初めて恋を知りました。

咲坂 美織

初めて恋を知りました。

 深々しんしんと雪が降り積もる。夕方から明け方にかけて降り続けた雪はその辺り一面を真っ白に染め上げていた。

 雪の白は全てを覆い隠し、他の色の存在を許さない。白一色で作り上げられた世界はある種幻想的な雰囲気を醸し出していた。

 その中に。ぽつり。異物が迷い込んだ。

 日が昇り始め、真っ直ぐに射し込まれた光に雪がきらきらと反射する。見るものが思わずほうっと溜め息を吐くような風景に、しかしそれは景色には目もくれず、ふらふらと雪に足跡をつけるだけだった。

 雪の中に迷い込んだ異物。それは一人の娘だった。

 雪が降るような寒いこの季節だというのに彼女が身につけているのは足元の粗末な草履と、彼女の細い足を半分も隠さない古ぼけた着物だけだった。

 血の気のない、真っ白を通り越して蒼くくすんだ肌に唇を紫に染めた娘はかくりと雪の上に膝をついた。人里から遠く離れたこの地に彼女はどうやってきたのだろうか、いずれにせよまだ生きているのが不思議な状況だった。

 それなのに、ただ前を見つめる娘の目は生への執念に輝きを失っていなかった。

 そこにかたきでもいるかのようにまっすぐ前を射抜く娘の目には次第に瞼が落ち始め、身体は前へと傾いていく。ただ自由に生きたかっただけ。思わず脳裏をよぎる悔しさに眉がしかめられる。

 その瞬間、ふわりと暖かい風が彼女の頬を撫でた。

 この季節に何故。不思議に思った娘が僅かに瞼を持ち上げた。

 目の前には光を背にした黒い影。いつの間に現れたのだろうか。視線を徐々に上げていく娘はそれが頭にたどりついたとき、目を大きく見開いた。

 娘の目がとらえたのは端整な顔立ちをした美しい青年の姿。しかし彼の頭には人間にはあるはずのない、一本の短い角が生えていた。

「お……に?」

 伝説上にだけ現れるその存在。娘はまさかそんな生き物がいた、まして死にかけている自分の前に現れたことが信じられず驚きに身を固めた。

 青年は口を開くでもなく、ただ静かに娘を見つめていた。そんな青年をじっと見つめ返して、娘は口元を歪めるように嗤った。

「ふふ。最期に伝説に会えるなんてね。……それだけでも私はツイてたのかも、なんてね」

 皮肉気に"最期"という言葉を口にするわりに彼女の目はまだ輝きを保っている。

 青年……鬼はそれに僅かばかり目を見開くと、身をそっと屈めて娘の身を雪の中から掬いあげた。娘は抵抗するでもなく、その腕に身を預けた。

「……なぜ抵抗しない? 生きたいのではないのか」

 意味が分からないとばかりに首をかしげる鬼。

「どちらにしろこのままここにいれば私は死ぬわ。なら少しでも生き残れる可能性に縋るのが賢明じゃない」

「……俺は鬼だぞ」

「私は鬼がどんなものなのか知らないわ」

 だって初めて出会ったんだもの、と笑う娘はそのまま鬼の腕の中で意識を飛ばした。急に重くなった身体を抱え直しながら鬼はひとつため息を吐いた。

「変わった娘だ」

 呆れたような言葉とは裏腹にその声と手つきはひどく優しい。鬼は娘がこれ以上凍えないようにぴったりと身体をその身に寄せ、周りの空気の温度を調節しながらその場を後にした。

 娘を連れて移動した先は自らが住処とする、娘がたどり着いた場所よりもさらに山奥深くにある洞窟だ。雪の白の中にそこだけぽっかりと黒い口を開けている。

 洞窟の入り口で鬼はふと足を止めると何かを思案するように軽く目を閉じる。しばらくその場にたたずみ再び目を開けると洞窟の奥に向かって歩き出した。

 なるべく外気が当たらない辺りに娘を降ろすと、辛うじて使える布を掻き集めて娘の身をくるんだ。そこで鬼はようやく娘が発熱している事に気がついた。

 額に手を当て、看病をしようと思い当たったところで気がついた。人と関わったことがなかった鬼が人の看病の仕方など知っている筈がない。

「弱ったな……」

 ほんの気まぐれで拾っただけだがここで見捨てるのは決まりが悪い。

「起きてくれるなよ」

 高い熱で深い眠りについている娘が聞いているわけも、まして返事などするわけもなく、鬼はさらに厳重に娘の身体を布で包むと足早に洞窟を後にした。

 鬼だからこそ出せる最大速度で人里に下りると気配を殺しながら人々の暮らしを覗き見た。鬼よりもずっとか弱い人間が生きるために必要なものの多さに愕然としたが、必死に覚えて探し回った。

 どうして自分がこんなに面倒なことを、そんな考えが頭をよぎるが、娘の苦しそうな様子を思い出せばなぜか見捨てるという選択肢が無くなっていた。

 取り急ぎ必要になるものだけを抱えて洞窟に戻れば、娘はそのまま鬼が置いていった状態で眠っていた。起きた形跡もないことに一瞬不安になるが気を取り直して娘の傍に寄る。

 集めてきた清潔な布を雪で冷やし、うっすらと汗をにじませる娘の額にそっと乗せた。娘が僅かに目元を緩ませる様子を見て鬼はほっと息を吐く。そんな自分の様に苦笑を漏らすと、鬼は次に水を手に取った。少しずつ娘に水を含ませ飲ませていく。時折この季節には貴重な果実の実や汁を食べさせ、汗に濡れた身体を拭き清め、衣を取り替えてはまた果実を食べさせる。

 それを繰り返すこと三日。ようやく娘の意識が戻った。

 しばらくぼうっとしていた娘だが、次第に焦点が合い、視線を鬼へと向けた。状況がよく分かっていないのか、じっと鬼の目を見つめる。そして、ふにゃりと笑った。

 その笑みを見た鬼はどこか安堵すると同時に鼓動が早まるのを感じた。胸のあたりを押さえて不思議そうな顔をする鬼に、娘は熱にかすれた声でありがとう、と囁いた。それを聞いた鬼は今度は胸に何か温かいものが広がるのを感じた。初めての感覚ではあったが悪い気はしない。鬼はさらに看病を続けた。

 幾日かが過ぎ、娘はすっかり回復した。娘は外へ出たいと言ったが外は未だ雪に閉ざされている。鬼は首を横に振った。せめて雪が解けるまで待てと。娘はそれに頷いた。

 そうして二人は一緒に長い雪の季節を共に過ごした。どこかへ出掛けるわけでもない、ただ静かに一緒の時を過ごすだけだったが鬼にはそれがとても満ち足りたもののように感じられた。そして娘もまた不思議と退屈を感じない時間を過ごすうちに鬼に心を許していった。








 雪解けの季節がきた。

 真っ白な大地から緑や茶色い土が顔を見せ、待ってましたとばかりに華やかに彩られていく。

 どんどん華やかになっていく外を眺め、しかし娘は一向に洞窟を出ていこうとはしなかった。完全に雪が解けてしまっても、まだ。

「……出ていかないのか」

 ある日鬼は問いかけた。熱が下がってすぐはあんなに外へ出たがったのに、と。しかしその言葉を聞いた娘ははっきりと傷ついた顔をしていた。

「迷惑でしたか」

 恐るおそるというように鬼の顔色うかがう娘。

「いや」

 言葉少なに、しかしはっきりと否定を示す鬼に娘はほっとした。そんな娘を見てどこか鬼も安堵するのであった。

 何をするでもなく、ただ時が流れていく。夏が来て、秋が来て、また冬が来た。ちらちらと雪が舞い始めるのを見て鬼が口を開いた。

「またしばらく外へ出られなくなるぞ」

 それでもいいのかと鬼は問う。娘は一瞬生まれ故郷を思い浮かべたが、鬼の問いに首を振った。

「いいのです。村もこんな変わり者がいなくて清々しているはずですから」

 苦しそうにそう吐き出す娘の姿はなんとも哀れで、痛ましい。

「俺は人のことなど分からない。分かりたいとも思わない。……だがな、お前のことだけは分かりたいと、そう思うんだ」

 俺はお前の救いになれるか、と不安そうに呟きを漏らす鬼に娘は軽く目を見張ると、それから嬉しそうに笑みを浮かべた。それから鬼に擦り寄るとそっと彼の手を取った。

「人の身にありながら人を捨てるのは愚かだと思いますか?」

「いや。……だが本当に」

 言葉を続けようとした鬼を制し、娘はにっこりと笑った。

「私が人の身である限り、いずれあなたを置いて先に死んでしまいます。それでもその時まであなたのそばにいさせてもらえますか?」

「……ああ」

 いつまでもここにいればいい。そう言いたかった言葉が出てこない。

 代わりに娘を抱き寄せた。自分の腕の中で安心したように力を抜く娘の存在が嬉しくて、目から温かいものが頬を伝った。

 ――これが愛しいという気持ちなのだろうか。

 生まれて初めて感じる温かい気持ち。

 娘の華奢な体を壊してしまわないように大切に、だがしっかりと力強く抱きしめた。








 あれから幾年の年が過ぎたのだろうか。

 鬼は雪で白く染められた大地を見下ろした。

「人の身とは儚いものだな」

 雪の下で眠る愛しい存在の最期を思い起こす。穏やかに笑うしわくちゃな顔。いくら時が経とうとも変わらぬ姿を保つ自分を見て嫌にならないかといらぬ心配をしていた彼女。見た目が変わろうとも愛しいことには変わりないのに……。

 思わず思い出し笑いをしていると、下から小さく袖を引かれた。

 鬼はその小さな存在を抱き上げると優しくその頭を撫でた。

 自分に似たのか人よりも少し成長がゆっくりな可愛くて大切な彼女との子。

「……だからこそこうして大切なものを残すのだろうな」

 この子にもいつかそんな存在が出来るといい。

 父と子はゆっくりとその場を後にした。



 








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