アイスクリーム
雪桜
アイスクリーム
気怠い朝に、ふと夏の気配を感じたから、僕は目を瞑って蝉の声を聴いてみた。
「あーあ」
聴いてみたけど、鳴ってはいない。空想。僕だけの鳴き声は、隣で眠る彼女には届いていないようだ。蝉はまだ地中にいる。彼等は、じっと耐えている。夏の気配を探している。夏の気配を、待っている。
僕は彼等の息苦しさを感じながら、彼女の規則的な寝息を聞いている。
「君はまだ、地中にいるの?」
僕の声が、枕元に落ちた。彼女の薄い瞼には、長い睫毛が乗っている。ぷくりと膨らんだ唇はきちんと閉じられていて、美しい陶器のようだった。夏のはじまり。まだ少し空気は雨の匂いがして、僕らの上で、泣いている。君の頬の上で、泣いている。
僕はこの時間が好きだった。彼女が地中で息を潜めている時。僕はそこをこっそり覗き見る。実際の蝉達の姿を見れないから、その代わりに彼女を眺めてやる。
彼女の長い髪の毛。雨垂れ。
そういえば、夏の気配はどこかへ行ってしまった。
なんでもない。
蝉の声が聞こえない。
「雨の音も、聞こえない。紫陽花は枯れてしまった。太陽はまだ出ていない。君はまだ眠っているから、蝉も鳴かない。あの朝靄が何もかも、飲み込んでしまったんだ」
僕は彼女の額に触れる。じわりと暖かい体温と、湿った肌触り。愛しさを感じるが、それは幼子に対するものと同じだった。彼女を、このなんでもない季節から守ってやれるのは、僕だけだった。朝靄に消されてしまわぬように。あの電柱のてっぺんが、どうか君じゃありませんように。僕らは息苦しいから、こうやって寄り添っている。季節から逃れている。地中に潜ってしまえばもう、何も分からない。紫陽花が死んだことも。夏が来ることすらも。
「おはよう」
彼女は優しく微笑んだ。
微睡みのなかで、僕を見たその瞳に、水屑となる。僕はあっという間に彼女に引き戻された。脳味噌を掴まれた。為す術もない。僕の世界はそれだけ薄っぺらかった。
僕らは、地上に這い出て、紫陽花が死んでいることを知ったのだ。
「夏が来たね」
君が言った。
刹那、蝉の声が鳴り響いた。
「うん。夏が来たね」
朝靄は消えていた。君の頬の上の雨雲も、消えていた。彼女の大きな瞳が、朝日をたくさん吸い込んで、金色に光っていた。向日葵の花のような、鮮やかな色だった。蝉の声が、五月蝿かった。
「アイスクリームでも、食べようよ」
彼女が言った。
「そうだね。食べよう」
「うんと大きいやつ」
「そうだね」
「少し高くても、いいよね」
「うん。いいよ」
「だって、夏が来たんだもの」
僕らはコンビニでうんと大きなアイスを買って、帰り道に食べた。太陽が燃えている。日差しが彼女の項を白く染め、僕に瞬きをさせる。アイスクリームが溶けて、僕の指を伝う。前を歩く彼女。夏が一番似合う。彼女が僕の、夏だから。
「あーあ」
地面に落ちたアイスクリームの雫。
僕はここに、曖昧な季節を置いていこうと、決めた。
アイスクリーム 雪桜 @sakura_____yu
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