げつけられるだけで済めば御の字だろう。ただ、普段よりも鈴子が食べる量が少ないのだけが気になった。
摩り下ろしでもすれば呑みこみやすくなるのだろうが、この座敷牢に卸し金などあるものか。声が出せない、疫病神のミツだから他の使用人に声をかけて借りれるはずもない。とすれば、採れる手段はただ一つだった。
黄色くなった齧り痕が妙に生々しい林檎に歯を立てると、爽やかな酸味と甘みが、口いっぱいに心地良く広がる。
どうした訳かは知らないが、雪室で保存した野菜や味噌に醤油、酒などの醸造品はより美味になる。雪室の不思議は昔から知られていたが、林檎でもそうなのだろうか。
ミツはしゃくしゃくと音を立てて赤い実を咀嚼する。その様子を、鈴子お嬢さまは熱にうなされ朦朧としながらも、整った眉を寄せて睨みつけていた。黙って眠ったままでいればよいものを。
――だれがわたしの林檎を食べていいと言ったのよ。
ほんの一月前の鈴子お嬢さまならば、これぐらいの憎まれ口は叩いただろうに。病の進行とは、つくづく早いものだ。
怒り顔の鈴子お嬢さまだが、ミツが口の中の林檎を呑みこみもせず、赤すぎるぐらいに赤い唇に己のそれを押し当てると、頬を林檎にした。お嬢さまの唇は蕩けるように柔らかくて、林檎よりも甘かった。
「な、なにす、」
戦慄いて抵抗を試みた鈴子お嬢さまだが、同じ十五の娘でも、病人と健康体では力の差は歴然としている。
淡く開いた口に舌を押し込んで更に開き、噛み砕いたものを移す。口づけを幾度か繰り返し、どうにか林檎を半分ほど摂取させると、お嬢さまは再び薄い目蓋を下ろした。きっと、腹が満たされたのだろう。
久方ぶりに耳にする安らかな寝息に耳を傾けながら、ミツは甘い汁で汚れた口元を手の甲で拭う。
ミツは、鈴子お嬢さまを看病するために召し抱えられた奉公人だ。即ち、鈴子が死んでしまったら、ミツはたちまちお役御免となる。
お嬢さま亡き後も、屋敷で働けるのなら良い。しかし未だ症状は出ていないとはいえ、既に労咳に侵されているだろうと囁かれているミツである。鈴子がいなくなってしまえば、それこそ犬の仔のごとく放り出されるに決まっていた。
だから、先程の口づけは、純然たる保身のための行為でしかない。
――あんたにうつったら、どうするの。
なのに、あの高慢ちきな鈴子お嬢さまが、一介の下働きであるミツを気遣ってくるなんて。明日は槍でも降ってくるのだろうか。それはそれで別に良いのだが、人目を憚るために座敷牢近くの雪に埋めた林檎が傷んでは困る。
白すぎるぐらいに白くなってもなお、お嬢さまの顔は人形のように愛くるしい。その整った寝顔を見下ろしていると、いつしか睡魔が襲ってきた。なのでミツは主人から与えられた薄い布団に包まりもせず、鈴子の側で丸くなって眠った。
明朝に目を覚まし、これまた冷え切った朝餉を運ぶ。
「こんな冷たいものなんて、食べる気になれないわ」
鈴子お嬢さまは、いつもの鈴子お嬢さまだった。昨夜のことは熱にうなされて見た夢とでも思っているのだろう。ミツがほっと胸をなで下ろしながら膳を下げると、鈴子はふと寂しそうな目をした。
「……林檎は、ないのね」
そうして、ミツがいるというのに、らしくなく弱音を吐いたのである。その時のお嬢さまの横顔があまりに寂しそうだったから、ミツは普段は夕餉だけに付けていた林檎を、昼餉と翌朝の朝餉にも添えた。すると鈴子はやはり、林檎だけに手を伸ばす。だが香りを楽しむのみで、自ら咀嚼する力はもうないらしい。
だからミツは、今更だというのにうつると騒ぐ愚かなお嬢さまを押し倒して、口移しで林檎を与えた。親鳥がまだ羽毛の生え揃わぬ雛にそうするように。
林檎の果汁と血に濡れた唇は、やはり蕩けるように甘くて。
――私の命を、お嬢さまに分けられたらいいのに。
懸命な願いと、願いではない何かを込めて柔らかな口内を舌で弄る日々が、どれ程続いただろう。
「ミツ」
記憶にある限りでは初めて、お嬢さまがミツを名前で呼んだまさにその瞬間。赤い赤い血が、可憐な唇から滝のように流れた。
――お嬢さま。
ミツにまだ声が出せたのなら、喉も裂けよと叫んでいただろう。だのに、現実に喉から漏れ出たのは、ひゅうという惨めな音だけで。
真白い首から胸元までをも紅蓮に染めたお嬢さまは、二、三度信じられぬとでも言いたげに豊かな睫毛を震わせた。そうして、どさりとその場に倒れ伏したのだった。
声が出せないミツのことだ。着物にべったり付いた鈴子の血を見せても、他の使用人からはとうとうミツも労咳になったのだと勘違いされ、追い払われるのがおちだろう。だが身振り手振りを駆使すれば、もしかしたら誰かがお嬢さまのために医者を呼んでくれるかもしれない。
慌てて鈴子お嬢さまを抱き起し、布団に寝かせてから、座敷牢の戸に手をかける。牢の鍵は、お嬢さまではなくミツが持たされていた。
「……もう、いいのよ。どうせ、誰も来てくれないんだから」
しかし当の鈴子お嬢さまが寂しそうに呟いたのだから、踵を返さずにはいられない。
「それより、林檎はないの」
確か、前に盗んできたのがまだ一つ残っていたはず。矢も楯もたまらず埋めて隠した林檎を雪から掘り起こし、一齧りして咀嚼せんとしたミツを、鈴子お嬢さまは制止した。
「そこまでしてくれなくて、いいわ。最期ぐらい、自分で噛んでみたいから」
致し方なしに口内に含んだ欠片を舌で押して与えると、赤い糸が二つの唇を繋ぐ。
「……おいしいわね」
お嬢さまのか細い指先が、ミツの齧り痕が刻まれた林檎を、愛おしむかのようにそっと撫でた。
この林檎は、旦那様が。
音にして出せずとも、唇の動きから伝えられないだろうか。形にならない嘘を紡ぐミツの青ざめた顔に、お嬢さまの澄み切った目がひたと当てられる。
「こんな時まで、そんな嘘つかなくていいのよ。……全部、分かってたんだから」
驚愕のあまりしばし呼吸も忘れたミツを、鈴子は何が面白いのか、この上なく愉快そうに笑った。あんた、考えてることが結構顔に出るのよ。自分じゃ気づいてなかっただろうけど、いつも見ていたから分かるわ、と。
だとしたら、墓場まで持って行こうと決めていたこの想いにも、とっくに気づかれていたのだろうか。としたらやはりこのお嬢さまは、結構な性格をしている。その気質の強さが、ほんの一割でもいいから、身体の方に分配されていればよかったのに。
「あら。あんたでも、泣くことがあるのね。あんた、わたしがどんなひどい事言っても、顔色一つ変えなかったのに」
いよいよ最期が近づいているというのに、鈴子お嬢さまはふてぶてしいぐらいに落ち付いている。そのお嬢さまに指摘されて初めて、ミツは己が涙していると気づいた。自分でも、びっくりだった。おっかあがいなくなった時にさえ、涙の一粒も流れなかったのに。
「……寒いわ」
慌てて火鉢に薪をくべようとすると、お嬢さまは柳の眉を寄せる。
「違うわ。そうじゃないの。……わたしは、」
長い睫毛に囲まれた愛らしい目は、ただひたすらにじっとミツを見つめている。そういうことかと腕を開くと、お嬢さまはふらりとミツの腕の中に飛び込んできた。やせっぽちのミツよりも布団の方がずっと柔らかくて、温かいのに。
「――わたし、今あんたの考えてること、だいたい分かるわ。大方、わたしのことを馬鹿だと思ってるんでしょ」
骨が浮いた背を撫でると、ミツの腕の中のお嬢さまは、赤く濡れた唇を微笑ませた。
「わたし実は、ずっとあんたの声を聴いてみたかったの。あんたと色々なことを喋ってみたかった。あんたにわたしの名前を呼んでほしかったわ」
御身体に障りますから、少し、静かに。鈴子も望んだようにミツの声がまだ出せていたら、お嬢さまをそう
「でも、それはもういいわ」
――こうして、ずっとそばにいてくれるのなら。
それが、お嬢さまの最後の言葉だった。
力の抜けた手から、齧りかけの林檎がことりと落ちる。そうしてミツは、鈴子お嬢さまの命の終わりを知ったのだった。掻き抱いた腕の中の身体は、まだこんなにも柔らかくて温かいのに。
赤い赤い林檎には、もっと赤い飛沫が飛び散っている。
この林檎を一口食めば、私もお嬢さまと同じように逝けるのだろうか。被りついた林檎は、何故だか塩辛かった。お嬢さま。
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