第6話

 突然声を掛けて来たその人物を二人は吃驚して仰ぎ見た。

 黒いトップハットを被った紳士だ。帽子のせいで背が高く見えたが6フイートはない、中肉中背。フロックコート姿でハイカラ―にアスコットタイを結んでいる。髪ももみあげも栗色。同じく栗色の目は優し気だが、整えられた口髭の下の唇が薄く、そのせいで酷薄そうに見える。

 ステッキでコツンと地面を叩いて更に一歩、男は近づいた。

「君たちはひょっとして、新聞に書かれていた、シーモア氏の殺害現場を最初に発見したメッセンジャーボーイじゃないのか?」

「何故そんなことを訊くんです?」

 警戒して後ずさる二人に柔らかい声に変えて男は言った。

「脅かしたのなら謝る。私の名はボリス・キャベンディシュと言って、作家だ。シーモア氏とは学友でね。朝、新聞で事件のことを知って、それで慌てて、同じくシーモア氏と交友関係のあるカンバーランドを訪ねて来たら――この顛末だ」

 ボリス・キャべンディシュはヘドン・ストリートへ顔を向ける。

「あいつ、カンバーランドなら何か詳しい事情を知っているかと思ったのに、なんてこった、カンバーランドは逮捕されたようだな」

「何のことでしょう? 僕たち今、たまたまここを通りがかっただけです」 

 ヒューは後ろ手でさりげなく本をエドガーに渡しながら答えた。

「あなたが何について話をなさっているのか、僕たち、さっぱりわかりません」

「しらばっくれるなよ、坊やたち。私はちゃんと見ていたんだぞ。君たち二人があっちの通りの、もっと言えばカンバーランドの住む下宿屋から飛び出してくるのを。私もそこを目指して歩いていたからね。隠しても無駄だ」

 口髭の下で笑みが広がった。

「怖がらなくていいよ。私は情報が欲しいだけだ。この件で少しでも正確な話を知りたいと思っているのさ」

「何のためにです?」

「勿論、傑作を書き上げるために、だ」

 手袋をした手を口元に寄せて咳払いをする。

「さっき自己紹介で作家と言ったのは誇張だ。実は私はまだ大した作品は書いていない。新聞で読んだんだが、死体の有様といい、残された書置きダイイングメッセージといい、今回のこの事件は実にユニークじゃないか。大いなる謎に満ちている。だから、私はこの手で友人を襲った不幸な運命――奇怪な事件の全貌を綴ってみようと決意したのさ」

 ステッキを振ってキャベンディシュは画家の棲家がある細い路地を指し示した。

「その第一歩として、最近シーモアと一番仲の良い男に話を聞きに来たというのに目の前で逮捕されるとは運が悪かった。だが、その代わりに君たちと会えた――」

 二人を振り返って、栗色の瞳を輝かせる。あくまでも丁重に紳士は申し出た。

「第一発見者であり当夜の様子を目の当たりにしたメッセンジャーボーイズ! ぜひこの私に有りのままの真実を聞かせてくれないか?」


 ボリス・キャベンディシュ氏がヒューとエドガーを連れて行ったのは開業したてのサヴォイホテルの大レストランだった。

 元々サヴォイ劇場の観客のために建てられただけあって紳士淑女が優雅にアフタヌーンティを味わっている。その中に混じって、煌めくボヘミアンガラスの器にこんもりと盛られたアイスクリームを前に質問攻めになる二人。

 とはいえ、ここでもほとんどヒューが応答した。エドガーの役割と言えば、上着の中にしっかりと画家からもらった本をたくしこんで、あとはひたすらスプーンを口に運ぶだけ。ああ、バニラの香りが鼻腔に満ち、舌の上で淡雪のごとくほろほろ溶けて行く。これぞ本物のアイスクリーム! 通りのワゴンで売っているシロモノと全然違う……

「嘘をついたことを謝りますキャベンディシュさん。おっしゃる通り僕たちはシーモア氏の殺害現場を最初に発見したメッセンジャーボーイです」

 ヒューは、まず神妙な顔で謝罪した。

「嘘をついたのは、その、警部補に叱られるのが怖かったからです」

「ほう、キース・ビー警部補のことか? この事件を担当しているそうだな。兎に角、最初から詳しく話してみてくれ」

「新聞をお読みになったのならおわかりと思いますが、僕たちが発見した時、シーモア氏は右手にガウン、左手に本を持って倒れていました」

「読んだよ。右手に脱いだガウン、左手には本だそうだね?」

 カチィーン……

 鈴のような音が響く。ヒューがスプーンを硝子の皿にぶつけたのだ。ヒューも緊張しているんだな、とエドガーは思った。

「失礼、キャベンディシュさん。そうです。その本について――この部分は記事には書かれていませんでしたが、実はその本こそカンバーランドさんが先月出版した〈マザーグース〉だったんです」

「本当かい? それは初耳だ」

「ええ。このことは現場を見た僕たちと警察関係者しか知らない事実です。それで、僕たちは好奇心を押さえられなくて」

「え? おい、ヒュー、それは――」

 事実とは違う。吃驚して声を上げたエドガーをヒューは肘で突いた。

「いいんだ、エド、もうバレてしまったんだからここは正直に話そう。キャベンディシュさん、僕たち、本を出版したカンバーランドさんがどんな人か顔を見たくなって、それでこっそり会いに行ったんです。まさか逮捕されるとは思ってなかったので凄く吃驚しました。あれはまずい行動でした。警察が発表していないことを先回りして、勝手にちょこまか動くなんて軽率ですよね。万が一あの場でビー警部補と鉢合わせしてたら大目玉を食らっていたでしょう。それが怖くて、ついあそこではあなたにも嘘をついちゃったんです。ホントにすみませんでした」

「いいよ、そんなことは大した問題じゃない、私は気にしていないよ。それより――そうか、シーモアが持って息絶えた本があの画家、カンバーランドの本だったとは! それで警察は、犯人はあいつだと推理したってわけだな」

「そのようですね」

「トロイ・カンバーランド……あいつは学友でもないし素性のよくわからない人物でね。最近やたらシーモアの周りをうろちょろしていて胡散臭く思っていたが」

 キャベンディシュはコーヒーカップを受け皿の上へ置いた。

「ところで、シーモアは書置きも残している。そっちの方は丸ごと新聞に載っていたぞ」

 手帳を取り出して、新聞から抜き書きしたシーモア氏の書置きを読み上げる。

「〈宝 盗まれた だが偽物 偽物を持つ者が 殺人者 〉……この書置きについて警察は何か言っていなかったかい? 私もあれこれ考えてみたんだが、どうにもわからない」

 悲し気に首を振るヒュー。

「書置きについては、ビー警部補は、シーモア氏が途中で力尽きたんだろうと言っていました。内容に関しては、特別な言及はなかった」

「なるほど。これ以上字を書けなくなって……手紙で伝えるのを諦めたシーモアは最後の力を振り絞ってカンバーランドの本を掴んだというわけか。それで警察は本が真犯人を示唆していると推理した……」

 キャベンディシュは口髭を撫でて大きく頷いた。

「ふむ、画家が逮捕された理由がよくわかったよ。辻褄は合うな」

「僕らが知っていることはこれで全部です。あんまりお役に立てず申し訳ありません」

「とんでもない。大いに参考になった!」

 ボリス・キャベンディシュは握手の手を差し出した。

「礼を言うよ。それじゃあな、メッセンジャーボーイズ!」

「あ、キャベンディシュさん、待ってください」

 手袋をはめステッキを持ってそそくさと立ち上がった男をヒューが呼び止めた。

「最後に僕からお訊きしてもいいですか?」

「いいとも、なんだい?」

「猫の名はなんですか?」

 キャベンディシュはポカンとして、

「いや、私は、猫は飼っていないよ。君、過去に配達した他の人物と間違えてるんじゃないか? 確かに私自身も株相場の情報入手に君たちのテレグラフ・エージェンシー社を利用しているが、私の家に猫はいない」

「あ、勘違いでした。すみません」

 恥ずかしそうに笑ってヒューは頭を下げた。

「アイスクリームを御馳走様でした。行こう、エドガー」


「誰と勘違いしたのさ、ヒュー? ロッシュ氏かい? あそこなら6匹猫がいるけど?」

 サヴォイホテルから出るとすぐエドガーは問い質した。

 振り向きざまクシャクシャッとヒューはエドの髪を搔きまわす。

「僕らはツイてる! 今日はラッキーデーだ!」

「何? 何? ちっともわからないよ」

 エドガーは地面に落ちた帽子を拾い上げて口を尖らせる。ったく、てんでついて行けない。メッセージを持って奔るのはちゃんとついて行けるけど、言動に関しては自分は常に置いてけぼりだ。

「ヒュー、ちゃんと僕にもわかるように教えてくれよ。どうして猫の名を知りたがったのさ?」

「気づいたか、エド。握手した際、ボリス・キャベンディシュ氏の手の平に引っ掻き傷があったのを」

「だから? 猫がいると思ったのか」

「それだけじゃない。あいつは物凄く注目すべきことを口にした。真犯人逮捕に至るとてつもないヒントを与えてくれたんだぜ」

「どんなこと?」

「それは――」

 ヒュー・バードはここでちょっと口籠った。

 目を細めてチャリング・クロス駅から吐き出される人込みを暫く眺めていた。

「そのことはもう少し後で教えるよ。そう、全てのカードが揃った時に。だが、今はまだだめだ――どうした、エド? アイスクリームを食べ過ぎて腹でも壊したのか?」

 急に立ち止まったエドガーに気づいてヒューも足を止める。エドガーは上着の下から本を引っ張り出して返した。

「ヒュー、シーモア氏を殺し宝を奪った犯人を僕たち二人でみつけだそうと君は言ったけどさ――どうも、君一人で充分じゃないかな。だって僕は何の役にも立ってない。むしろ足手まといにしかならないと思うんだ」

「本気で言ってるのか? そんなことはない。さっき俺は言ったろ、俺たちはツイてるって。カンバーランドさんには本をもらえたし、学友だと言うキャベンディシュ氏にも出会えた。俺一人だったらこうはいかなかった。おまえと一緒だと運が開ける気がする。おまえは俺のラッキーチャーム……〈幸運のお守り〉だよ! 今更俺を放っぽりだすなんて言わないでくれよ」

「そ、そう? じゃ、僕もそれなりに役に立ってるんだね? 安心した」

 なんか、ヘンな気分。今まで自分はがむしゃらにヒューの背中だけ見つめて走って来たけど……初めて、その背の向こうに風景が――新しい世界が広がってるのを見た気がする。

 改めてエドガーは思った。僕がヒューの幸運のお守りなら、ヒューは僕にとって何だろう? 上手く当てはまる言葉が見つからないのが残念だ。

「まだ夜番の出社時間には間があるな。良かったら俺の家へ来ないか、エド? ここからそう遠くないし、この本について腰を据えて調べてみようじゃないか」

 ヒューの申し出に吃驚してエドガーが訊き返す。

「君の家? いいのかい?」

 ヒューは笑って手を振った。

「遠慮はいらないよ。俺は一人暮らしだからね」

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