第5話

 挿絵を描いた画家、トロイ・カンバーランドの住居を見つけ出すのにさほどの困難はなかった。

 これまた機転の利く怜悧なヒューがただ一言耳にした、当夜のシーモア氏の友人を紹介した言葉『この男こそ、ヘドン・ストリートのダ・ビンチさ』を頼りに探し当てたのだ。

 勿論、テレグラフエージェンシーの制服の威力も絶大だった。

「この辺りに住んでる画家をご存知ですか?」と尋ねると迷子になった可哀想なメッセンジャーボーイに誰もが親切に――自分が知る限りの情報を元に――道を指し示してくれた。

「カンバーランド? そういえば聞いたような……」

「ひょっとして、彼のことかな? 中肉中背で栗色の髪を肩まで伸ばしている?」

「年齢は26,7歳くらいだって? ああ、それならここからあの角を曲がった先の……」

 行き着いたのはピカデリー・サーカスからリージェントストリートを西側に入って、更に一本奥にある狭くて短い通り。食堂と居酒屋に挟まれた、見過ごしそうな暗い階段を上ると階上が下宿屋になっていて、裏庭側の一番奥が画家の住いだった。

 ドアを開けたトロイ・カンバーランドは真っ赤に泣きはらした目をしていた。

「僕にメッセンジャーボーイとは――何かの間違いじゃないのか? 僕はテレグラフ・エージェンシー社とは契約していないが……」

「いえ、メッセージを届けに来たんじゃないんです」

 口早にヒューが伝える。

「僕たち、あなたにぜひお話したいことがあって――シーモア氏についてです」

 カンバーランドはハッと息を飲んだ。

「今、ちょうど新聞を読んでいたのだが――彼の死体を最初に発見したメッセンジャーボーイたちって、まさか君たちかい?」

「それだけじゃありません、カンバーランドさん、僕の顔を憶えていらっしゃいませんか? 僕は以前、シーモア氏宅でお二人が出版記念の御祝いをしていた夜、メッセージを届けてあなたにお会いしています」

「あ」

 画家はすぐ思い当たったようだ。ドアを大きく開くと二人を招き入れた。

「入りたまえ」

 本を出版したとはいえカンバーランドの住いは簡素なものだった。

 部屋は一間きり。片側の壁に寄せたベッド、小さなテーブルに椅子が2脚。

 カンバーランドはメッセンジャーボーイたちをその椅子に座らせると自分は窓際、イーゼルの前に置いてあったスツールを引っ張って来て座った。

 イーゼルには描きかけのカンバスが立て掛けてある。

 美しい貴婦人の絵だ。真っ青な瞳と薔薇色の頬。金の髪を揺らした風が、確かに室内の3人を吹き抜けて行った。

「なんて綺麗な人だろう!」

 絵なんてわからないのに思わずエドガーは叫んでしまった。ヒューも感嘆の声を漏らす。

「素晴らしいですね? シーモア氏があなたのことをダ・ヴィンチって言った意味がわかりました」

「あれは揶揄からかったんだよ。でも、君たち、褒めてくれてありがとう」

 画家は眩しそうに目をしばたたく。

「いつもその種の冗談を言って僕を笑わせる奴だった。世間では堅苦しい人間嫌いだと思われていたようだけど、打ち解けた相手には優しくて情にもろい最高の友だった。何度も筆を折ろうとした僕を親身になって励ましてくれて……」

 カンバーランドは思い出に微笑んだ。

「僕たちはナショナル・ギャラリーで出会ったんだよ。まさにダ・ヴィンチの〈岩窟の聖母〉に見入っていた僕に声を掛けてくれて……僕たちはすぐに仲良くなった。彼は若い頃にイタリアでたくさんの名画をじかに見ていて僕にいろいろ話してくれたっけ。ミラノの聖マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に描かれたダ・ヴィンチの〈最後の晩餐〉……フェレンツェは聖アルティーノ院の回廊に残るボッティチェリが心血を注いだ〈受胎告知〉……実際、シーモア家が所有していたのに経済的な理由で手放さざるを得なかった名画のことも――手元にあったら僕に見せたかったと言ってくれた」

 過去から目を上げてメッセンジャーボーイを順番に見つめる。

「信じられないよ。ルパートが殺されたなんて、それは本当のことなのか?」

「残念ながら、本当です」

 テーブルの上に広がられた新聞をヒューは指差した。

「あの新聞――ロンドンタイムスですね? 僕も読みました。記事に〝シーモア氏は右手にガウンを持ち左手は本の上にあった〟と書かれていますが、実はその〝本〟はあなたが挿絵を描いた本なんです」

「何だって?」

 カンバーランドの顔からみるみる血の気が引いた。

「僕の本……新刊の〈マザーグース〉……あれか? ルパートは僕の本を持って……死んだ……」

 この事実はトロイ・カンバーランドにとって衝撃だったらしい。両の拳を固く握ったままブルブルと震え出す。

 動揺する画家を落ち着かせようとヒューは低い声で言った。

「〝持って〟と言うか、正確には開かれた本の上に手が置かれていたんです。警察は、側にあったので倒れた際、巻き込んだのではないかと言っていました。つまり、そのくらいシーモア氏はあなたの本を身近に置いて大切にしていたと考えられます。それで」

 唇を舐めると、率直に切り出す。

「僕たちがやって来たのはその本の実物をぜひ見てみたいと思ったからです。あの、あなたがお持ちでしたら拝見させていただけませんか?」

「持って行きたまえ。贈呈するよ」

 カンバーランドは力なく立ち上がると書棚から一冊抜き取った。

「お借りするだけでいいんです」

「いいんだよ、手元にまだ数冊あるから。さあ、それを持って――引き取ってくれないか? 悪いが、今僕は一人になりたいんだ。逝ってしまった友のことを思うと、会話などできそうもない。本当に申し訳ないが――帰ってくれ」

 ドッとあふれ出す涙。

 挨拶もそこそこに二人は部屋を飛び出した。

 ドアを閉めると背後ですすり泣く画家の声が聞こえた。手に入れた本をヒューがしっかりと抱えて階段を駆け下りる。エドガーも続いた。肩に掛けたローラースケートを落とさないよう押さえて一目散に通りを走り抜ける。広いリージェントストリートまで戻った、まさにその時だ。

 凄まじいスピードで一台の黒塗りの護送馬車が走って来た。路傍に乗りつけるや、数人の警官が飛び降りて今さっきヒューとエドガーが出て来た狭い通り、ヘドン・ストリートへ駆け込むではないか。最後尾にはインバネスコートの裾をはためかせたキース・ビー警部補の姿があった。

 一団は下宿屋に入って行った。

「ヒュー、これは一体」

「シッ」

 ほどなく、今度は警部補を先頭にして、警官に両腕を拘束されたトロイ・カンバーランドが出て来た。涙の痕の残る蒼白の顏の画家を積んで馬車は再び石畳の地面を軋ませて走り去った。


「ヒュー、何が起こったんだ? これ、まさか――」

「そんな……嘘だろ」

 反対側の路上の、咳止め薬を売っている赤い手押し車の陰から一部始終を目撃した二人。

 ヒューは歯の間から口笛のような鋭い音を立てた。

「カンバーランドさんを拘束するなんて……警部補はそう読んだのか?」

「どういう意味?」

「エド、どうやらキース・ビー警部補は、シーモア氏が持っていた本が〝犯人〟を指していると解釈したみたいだ。信じられないよ。そんな単純な話のはずないのに」

「これからどうする、ヒュー?」

「とにかくこの本を詳しく調べて――」

「君たち!」

 野太い声が響く。突如二人の前に立ちはだかった影があった。

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