02
今からおよそ六年前。彼女がまだ北大陸の集落で生活していた時のことである。
各地の豪族によって小規模な国家が乱立しては消えていく北大陸は「戦いの島」と呼ばれるほど戦の絶えない土地であった。
ラテリウヌとディエメオラは南西に位置するコミューンに産まれた幼なじみ同士である。港が開かれた南の一帯は、調停委員会によって争いを禁じられた中立地帯である。ラテリウヌの親族は争いに敗れて北から逃れてきた一族であり、氏族としての苗字を奪われた残党の集まりであった。
「おい、なんかいるぞ」
ある日、二人が遊びに出かけようと港の外に出ると、街道の外れに何か黒っぽいものが倒れているのに気がついた。
「あれ、人だよ」
季節は秋。段々と寒さを増していく中、野外で倒れているということは奴隷か逃亡兵の慣れの果てだろう。
大柄で、髭を生やし、南では見かけないボロボロの装束を巻きつけるように身につけていたそれは、虫にたかられ、生きているか死んでいるかもよくわからないでいた。
しかし、平和な集落で産まれた二人はそのような存在について、よく知っているわけではなかった。
「えっ、生きてんのか?」
「うーん、寝てる?」
二人はそれに触れようとはせず、近くを回ったり、棒で突いたりして反応を伺った。
「死体じゃないかな」
「じゃあ、ほっとこうぜ」
二人がそう言って戻ろうとしたその時、それは動いた。
「水……」
喋った。
二人はしばらく顔を見合わせた。
「あの、飲みますか……」
先に切り出したのはラテリウヌの方だった。
腰に吊るした水筒を差し出すと、男は起き上がり、震える手でそれを受け取った。
まるで浴びるようにそれを飲み干し、長い髭を水で濡らした。
「感謝する……子たちよ」
翡翠色の瞳が二人の子供を捉えた。片方が眼帯で覆われ、顔は傷だらけで、獣臭い異臭がした。
「あの、逃亡兵なんですか?」
「如何にも。某は北のイズルカ族ーーに統合されたエーラモートの兵だ。前線に出されたところをーー逃げ出してきた」
「じゃあよかったじゃねぇか。ここは南の市、誰も戦ったりしねぇし、あんたを取り返そうとするやつは門前払いになるからな」
「そうか、では、ここが南の市になるのだな」
「そう、目の前で倒れてたってことだぜ」
ラテリウヌはディメオラと逃亡兵の男を交互に見た。
(嘘、なんであんな人とすぐ喋ってられるの? 武器も持ってるのにーー)
「あの、私、あっちに話してくる!」
ラテリウヌは走って元の場所まで戻った。
「衛士さん! ちょっときて!」
見張りをしている衛士に声をかけ、ラテリウヌたちは男を引き入れた。
「……ラテリウヌ、あの兵士を入れたのが俺たちだってバレないようにしないと」
「うん、わかってる」
市は来るもの拒まず、去るもの追わずの精神が基本ではあるが、一族同士の因縁が全くない、というわけではない。
隣を歩いている人が、自分の家族を殺した相手かもしれないのだ。
なので、基本的には出身を明かさないのが暗黙の了解となっていた。
男はエーラモートの出身。聞き覚えがなかったが、いつ刃を交えたことがあるかわからない以上、うかつにそれを知らせるのはまずいだろう、と二人は考えたのだった。
逃亡兵の男は、市の長の元へ面会しに行った。
長の家ーー石造りの堅牢な屋敷から出てきた折、彼はこう言った。
「よろしく頼む」と。
「この街に新入り? また逃亡兵かね」
ラテリウヌの母は、香草の炒め物をパンに挟み、そう呟いた。
「言っちゃあ悪いけどね、今回ばかりはきな臭いよ」
一瞬、娘と母の視線が合わさった。
今、自分がどんな顔で母の話を聞いていたのかわからなくなり、すぐに目線を逸らしてしまった。
母親の探るような視線が、尋問官のそれに似ている。
カラスのような瞳に、痩せ細った顔は、異聞によく聞く魔女そっくりだった。
かつては才女、賢女と讃えられていた頃の面影はなく、ただの中年女性と化してしまっている。
ただ、その役割は娘に引き継がれようとしていた。
「全く、本当にここにいる連中は生温いというか、平和ぼけしているねぇ」
ラーヌ、あんたはそうなるんじゃないよ。
母に嫌というほど言われたその言葉は、ラテリウヌの胸に深く刻まれている。
「あんたの父親は馬鹿だったんだ。逃亡兵の女を引き入れて、うちの一族の生き残りは婆様と私とあんただけになってしまった」
歯もなく、すでに明かりも失った祖母は、寝台に横になり、死を待つだけの傀儡のような存在になってしまった。
「あぁ、婆様お食事食べないとね」
薄手の手巾にドロドロになった野菜を染み込ませ、口元まで運ぶと、舌でそれを吸って飲み込んだ。
「あーあ、私がこんなになったら私を殺すんだよ。いいね?」
かつての祖母は、元気で溌剌とした、賢い女性であった。
しかし、自分の子供を目の前で殺されてから、痴呆症のようなものに罹ってしまい、こんな調子になってしまった。
おばあさま、早く楽になればいいのに。
ラテリウヌは、なぜここまでして人が生きようとするのか、わからなかった。
(殺しちゃダメだから、生かすの? もう、死んでしまった方が楽なのに)
夜中、いきなり起きては我が子を求めて徘徊する祖母を見て、ラテリウヌは同情すると同時に、考えてしまう。
「うん、母様がそうして欲しいなら、そうするね」
「馬鹿ねぇ、冗談よ」
「強ぇんだな、やっぱ」
草陰に隠れ、ディメオラが見る先には、逃亡兵の男があった。
刃を潰した訓練用の剣で、衛士と打ち合いをしている様子を観察しにきたのだ。
「うん、あんな姿で倒れてすぐに、もう訓練するなんてね」
「あのおっさん、只者じゃねぇぞ」
「……」
しなやかな足の運び、大きく振りかざすのは大剣。
「あの人、北から来たって言ってたよね」
「あー、確かそうだな。なんか、関係あんのか?」
「もしうちの家族を殺した人なら、母様が黙ってないだろうな、って」
「そればっかりは、どうしようもないだろ。ここって、そういう場所だしな」
自らの所属を表す記章や服の着用は、ここではタブーだ。己の出生を明かすことで、生まれる悲劇がいくらあるだろう。
逃亡兵が身につけているのは、なんの模様もない、簡素な綿の服だった。
「ディメオラから見て、あの人はどう?」
「どうって……ただ、あの動きなら馬に乗って戦ってたんだろうな、とは思うけどよ」
「うん……そっか」
「お前、深入りしようとすんなよ。助けただけで、他人なんだから」
「そうだよね、うん」
そう言いながらも、ラテリウヌは体内をめぐる魔力の流れを読み取ろうと、必死だった。
魔力の流れには、個人差がある。それを見れば、一族を皆殺しにした人間かどうかが、わかるからである。
父親の遺体に残留した魔力は、到底忘れられそうにない。覗き見れば、今にも爆発してしまいそうなほど、強烈なものだった。
(あー、もうちょっと。あと少しなんだけど)
それを見るのには「眼」を酷使する。
子供が使ってはいけないと言われているので、力を加減するしかないのだが、そこが難しいのだ。
「……そこに誰かいるのか」
逃亡兵の男が、隠れている茂みに向かって、そう言った。
二人は顔を見合わせる。
「ラテリウヌ、お前あれ使ったのか」
「ご、ごめん……」
大剣を担いでゆっくりとこちらに歩いてくる姿は、とてもじゃないが素直に出ていける雰囲気ではない。
男が草枝を割ると、二人は観念して立ち上がった。
「お、お久しぶりですね」
「なんだ、子供たちか」
怒られるのかと身構えていた二人は、胸を撫で下ろした。
「おっちゃん強いんだな。でっかい剣振り回してさ」
「イライエさんは強かったなぁ」
手合わせをしていた衛士がそういった。
「おっちゃん、イライエっていうのか」
「うむ、如何にも。さぁ、いつまでも子たちと呼ぶのも何だ。名前を教えてくれ」
「ディメオラだ」
「ラテリウヌです」
「ふむ、ディメオラとラテリウヌか……覚えた。これからよろしく頼む。訓練を見たいなら、これからはこそこそ隠れるなどせずに、衛士に頼んで入れてもらいなさい」
ディメオラはニコニコと笑いながらうなずいたが、ラテリウヌはあまりいい気分にはなれなかった。
(イライエ? 聞いたことあるかな、その名前ーー)
林檎水を受け取り、木陰で涼みながらそんなことを考えた。
「こんにちは。ディメオラ、ラテリウヌ」
別の日、二人が川辺で魚を釣っていると、イライエが近づいてきて、そばに腰を下ろした。
「おっちゃん、こんにちは」
「こんにちは、ご無沙汰してます」
集落近くの海へと続く川は、この時期になると川を昇って出産しようとする魚たちが泳ぎにやってくる。
腹に栄養をため込んだ母魚は、夕飯の材料にちょうどいい。子供たちだけで歩いて行っても問題のない距離だったので、二人は遊びもかねてやってきたのだった。
「……どれ、いくら釣れたんだ?」
イライエはバケツを覗き込んだ。中には一匹も入っていなかった。
「ダメだよおっちゃん、全然釣れねぇよ」
「ほう、少し釣り餌を見てもいいか?」
「あ? かまわねぇけど……」
「……あぁ、ここでこの餌では釣れないはずだ」
そう言って、彼は近くの木の幹を掘り出した。
「この虫だと食いつきがいい」
「へー、なるほどね」
ディメオラはグネグネと動く虫を掴み、釣り針に刺すと川へ投げ込んだ。
「イライエさん、物知りなんですね」
「我が一族は、川で漁をするのを得意としていた」
「そうなんですね……じゃあ、うちと同じです」
「おぉ、そうなのか……」
「はい。でも、この街では出身を名乗るのはやめておいた方がいいですよ。隣の人が、自分の大事な人の敵だったかもしれない」
ラテリウヌは、ほつれた網を繕いながらこっそりとイライエの顔を盗み見ていた。
頬に走る傷痕は、まだ新しいものだろうか。
それさえなければ、普通の中年男性に見えなくもない……が、顔に浮かぶ表情は、人を寄せ付けないような険しいものが見える。ただ、笑い方がぎこちないとか、そういうところはないのだ。
半分、自分に言い聞かせるように言ったのだ。
ラテリウヌの一族が敗れたとき、ひどい虐殺があったという噂が立ち、街に入ってきた時にはもう、出身がわかっているようなものだった。
幸い、ここの住人は直接何かしてくることはないが、それでもいつ仕返しが来るかと怯えないわけではない。
いつも、そういつだって、自分の家を意識しない日はない。
いっそ、この人のように堂々としていられればいいのに。
「……そうか、気をつけよう」
それだけいうと、イライエは黙って水面を見つめた。
「あっ! かかった!」
ディメオラの竿が揺れる。
「よし、踏ん張れ……」
イライエは、後ろからディメオラを見守っていた。大きな背中だった。
どうしようもなくバカらしい考えが思い浮かんだ。
自分に父親という人がいたなら、こんな感じだったのだろうか、と。
ただ、それは本当の父親というわけではなく、偶像として、象徴としての父親だ。「父親役」と言い換えてもいいかもしれない。
本当の父親という人間は、一族を滅したうつけ者だったらしいのだから。
「よっしゃあ! 取れた!」
ディメオラは水を張ったバケツに魚を投げ入れた。
「ラテリウヌ! お前もやってみろよ! ほら、釣竿貸してやるから」
「う、うん……」
一匹釣れて気分が上がったのか、ディメオラは裸足になって川の中に入って行った。
「ねぇ、それだと私釣れないよ」
「手掴みでも取れそうじゃねえか?」
「あんまり深いところまで行っちゃダメだよ」
いきなり、イライエが立ち上がった。
「駄目だ! いますぐ戻れ!」
「あぁ? こんくらい俺よりチビのガキでもやってるぜ」
「この川は、駄目だ。いいから、こっちへ来い」
目を見開き、必死な表情でイライエは言った。地底のように低い声で、ここまで迫力のある声を聞いたのは初めてだった。
ラテリウヌとしては、川に入ったくらいで大袈裟な、とは思ったが、何か深い事情があるのだろうと察した。
ディメオラは怪訝そうな顔をしてこちらへと戻ってくると、ラテリウヌの隣に座った。
「なぁ、大袈裟じゃねぇの?」
「でも、危ないよ」
「はぁ? 川渡りくらい、俺ん年くらいのやつでもやってんだけどな……おっちゃん、なんかあったのか?」
「さぁ……」
彼はディメオラが戻ってくると、何もなかったかのように座り込み、どこかを見つめていた。
(なんだ、変なの)
「あ、かかった」
それから2、3時間でそこそこの量の魚を釣り上げることができたので、三人は街へと戻った。
「これで、夕食は大丈夫だな」
「うん、だね」
「おっちゃん、あんがとな」
イライエは黙って頷き、二人の後ろに続いて歩いた。
街の入り口へと戻ると、ちょうど市場にラテリウヌの母親がいた。
夕食の買い出しだろうか。なぜか少し気づかれたくなくて、足早に歩いたが、向こうが目敏く気づいて、挨拶した。
「あら、ラーヌにディメオラ? 今日は早かったじゃない」
なんで今なんだ! とラテリウヌは叫びたくなった。
後ろにいるイライエは、頭を下げた。
「後ろにいるのは?」
「あー、この人は……川に行くから危なくないように見てくれてさ」
「見ない顔ね。新入りさん?」
「あぁ、イライエと申します」
じろじろと無遠慮な視線にも動じることなく、イライエは直立不動の姿勢を保ったままでいた。ラテリウヌは、胃が張り裂けそうな思いだった。
「あら、うちの子がお世話になってます。この子の母です」
肩を引き寄せられ、彼女は娘の身長に合わせてしゃがんだ。
「ラテリウヌの親御さんでしたか」
「えぇ、うちの子、何か迷惑をかけませんでしたか?」
「いえ、彼らはとてもいい子供たちです」
イライエが柔らかい口調で話すので、二人は驚いた。
そして何か、二人の間に流れる空気が変わった気がした。
「あんた、もうあの男と親しくするのはやめなさい」
家に戻るや否や、母は形相を変えてそう言った。
市場で買った食材を机に置くと、深いため息をついた。身が縮こまる思いだった。
表情が見えない分、恐ろしいのだ。
得体の知れない化け物と対峙したような悪寒を感じる。
「でも、母様」
ラテリウヌは何か言い返そうとしたが、黙った。
あまりにも気迫が凄まじいのだ。
母は包丁を取り出した。思わず肩が震えた。まるで自分が刺されそうになったようで。
「あの男、あんなに馴れ馴れしいなんて……ああ! 本当に腹が立つ! 何も覚えていないなんで……」
母親の言わんとしていることは察せられた。
口にするまでもないだろう。
ラテリウヌには、母を止められないであろうことを悟った。
あの人の執念は本物だった。
本当に、怒りを理解できないのだ。自分が生まれる前に起こったことなど、知る由もない。
どうでもいいとすら思った。
しばらく、他所では言えないような罵詈雑言を叫んで、それから憑物が落ちたように母親は背筋を伸ばした。
「あいつらが私たちを殺したの」
「……」
「まぁいいわ。ラーヌ、明日の晩餐にあいつを呼びなさい」
何か恐ろしいことが起こる気がした。
拒否権はない。
黙って頷くと、ラテリウヌは自室へと戻った。
母は市場で買った魚を捌き始めた。その手つきは何か別のものを解体しているように見えた。
その晩、母親が寝屋に入ったのを確認して、ラテリウヌは外へ抜け出した。
夜中に子供が一人で歩いていると目立つので、暗がりを選んで歩いた。
月明かりはなく、静かな夜だったし、人通りも全くないので、まるで廃墟を進んでいるようだった。
夜は寒く、巻き付けたストールだけが寒さを防いでくれる。
足を運んだのは、衛兵の詰所だった。ここは罪人を監視する刑務所も兼ねているので、入り口には屈強な衛士たちが立っていた。
どううち明ければ良いのか、それを考えながら接近すると、向こうが気づいてこちらを見た。
「こんな夜中にどうした」
何かあったとは思っているのだろう。
訝しげにこちらを探る視線は、居心地が悪かった。
今、それを言ったら全てが壊れてしまう。本当に、この決断でよかったのか、おそらく死ぬまで悩むだろう。
ただ、いつまでもモジモジしているわけにはいかない。
「私の母が人殺しになろうとしているんです……」
自分でもおかしいことを言っている自覚はあった。下手すれば、保護者に連絡されて終わりだろう、とか、変なやつ扱いされてロクに取り合ってもらえないだろうとか。
「中で詳しく聞かせてくれないか」
こちらの目線に合わせてしゃがんだ男と目があった。
もう後戻りはできないと思った。
中に通されると、廊下には蝋燭の火が点っていた。廊下を渡って部屋に入ると、門番の男はどこかへ行ってしまった。
天井には鉱石がぶら下がっていて、昼間のように明るく光っていた。
普段は尋問や面談に使われているであろう部屋で、壁には南の大陸から運ばれてきた布がかけられていた。
「入ってもいいか?」
数度のノックののち、男とも女ともつかないような声が聞こえてきた。
そして、入ってきた姿を見て驚いた。
「市長!?」
「あぁ、知っていたのか」
南の市の長たる人物、その人が直々に出てきたのだ。しかも、夜中に。
「この建物、謁見のためにも使用されるんだが、何、今日はたまたま部下と飲んでいてな」
淹れたての茶を机の上において、市長はこちらに向かい合った。
「さて、ラテリウヌ。君のお母上についてはこちらもよく知っているーー何せ、君たちの家族は」
「そこまで言っていただかなくても結構です」
自分の家が特殊であることは、よく理解していた。
そして、そのことが長にも知られているのは、頭が痛くなる。それに加えて名前まで把握していたとは。
「悪かったね。さて、私がきた理由はわかるだろう? 君のお母上がなそうとしていることは、この市の存続に関わるからね」
復讐はご法度なんだよ、それは知っているね? と長は言う。
「じゃあどうすればいいんですか」
「君の告白という勇気に感謝したい」
「最初から知っていたんですか?」
「嫌な予感はしていた」
なんとも嫌な会話だと思った。
「具体的な手段はわかっているのか? 毒殺か? 呪殺か?」
「……おそらく毒殺でしょう」
「できれば未遂で済ませたいが、協力できるか」
「できる限りはしますよ」
「随分大層な決心だな。して、君はどうして正義にかまけているんだ?」
「すみません、意図がよくわかりません」
「身内だろう? どうして見逃さない」
どうして自分がこんなことをしているのか、正直にいえばわからなかった。
ラテリウヌとしては、母親が馬鹿なことをしでかそうとしているのを止めたいという気持ちなのか、イライエが死ぬのを止めたいのか、どちらなのかわからないのだ。
両方、といえばそうなのだが、どちらも決定打に欠けている気がする。
身内、親族、一族が大事であり、それ以外はどうなってもいいという人間ばかりだ、この大陸の人間は。
母親のことが嫌いなのかと言われれば、そうでもないだろう。ただ、イライエを犠牲にしてまで母親の愚行を許せるわけではないのだ。
「難しい質問だっただろうか……まぁ、成年前の子供に問うことではなかったな」
「……私は多分、母が死んでも悲しみません」
「知っているか? ここの掟を」
「目には目を……犯した罪にはそれ相応の対価で償うーー未遂でも、そうなるのですか?」
「未遂なら、まだ裁量の余地はある。ただし、君たちの今後を保証できるわけではない。ここを出て行くことになるだろうな。隠していても、噂というのはすぐに広まるものだ」
ここは実に、開放的に見えて封鎖的な社会である。殺人を企てた人間ーーその娘というだけで、ここではもう生きていけなくなるだろう。
「そうですか……わかりました」
「……無論、君が止めてくれれば罪は軽くなるのだが」
「無理です。母は私より強いんです」
「……ラテリウヌ、君はこの実母親がどうなってもいいと思っているだろ」
「私が、母を?」
心臓を鷲掴みにされたような心地だった。
何か大事な部分を引っ掻かれたような、悪寒が走った。
正直なところ、図星だったかもしれない。
「隠すことはない。家族というのはたまたま血縁者であるだけの他人だ。そんなものに、神経をすり減らしてまで付き合う必要はないのだし」
「……確かに、母のことを尊敬できるとは思えません。ですが、どうなってもいいとはーー」
「母親の復讐に自分まで付き合うことはない、とだけ伝えておこう。かく言う私も、血で血を争う応酬にはうんざりしていてなーーこの町の理念に反する者はもう、どこにも居場所はないのだよ。私が貴方の母君を止めても、また別の誰かが誰かを恨むだろうーー君も誰かを恨んでいるようにね」
「……」
「おっと、喋りすぎたな。もう夜は遅い、帰りなさい」
帰り道、送迎を丁寧に辞退し、疲れてゆっくりと家まで戻った。
ただ一つ、気になったのは市長がいかにして自分たちの情報を嗅ぎつけたか、ということだった。ここに来た時に母はそれについて語る機会があったのだろうか。それとも、特殊な能力でも用いた? 高精度の幻術の使い手は、能力の行使すら相手に悟らせないというーーそれかもしれない。
もし、彼が千里眼の持ち主だとしたら、この告発のために振り絞った勇気の意味はあったのだろうか。
そして、これらの行動が母親に露見した場合、彼女はどのようにして出るのだろう。
彼女の賢者としての力は、全盛期には及ばないにしてもまだ残っている。
賢者と曲者市長。
俗な対決だと密かに笑ってしまう。まるで他人事のようで可笑しかった。
……そうか、自分は母親を嫌いなのか。そして、その感情はごく当たり前であり、特段悩むことでもなかったのか。
ベッドに潜り込み、隣の部屋の寝台で眠る母の顔を思い出した。
復讐にかまけて家族を大事にしない母親など、どうなってもいい。そして、この感情は悪いことではない。
夜には夢を見た。船に乗って、海を旅していた。
目が覚めて、決心した。
西へ行こう。すべてが終わったら、船に乗ってここを出ていこうと決めた。
昼間、息を潜めて隠れたい気持ちでいっぱいだった。いつ向こうが動くのか、母は本当に復讐を敢行するつもりなのか。
少し悩んだが、いつも通りに過ごすことにした。こっそり荷物だけまとめて、戸棚の中に隠した。
有事の際、祖母だけは安全なところに逃さなければいけない。そして、自分はどこかへ逃げる必要があるだろう。
「ディメオラ、旅って興味ある?」
「……旅か? 旅っつってもここらへんの遺跡は遺跡守たちが守ってるだろ……大陸を歩く足もないし……無理じゃないか?」
「うーんそれはそうなんだけどさ、もし仮にだよ、世界中どこでも行けるってなったらどこに行きたい?」
「それって、外にもか?」
「そうさなぁ、だったら、俺は西に行きたい。ほら西って、迷宮があるだろ? そこででっかく一山あてたいんだ」
「なるほどね……迷宮か、それもいいね」
「それはいいんだけどよ、お前はどっか行きたいところってないのかよ」
「私?」
「聞き出しっぺだろ? 自分はなにか考えてないのかよ」
「私……私は」
そうだった。昨日のよるに思いついたことだったから、行き先も何も考えていなかった。
「ごめん、なんか昨日、海を渡ってどこかにいく夢を見たんだ……だから、ちょっと気になっただけ」
「俺たちも大人になったら、ここを出て旅するのもいいかもな」
「ディメオラ……」
ラテリウヌは、泣きだすのを堪えきれなかった。なかないように我慢しようとすればするほど、とめどない量の涙がながれ、鼻水が止まらなくなった。
「私、もう嫌だ……いきたい、外国。逃げたい!」
「おい、どうしたんだよ……」
泣きじゃくるラテリウヌを目の前にして、ディメオラは混乱しながらも、鼻紙を差し出した。
「お母様が、イライエさんを殺すの」
「あり得ない……」今からおよそ六年前。彼女がまだ北大陸の集落で生活していた時のことである。
各地の豪族によって小規模な国家が乱立しては消えていく北大陸は「戦いの島」と呼ばれるほど戦の絶えない土地であった。
ラテリウヌとディエメオラは南西に位置するコミューンに産まれた幼なじみ同士である。港が開かれた南の一帯は、調停委員会によって争いを禁じられた中立地帯である。ラテリウヌの親族は争いに敗れて北から逃れてきた一族であり、氏族としての苗字を奪われた残党の集まりであった。
「おい、なんかいるぞ」
ある日、二人が遊びに出かけようと港の外に出ると、街道の外れに何か黒っぽいものが倒れているのに気がついた。
「あれ、人だよ」
季節は秋。段々と寒さを増していく中、野外で倒れているということは奴隷か逃亡兵の慣れの果てだろう。
大柄で、髭を生やし、南では見かけないボロボロの装束を巻きつけるように身につけていたそれは、虫にたかられ、生きているか死んでいるかもよくわからないでいた。
しかし、平和な集落で産まれた二人はそのような存在について、よく知っているわけではなかった。
「えっ、生きてんのか?」
「うーん、寝てる?」
二人はそれに触れようとはせず、近くを回ったり、棒で突いたりして反応を伺った。
「死体じゃないかな」
「じゃあ、ほっとこうぜ」
二人がそう言って戻ろうとしたその時、それは動いた。
「水……」
喋った。
二人はしばらく顔を見合わせた。
「あの、飲みますか……」
先に切り出したのはラテリウヌの方だった。
腰に吊るした水筒を差し出すと、男は起き上がり、震える手でそれを受け取った。
まるで浴びるようにそれを飲み干し、長い髭を水で濡らした。
「感謝する……子たちよ」
翡翠色の瞳が二人の子供を捉えた。片方が眼帯で覆われ、顔は傷だらけで、獣臭い異臭がした。
「あの、逃亡兵なんですか?」
「如何にも。某は北のイズルカ族ーーに統合されたエーラモートの兵だ。前線に出されたところをーー逃げ出してきた」
「じゃあよかったじゃねぇか。ここは南の市、誰も戦ったりしねぇし、あんたを取り返そうとするやつは門前払いになるからな」
「そうか、では、ここが南の市になるのだな」
「そう、目の前で倒れてたってことだぜ」
ラテリウヌはディメオラと逃亡兵の男を交互に見た。
(嘘、なんであんな人とすぐ喋ってられるの? 武器も持ってるのにーー)
「あの、私、あっちに話してくる!」
ラテリウヌは走って元の場所まで戻った。
「衛士さん! ちょっときて!」
見張りをしている衛士に声をかけ、ラテリウヌたちは男を引き入れた。
「……ラテリウヌ、あの兵士を入れたのが俺たちだってバレないようにしないと」
「うん、わかってる」
市は来るもの拒まず、去るもの追わずの精神が基本ではあるが、一族同士の因縁が全くない、というわけではない。
隣を歩いている人が、自分の家族を殺した相手かもしれないのだ。
なので、基本的には出身を明かさないのが暗黙の了解となっていた。
男はエーラモートの出身。聞き覚えがなかったが、いつ刃を交えたことがあるかわからない以上、うかつにそれを知らせるのはまずいだろう、と二人は考えたのだった。
逃亡兵の男は、市の長の元へ面会しに行った。
長の家ーー石造りの堅牢な屋敷から出てきた折、彼はこう言った。
「よろしく頼む」と。
「この街に新入り? また逃亡兵かね」
ラテリウヌの母は、香草の炒め物をパンに挟み、そう呟いた。
「言っちゃあ悪いけどね、今回ばかりはきな臭いよ」
一瞬、娘と母の視線が合わさった。
今、自分がどんな顔で母の話を聞いていたのかわからなくなり、すぐに目線を逸らしてしまった。
母親の探るような視線が、尋問官のそれに似ている。
カラスのような瞳に、痩せ細った顔は、異聞によく聞く魔女そっくりだった。
かつては才女、賢女と讃えられていた頃の面影はなく、ただの中年女性と化してしまっている。
ただ、その役割は娘に引き継がれようとしていた。
「全く、本当にここにいる連中は生温いというか、平和ぼけしているねぇ」
ラーヌ、あんたはそうなるんじゃないよ。
母に嫌というほど言われたその言葉は、ラテリウヌの胸に深く刻まれている。
「あんたの父親は馬鹿だったんだ。逃亡兵の女を引き入れて、うちの一族の生き残りは婆様と私とあんただけになってしまった」
歯もなく、すでに明かりも失った祖母は、寝台に横になり、死を待つだけの傀儡のような存在になってしまった。
「あぁ、婆様お食事食べないとね」
薄手の手巾にドロドロになった野菜を染み込ませ、口元まで運ぶと、舌でそれを吸って飲み込んだ。
「あーあ、私がこんなになったら私を殺すんだよ。いいね?」
かつての祖母は、元気で溌剌とした、賢い女性であった。
しかし、自分の子供を目の前で殺されてから、痴呆症のようなものに罹ってしまい、こんな調子になってしまった。
おばあさま、早く楽になればいいのに。
ラテリウヌは、なぜここまでして人が生きようとするのか、わからなかった。
(殺しちゃダメだから、生かすの? もう、死んでしまった方が楽なのに)
夜中、いきなり起きては我が子を求めて徘徊する祖母を見て、ラテリウヌは同情すると同時に、考えてしまう。
「うん、母様がそうして欲しいなら、そうするね」
「馬鹿ねぇ、冗談よ」
「強ぇんだな、やっぱ」
草陰に隠れ、ディメオラが見る先には、逃亡兵の男があった。
刃を潰した訓練用の剣で、衛士と打ち合いをしている様子を観察しにきたのだ。
「うん、あんな姿で倒れてすぐに、もう訓練するなんてね」
「あのおっさん、只者じゃねぇぞ」
「……」
しなやかな足の運び、大きく振りかざすのは大剣。
「あの人、北から来たって言ってたよね」
「あー、確かそうだな。なんか、関係あんのか?」
「もしうちの家族を殺した人なら、母様が黙ってないだろうな、って」
「そればっかりは、どうしようもないだろ。ここって、そういう場所だしな」
自らの所属を表す記章や服の着用は、ここではタブーだ。己の出生を明かすことで、生まれる悲劇がいくらあるだろう。
逃亡兵が身につけているのは、なんの模様もない、簡素な綿の服だった。
「ディメオラから見て、あの人はどう?」
「どうって……ただ、あの動きなら馬に乗って戦ってたんだろうな、とは思うけどよ」
「うん……そっか」
「お前、深入りしようとすんなよ。助けただけで、他人なんだから」
「そうだよね、うん」
そう言いながらも、ラテリウヌは体内をめぐる魔力の流れを読み取ろうと、必死だった。
魔力の流れには、個人差がある。それを見れば、一族を皆殺しにした人間かどうかが、わかるからである。
父親の遺体に残留した魔力は、到底忘れられそうにない。覗き見れば、今にも爆発してしまいそうなほど、強烈なものだった。
(あー、もうちょっと。あと少しなんだけど)
それを見るのには「眼」を酷使する。
子供が使ってはいけないと言われているので、力を加減するしかないのだが、そこが難しいのだ。
「……そこに誰かいるのか」
逃亡兵の男が、隠れている茂みに向かって、そう言った。
二人は顔を見合わせる。
「ラテリウヌ、お前あれ使ったのか」
「ご、ごめん……」
大剣を担いでゆっくりとこちらに歩いてくる姿は、とてもじゃないが素直に出ていける雰囲気ではない。
男が草枝を割ると、二人は観念して立ち上がった。
「お、お久しぶりですね」
「なんだ、子供たちか」
怒られるのかと身構えていた二人は、胸を撫で下ろした。
「おっちゃん強いんだな。でっかい剣振り回してさ」
「イライエさんは強かったなぁ」
手合わせをしていた衛士がそういった。
「おっちゃん、イライエっていうのか」
「うむ、如何にも。さぁ、いつまでも子たちと呼ぶのも何だ。名前を教えてくれ」
「ディメオラだ」
「ラテリウヌです」
「ふむ、ディメオラとラテリウヌか……覚えた。これからよろしく頼む。訓練を見たいなら、これからはこそこそ隠れるなどせずに、衛士に頼んで入れてもらいなさい」
ディメオラはニコニコと笑いながらうなずいたが、ラテリウヌはあまりいい気分にはなれなかった。
(イライエ? 聞いたことあるかな、その名前ーー)
林檎水を受け取り、木陰で涼みながらそんなことを考えた。
「こんにちは。ディメオラ、ラテリウヌ」
別の日、二人が川辺で魚を釣っていると、イライエが近づいてきて、そばに腰を下ろした。
「おっちゃん、こんにちは」
「こんにちは、ご無沙汰してます」
集落近くの海へと続く川は、この時期になると川を昇って出産しようとする魚たちが泳ぎにやってくる。
腹に栄養をため込んだ母魚は、夕飯の材料にちょうどいい。子供たちだけで歩いて行っても問題のない距離だったので、二人は遊びもかねてやってきたのだった。
「……どれ、いくら釣れたんだ?」
イライエはバケツを覗き込んだ。中には一匹も入っていなかった。
「ダメだよおっちゃん、全然釣れねぇよ」
「ほう、少し釣り餌を見てもいいか?」
「あ? かまわねぇけど……」
「……あぁ、ここでこの餌では釣れないはずだ」
そう言って、彼は近くの木の幹を掘り出した。
「この虫だと食いつきがいい」
「へー、なるほどね」
ディメオラはグネグネと動く虫を掴み、釣り針に刺すと川へ投げ込んだ。
「イライエさん、物知りなんですね」
「我が一族は、川で漁をするのを得意としていた」
「そうなんですね……じゃあ、うちと同じです」
「おぉ、そうなのか……」
「はい。でも、この街では出身を名乗るのはやめておいた方がいいですよ。隣の人が、自分の大事な人の敵だったかもしれない」
ラテリウヌは、ほつれた網を繕いながらこっそりとイライエの顔を盗み見ていた。
頬に走る傷痕は、まだ新しいものだろうか。
それさえなければ、普通の中年男性に見えなくもない……が、顔に浮かぶ表情は、人を寄せ付けないような険しいものが見える。ただ、笑い方がぎこちないとか、そういうところはないのだ。
半分、自分に言い聞かせるように言ったのだ。
ラテリウヌの一族が敗れたとき、ひどい虐殺があったという噂が立ち、街に入ってきた時にはもう、出身がわかっているようなものだった。
幸い、ここの住人は直接何かしてくることはないが、それでもいつ仕返しが来るかと怯えないわけではない。
いつも、そういつだって、自分の家を意識しない日はない。
いっそ、この人のように堂々としていられればいいのに。
「……そうか、気をつけよう」
それだけいうと、イライエは黙って水面を見つめた。
「あっ! かかった!」
ディメオラの竿が揺れる。
「よし、踏ん張れ……」
イライエは、後ろからディメオラを見守っていた。大きな背中だった。
どうしようもなくバカらしい考えが思い浮かんだ。
自分に父親という人がいたなら、こんな感じだったのだろうか、と。
ただ、それは本当の父親というわけではなく、偶像として、象徴としての父親だ。「父親役」と言い換えてもいいかもしれない。
本当の父親という人間は、一族を滅したうつけ者だったらしいのだから。
「よっしゃあ! 取れた!」
ディメオラは水を張ったバケツに魚を投げ入れた。
「ラテリウヌ! お前もやってみろよ! ほら、釣竿貸してやるから」
「う、うん……」
一匹釣れて気分が上がったのか、ディメオラは裸足になって川の中に入って行った。
「ねぇ、それだと私釣れないよ」
「手掴みでも取れそうじゃねえか?」
「あんまり深いところまで行っちゃダメだよ」
いきなり、イライエが立ち上がった。
「駄目だ! いますぐ戻れ!」
「あぁ? こんくらい俺よりチビのガキでもやってるぜ」
「この川は、駄目だ。いいから、こっちへ来い」
目を見開き、必死な表情でイライエは言った。地底のように低い声で、ここまで迫力のある声を聞いたのは初めてだった。
ラテリウヌとしては、川に入ったくらいで大袈裟な、とは思ったが、何か深い事情があるのだろうと察した。
ディメオラは怪訝そうな顔をしてこちらへと戻ってくると、ラテリウヌの隣に座った。
「なぁ、大袈裟じゃねぇの?」
「でも、危ないよ」
「はぁ? 川渡りくらい、俺ん年くらいのやつでもやってんだけどな……おっちゃん、なんかあったのか?」
「さぁ……」
彼はディメオラが戻ってくると、何もなかったかのように座り込み、どこかを見つめていた。
(なんだ、変なの)
「あ、かかった」
それから2、3時間でそこそこの量の魚を釣り上げることができたので、三人は街へと戻った。
「これで、夕食は大丈夫だな」
「うん、だね」
「おっちゃん、あんがとな」
イライエは黙って頷き、二人の後ろに続いて歩いた。
街の入り口へと戻ると、ちょうど市場にラテリウヌの母親がいた。
夕食の買い出しだろうか。なぜか少し気づかれたくなくて、足早に歩いたが、向こうが目敏く気づいて、挨拶した。
「あら、ラーヌにディメオラ? 今日は早かったじゃない」
なんで今なんだ! とラテリウヌは叫びたくなった。
後ろにいるイライエは、頭を下げた。
「後ろにいるのは?」
「あー、この人は……川に行くから危なくないように見てくれてさ」
「見ない顔ね。新入りさん?」
「あぁ、イライエと申します」
じろじろと無遠慮な視線にも動じることなく、イライエは直立不動の姿勢を保ったままでいた。ラテリウヌは、胃が張り裂けそうな思いだった。
「あら、うちの子がお世話になってます。この子の母です」
肩を引き寄せられ、彼女は娘の身長に合わせてしゃがんだ。
「ラテリウヌの親御さんでしたか」
「えぇ、うちの子、何か迷惑をかけませんでしたか?」
「いえ、彼らはとてもいい子供たちです」
イライエが柔らかい口調で話すので、二人は驚いた。
そして何か、二人の間に流れる空気が変わった気がした。
「あんた、もうあの男と親しくするのはやめなさい」
家に戻るや否や、母は形相を変えてそう言った。
市場で買った食材を机に置くと、深いため息をついた。身が縮こまる思いだった。
表情が見えない分、恐ろしいのだ。
得体の知れない化け物と対峙したような悪寒を感じる。
「でも、母様」
ラテリウヌは何か言い返そうとしたが、黙った。
あまりにも気迫が凄まじいのだ。
母は包丁を取り出した。思わず肩が震えた。まるで自分が刺されそうになったようで。
「あの男、あんなに馴れ馴れしいなんて……ああ! 本当に腹が立つ! 何も覚えていないなんで……」
母親の言わんとしていることは察せられた。
口にするまでもないだろう。
ラテリウヌには、母を止められないであろうことを悟った。
あの人の執念は本物だった。
本当に、怒りを理解できないのだ。自分が生まれる前に起こったことなど、知る由もない。
どうでもいいとすら思った。
しばらく、他所では言えないような罵詈雑言を叫んで、それから憑物が落ちたように母親は背筋を伸ばした。
「あいつらが私たちを殺したの」
「……」
「まぁいいわ。ラーヌ、明日の晩餐にあいつを呼びなさい」
何か恐ろしいことが起こる気がした。
拒否権はない。
黙って頷くと、ラテリウヌは自室へと戻った。
母は市場で買った魚を捌き始めた。その手つきは何か別のものを解体しているように見えた。
その晩、母親が寝屋に入ったのを確認して、ラテリウヌは外へ抜け出した。
夜中に子供が一人で歩いていると目立つので、暗がりを選んで歩いた。
月明かりはなく、静かな夜だったし、人通りも全くないので、まるで廃墟を進んでいるようだった。
夜は寒く、巻き付けたストールだけが寒さを防いでくれる。
足を運んだのは、衛兵の詰所だった。ここは罪人を監視する刑務所も兼ねているので、入り口には屈強な衛士たちが立っていた。
どううち明ければ良いのか、それを考えながら接近すると、向こうが気づいてこちらを見た。
「こんな夜中にどうした」
何かあったとは思っているのだろう。
訝しげにこちらを探る視線は、居心地が悪かった。
今、それを言ったら全てが壊れてしまう。本当に、この決断でよかったのか、おそらく死ぬまで悩むだろう。
ただ、いつまでもモジモジしているわけにはいかない。
「私の母が人殺しになろうとしているんです……」
自分でもおかしいことを言っている自覚はあった。下手すれば、保護者に連絡されて終わりだろう、とか、変なやつ扱いされてロクに取り合ってもらえないだろうとか。
「中で詳しく聞かせてくれないか」
こちらの目線に合わせてしゃがんだ男と目があった。
もう後戻りはできないと思った。
中に通されると、廊下には蝋燭の火が点っていた。廊下を渡って部屋に入ると、門番の男はどこかへ行ってしまった。
天井には鉱石がぶら下がっていて、昼間のように明るく光っていた。
普段は尋問や面談に使われているであろう部屋で、壁には南の大陸から運ばれてきた布がかけられていた。
「入ってもいいか?」
数度のノックののち、男とも女ともつかないような声が聞こえてきた。
そして、入ってきた姿を見て驚いた。
「市長!?」
「あぁ、知っていたのか」
南の市の長たる人物、その人が直々に出てきたのだ。しかも、夜中に。
「この建物、謁見のためにも使用されるんだが、何、今日はたまたま部下と飲んでいてな」
淹れたての茶を机の上において、市長はこちらに向かい合った。
「さて、ラテリウヌ。君のお母上についてはこちらもよく知っているーー何せ、君たちの家族は」
「そこまで言っていただかなくても結構です」
自分の家が特殊であることは、よく理解していた。
そして、そのことが長にも知られているのは、頭が痛くなる。それに加えて名前まで把握していたとは。
「悪かったね。さて、私がきた理由はわかるだろう? 君のお母上がなそうとしていることは、この市の存続に関わるからね」
復讐はご法度なんだよ、それは知っているね? と長は言う。
「じゃあどうすればいいんですか」
「君の告白という勇気に感謝したい」
「最初から知っていたんですか?」
「嫌な予感はしていた」
なんとも嫌な会話だと思った。
「具体的な手段はわかっているのか? 毒殺か? 呪殺か?」
「……おそらく毒殺でしょう」
「できれば未遂で済ませたいが、協力できるか」
「できる限りはしますよ」
「随分大層な決心だな。して、君はどうして正義にかまけているんだ?」
「すみません、意図がよくわかりません」
「身内だろう? どうして見逃さない」
どうして自分がこんなことをしているのか、正直にいえばわからなかった。
ラテリウヌとしては、母親が馬鹿なことをしでかそうとしているのを止めたいという気持ちなのか、イライエが死ぬのを止めたいのか、どちらなのかわからないのだ。
両方、といえばそうなのだが、どちらも決定打に欠けている気がする。
身内、親族、一族が大事であり、それ以外はどうなってもいいという人間ばかりだ、この大陸の人間は。
母親のことが嫌いなのかと言われれば、そうでもないだろう。ただ、イライエを犠牲にしてまで母親の愚行を許せるわけではないのだ。
「難しい質問だっただろうか……まぁ、成年前の子供に問うことではなかったな」
「……私は多分、母が死んでも悲しみません」
「知っているか? ここの掟を」
「目には目を……犯した罪にはそれ相応の対価で償うーー未遂でも、そうなるのですか?」
「未遂なら、まだ裁量の余地はある。ただし、君たちの今後を保証できるわけではない。ここを出て行くことになるだろうな。隠していても、噂というのはすぐに広まるものだ」
ここは実に、開放的に見えて封鎖的な社会である。殺人を企てた人間ーーその娘というだけで、ここではもう生きていけなくなるだろう。
「そうですか……わかりました」
「……無論、君が止めてくれれば罪は軽くなるのだが」
「無理です。母は私より強いんです」
「……ラテリウヌ、君はこの実母親がどうなってもいいと思っているだろ」
「私が、母を?」
心臓を鷲掴みにされたような心地だった。
何か大事な部分を引っ掻かれたような、悪寒が走った。
正直なところ、図星だったかもしれない。
「隠すことはない。家族というのはたまたま血縁者であるだけの他人だ。そんなものに、神経をすり減らしてまで付き合う必要はないのだし」
「……確かに、母のことを尊敬できるとは思えません。ですが、どうなってもいいとはーー」
「母親の復讐に自分まで付き合うことはない、とだけ伝えておこう。かく言う私も、血で血を争う応酬にはうんざりしていてなーーこの町の理念に反する者はもう、どこにも居場所はないのだよ。私が貴方の母君を止めても、また別の誰かが誰かを恨むだろうーー君も誰かを恨んでいるようにね」
「……」
「おっと、喋りすぎたな。もう夜は遅い、帰りなさい」
帰り道、送迎を丁寧に辞退し、疲れてゆっくりと家まで戻った。
ただ一つ、気になったのは市長がいかにして自分たちの情報を嗅ぎつけたか、ということだった。ここに来た時に母はそれについて語る機会があったのだろうか。それとも、特殊な能力でも用いた? 高精度の幻術の使い手は、能力の行使すら相手に悟らせないというーーそれかもしれない。
もし、彼が千里眼の持ち主だとしたら、この告発のために振り絞った勇気の意味はあったのだろうか。
そして、これらの行動が母親に露見した場合、彼女はどのようにして出るのだろう。
彼女の賢者としての力は、全盛期には及ばないにしてもまだ残っている。
賢者と曲者市長。
俗な対決だと密かに笑ってしまう。まるで他人事のようで可笑しかった。
……そうか、自分は母親を嫌いなのか。そして、その感情はごく当たり前であり、特段悩むことでもなかったのか。
ベッドに潜り込み、隣の部屋の寝台で眠る母の顔を思い出した。
復讐にかまけて家族を大事にしない母親など、どうなってもいい。そして、この感情は悪いことではない。
夜には夢を見た。船に乗って、海を旅していた。
目が覚めて、決心した。
西へ行こう。すべてが終わったら、船に乗ってここを出ていこうと決めた。
昼間、息を潜めて隠れたい気持ちでいっぱいだった。いつ向こうが動くのか、母は本当に復讐を敢行するつもりなのか。
少し悩んだが、いつも通りに過ごすことにした。こっそり荷物だけまとめて、戸棚の中に隠した。
有事の際、祖母だけは安全なところに逃さなければいけない。そして、自分はどこかへ逃げる必要があるだろう。
「ディメオラ、旅って興味ある?」
「……旅か? 旅っつってもここらへんの遺跡は遺跡守たちが守ってるだろ……大陸を歩く足もないし……無理じゃないか?」
「うーんそれはそうなんだけどさ、もし仮にだよ、世界中どこでも行けるってなったらどこに行きたい?」
「それって、外にもか?」
「そうさなぁ、だったら、俺は西に行きたい。ほら西って、迷宮があるだろ? そこででっかく一山あてたいんだ」
「なるほどね……迷宮か、それもいいね」
「それはいいんだけどよ、お前はどっか行きたいところってないのかよ」
「私?」
「聞き出しっぺだろ? 自分はなにか考えてないのかよ」
「私……私は」
そうだった。昨日のよるに思いついたことだったから、行き先も何も考えていなかった。
「ごめん、なんか昨日、海を渡ってどこかにいく夢を見たんだ……だから、ちょっと気になっただけ」
「俺たちも大人になったら、ここを出て旅するのもいいかもな」
「ディメオラ……」
ラテリウヌは、泣きだすのを堪えきれなかった。なかないように我慢しようとすればするほど、とめどない量の涙がながれ、鼻水が止まらなくなった。
「私、もう嫌だ……いきたい、外国。逃げたい!」
「おい、どうしたんだよ……」
泣きじゃくるラテリウヌを目の前にして、ディメオラは混乱しながらも、鼻紙を差し出した。
「お母様が、イライエさんを殺すの」
「あり得ない……」
「本当なの! 市場で揉め事はいけないから、お母さんは私が殺さなきゃ!」
混乱して叫ぶラテリウヌに肩を寄せ、ディメオラは涙を拭った。
「まて、今ここで喋ることじゃないだろう。誰もいないところで、俺が聞くから」
「本当なの! 市場で揉め事はいけないから、お母さんは私が殺さなきゃ!」
混乱して叫ぶラテリウヌに肩を寄せ、ディメオラは涙を拭った。
「まて、今ここで喋ることじゃないだろう。誰もいないところで、俺が聞くから」
薔薇と青と地下迷宮【修正中】 青木晃 @ooyama01
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