第10話

 スコットランドヤードことロンドン警視庁は移転したばかり。

 そもそも、何故、警視庁をスコットランドヤードと呼ぶかと言えば、1829年に設置された初代の庁舎の〝裏口〟がグレート・スコットランドヤードという通り・・に面していたせいだ。堂々完成した新庁舎は赤煉瓦も眩しいクィーン・アン様式スタイルでテムズ河沿いのヴィクトリア・エンバンクメント通りに建っている。にもかかわらず、あまりにも定着した旧名に敬意を表し、一字加えて継承した。――ニュー・・・・スコットランドヤードである。

 一昨日の夜、シーモア氏の惨劇を知らせに駆け込んだ時とは違い、今日は、ヒューは留置場棟に向かった。

「留置されているトロイ・カンバーランドさんに会いたいんです。届け物があって」

 たくさんの鍵を通した鉄の輪を腰にぶら下げた守衛が訊いてきた。

「モノはなんだい? 持ち込む物は確認しなきやいけない規則でね」

「これです」

 ヒューの用意周到さにエドガーは驚いた。上着の下から取り出したのはあの〈マザーグース〉の本だった。

 一応調べた後で守衛は、まず通路の鉄条網の鍵を開けて通してくれた。

「右側の一番奥だ。ついて来なさい」

 廊下を進みながらヒソヒソ声で会話を交わすヒューとエドガー。

『まさか、こんなに簡単に行くとは、我ながら驚いたな! 宣伝文句どおりテレグラフ・エージェンシーのメッセンジャーボーイはどこへでも配達できるんだ』

『驚いたのはこっちだよ、ヒュー。その本持って来てたのか』

「どうだ、吃驚してるな、メッセンジャーボーイズ?」

 先導していた守衛がクルリと振り向いたので、その通り、まさに吃驚して口を閉ざす二人――

 守衛は得意げにニッと笑って両手を広げる。

「留置場とはいえ、これこの通り、最新式の建物だろう?」

 なるほど、床も壁もピカピカで牢というイメージからは程遠い。特に壁は煉瓦の上に光沢のある白い特殊ペンキを上塗りしていて、これぞ大英帝国が世界に誇る近代建築である。

「とはいえ、将来、おまえたちも悪さをしてぶち込まれることがないようにな!」

 ヒューとエドガーは両足のかかとを合わせて最敬礼した。

「はい!」

「肝に銘じますっ!」

 人好きのする気の好い守衛が、時間は出来るだけ短く、用が済んだら室内の呼び鈴を押すようにと言って鍵を開け、二人を中に入れるとまた鍵を掛けて去って行った。

 寝台に横になっていたトロイ・カンバーランドは入って来たメッセンジャーボーイを見て跳ね起きた。

「君たち――?」

「これをお返しに来ました」

「いや、その本は君たちに贈呈したはずだ」

 ヒューは表情を引き締めて、ズバリと言った。

「実は、どうしても確かめたいことがあってやって来たんです。カンバーランドさん、昨日会った時、何故、嘘をついたんです?」

「嘘? 僕が?」

 画家は首を振った。

「何のことだ、僕は嘘なんかついていないぞ」

「あなたが嘘を言っていないなら、レディが言ったことになる」

 ヒューは落ち着いた口調で続けた。

「僕たち、レデイ・シーモアにたった今会って来たところです。それで気づきました。昨日、あなたの部屋にあった絵はレディの絵だ」

「あ」

 声を上げたのはエドガーだ。

「その通りだ、カンバーランドさんの部屋にあった描きかけの絵、あれはフローラ・シーモア嬢だ。そうか、だからか? 僕、何処かで会ったことがあると思ったんだ――」

 眼頭でエドガーに頷いてからヒューは再びカンバーランドに向き直った。

「でも、レデイは、ガヴァネスとなって働き始めてからずっとお兄さんには会っていないと言っていました。メリルボーンのテラスハウスに立ち寄ったことすらないと。なのに何故、あなたはレデイ・フローラを描けるのでしょう? 見たままの、あれほど生き生きとしたフローラ・シーモア嬢を?」

 画家の目をまっすぐに見てヒューは言い切った。

「現実に会ったことがなければ、ああは、描けないはずだ」

 長い沈黙があった。

「嘘をついたのは僕だ」

 とうとう画家は認めた。

「僕が嘘をついた。レデイは真実を話している。彼女はルパートと別れてから一度も彼に会っていないし、あの住居に足を踏み入れたこともない」

 カンバーランドは左胸、心臓の真上に手を置いた。さながら宣誓をするように。

「僕があの絵を描けたのは、僕が彼女を知っているからだよ」

 掠れた声を整えようと大きく息を吸う。

「僕が君たちについた嘘は、ルパートと僕がナショナル・ギャラリーで〝初めて会った〟と言ったことだ。正確にはナショナルギャラリーあそこで僕たちは〝再会した〟のだ」

 先刻よりは短い沈黙の後で画家は語り出した。

「僕たちは一緒に育ったようなものだ。僕はシーモア伯爵家の本家マナーハウスの庭師の息子だった。広い敷地内の庭や森を幼かった頃、僕もルパートもフローラも一日中走り回って遊んだものさ。それだけじゃないよ。僕はね、ジェイムズ・シーモア伯爵――ルパートの亡くなったお父上だ――に物凄い恩義がある。僕が少なからず絵の才能があるのを知った伯爵は王立美術院へ僕を入学させてくれて学費の全てを払ってくださったんだ。その頃は既にシーモア家の財政が破綻していたというのに」

 ここで少し声が震える。

「伯爵家がああいう状態になったにもかかわらず僕は王立学校を無事卒業できた。でもそれ以降、僕はシーモア家には近づかなかった。意識的に距離を置いていた。あまりに申し訳なくて、僕は顔を合わす勇気がなかったのさ」

 画家は続けた。

「だが、偶然美術館で再会して――ルパートは僕を恨むどころか、今現在、友としてなんの援助もできないこと、爵位ある身なのに後ろ盾パトロンになれない己の不甲斐なさを詫びたんだ。ルパートはそういう人間なんだ。生まれながらの貴人なのさ。僕たちの友情は一瞬にして復活した。あの絵は」

 まるでそこにその絵があるかのように留置所の中で画家は身を捩って指し示した。

「ルパートへの贈り物として描いていたんだよ。今までまともな絵は一枚も贈ったことがなかったからね。頼まれてチャチな奴を描いたことはあったけど、あんなのは絵には数えられない。今度のフローラの絵は、僕が全身全霊を込めて描いた。ルパートがどんなにフローラに会いたがっているか知っていたから。勿論、僕も会いたいよ」

「ということは……」

「そうさ、絵に関しては、僕は、嘘は言っていない。あれは僕の想像――過去の姿を基に描いたレディ・シーモアだ。遠い日のフローラ……イラクサに髪を絡めて癇癪かんしゃくを起した……狐の穴に潜りこんで泥だらけになった……夏の最初の日にせせらぎに小さなくるぶしをつけてはしゃいでいた……僕の胸に刻まれた思い出のフローラ……大きくなったらこんな風に違いないと信じたフローラ・シーモアなんだ」

 画家は勝利の雄叫おたけびを上げる騎士のように拳を振り上げた。

「ブラボー! そうか、君たち、今日、本物の彼女を見たのか? その君たちが言ってくれた、僕のフローラはそっくりだと! ありがとう、最高の賛辞だよ。心の中で育んだイメージ、僕の心の目に狂いはなかったんだ!」

「あなたは真実の芸術家です。ごめんなさい。嘘をついたなどと失礼なことを言って」

 ヒューは本を画家に指し出した。

「これはあなたの元に置いて行きます。届けると言う口実でここに入れてもらったので。後日、改めてあなたのお住まいへ受け取りに伺います」

 本を受け取って、現実に戻った画家はちょっと悲しい顔をした。

「この本をもらいに僕の下宿を再訪するって? 果たしてその日が来るかどうか。警察は僕が犯人だと思っている。今日は一日かけて下宿の捜索をするらしい。今、キース・ビー警部補はその真っ最中だろうな」

「でも、あなたはシーモア氏を殺していないし、ニセモノの宝なんか持っていないでしょう?」

「だが、僕がやっていないという証拠もない。あの夜、僕は一人で部屋に籠って絵を描いてたのでアリバイと言うものが全くがないんだ」

 弱弱しく画家は微笑んだ。

「僕の今の願いは、縛り首になる前にあの絵を完成させたい、それだけさ。正式に起訴されて監獄に移送されれば独房で絵が描けるだろうか……」

「馬鹿なことを言わないでください!」

 思わず叫んだのはエドガーだ。 

「無実なら諦めちゃだめだ、カンバーランドさん!」

 一方ヒューは、全く別のこと――ひどく頓珍漢トンチンカンなことを口にした。

「絵……そうだ、絵と言えばカンバーランドさん、さっき、描いているあのフローラ嬢の肖像画のほかには・・・・シーモア氏にまともな絵をあげていないと言いましたよね?」

「え? ああ、言ったが?」

「逆に言えば、シーモア氏に進呈した絵がある?」

「あるよ。再会してすぐ、頼まれて描いたんだが、あれは絵というほどの物じゃない」

「詳しく教えてください」

「小ぶりの――このぐらいのサイズの杉の焼き板で、ルパート自身が持って来たんだ。そこに魚を描いてくれと頼まれた」

 カンバーランドは手で大きさを示して見せる。

「会員になっている聖書研究会のバザーで使うとか言ってたな」

「魚……」

 ヒューは身を翻した。

「エド、守衛に退出の相図のブザーを押してくれ。それでは僕たちはこれで、カンバーランドさん。その本は、早ければ明日にでも・・・・・、引き取りに伺います。勿論、あなたの下宿に」

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