第7話
ヒュー・バードの住居はソーホー地区にあった。画家の下宿屋はヘドンストリート、それと交差するリージェントストリートの先、ソーホーはロンドン北東部で一番ごちゃごちゃした場所だ。ブルーア通りからいくつも裏道を抜け、更に細い路地を進むと井戸のある中庭のような場所に出た。周囲を囲んだ建物の中の一軒、その一階がヒューの住いだった。赤い煉瓦はロンドン産の証拠、最も古い時代の建築物を意味する。似たような向かいの建物は小劇場の裏口とのこと。拍手の音やくぐもった声が始終響いているのはそのせいだろう。
住居自体はきちんとかたずいて居心地の良い雰囲気だった。
玄関の横が台所、まっすぐ奥が居間兼食堂、その奥にもう一部屋あってそちらは寝室らしい。気のせいだろうか?
居間は大きな樫のテーブルにほぼ占拠されていた。
腰を落ち着けるや、二人は取るものも足らず入手した画家の本〈マザーグース〉を入念にチェックし始めた。
とにかく1ページづつ繰って行く。開いた左側にマザーグースの歌詞、右側に挿絵という造りだ。絵は黒摺りのペン画でカンバーランドの部屋で見たイーゼルに置かれていた油絵とはまた雰囲気が違う。だが巧みな筆さばきは変わらない。
真ん中辺りまで進んだ時、声を上げたのはエドガーだった。
「待って、シーモア氏が押さえていたページはこれじゃないか?」
「どうしてそう思うんだ?」
エドガーは自分の手をそのページに乗せてじっと眺めてから、再び本を
「そうだ、やっぱりこのページだ。昨夜、僕、倒れてるシーモア氏を覗き込んだ時、ハッとしたので憶えてるんだ。ほら、このページにこうして手を乗せると……指の間から丸い物が見えるだろ? どう?」
「ほんとだ、丸い――」
「僕は瞬間的にお月様みたいだと思った。それで窓から射す月を振り返って確認して、ああ、空の月はちゃんとあそこにある、盗まれてない、なんて馬鹿なことを考えちゃったんでそのことが妙に記憶に残ってるんだ。本の中にも月があると思ったのさ」
ちょっと恥ずかしそうにエドガーは笑った。
「マザーグースは子供の頃母さんがよく歌ってくれた。今も妹に歌ってやってるから多少は詳しいよ。でね、さっき本を見て、ここだと叫んだ後で僕、もう一度別のページを見たろ? 確認したんだよ。はじめ僕はシーモア氏が手を置いてるのは、マザーグースの中の月の歌かと思った。だから確かめたのはその月の歌のページさ」
エドガーがそのページを指し示す。
《 ぼくが月を見ると 月もぼくを見る
神様 月をおまもりください
神様 ぼくをおまもりください 》
でも、とエドガーは首を振った。
「こっちを見たら、月はページの上に小さく描いてあってシーモア氏の手の下には重ならない」
ヒューも本を手に取って試してみた。その通りだった!
「おまえの言う通りだ」
「で、僕が最初にここじゃないかと言ったこっちは、ホラ、手を乗せると丸い形が月にみえるだろ?」
これまたその通りだった。
「凄いぞ、ラッキーチャーム! 俺は全然気づかなかった。やったな、エド、言った通りだろ? 俺一人では無理だった。おまえがいてくれて良かった!」
一応念のため二人は本の全ページを調べてみたが指の下で丸くみえる絵は他にはなかった。
その、エドガーがここだと指摘した、月に見えたページは〈ハンプティダンプティ〉。
《 ハンプティ・ダンプティ 塀の上
ハンプティ・ダンプティ 落っこちた
全ての王様の馬
全ての王様の家来をあつめても
ハンプティを かきあつめてもとへはもどせない 》
シーモア氏が手を置いていたページはこの〈パンプティダンプティ〉だと二人は断定した。
問題はこの絵が何を意味するか、だ。これはかなり難問になるかと思いきや――
「これで繋がった!」
ヒューの笑顔が弾ける。
「エド、君が、シーモア氏が押さえていたページを確定してくれたおかげで重要な謎が解けたよ!」
3本、指を突き出して1本ずつ折って行く。
「床に蒔かれていたマーブル、右手のガウン、左手のハンプティ・ダンプティ。これらは全て聖金曜日から復活祭に至る宗教行事に関わっている」
ヒューは大きく息を吸った。
「既に僕は言ったよね? ガウンはキリストの衣で、それを取り合う際に兵士が勝負を決めた
その先を高らかにエドガーが続けた。
「イースターエッグ……卵だ!」
そう。誰でも知っている通り、ハンプティ・ダンプティの謎々歌は卵を意味しているのだ。
……落ちて割れた卵は、全てかき集めても、もう元へは戻らない。
自分が謎を解く役に立った! 誇らしくて踊り出したいエドガーだったが、ここはグッと我慢して、頭をかすめた疑問を冷静にヒューに訊いてみる。
「でもさ、カンバーランドさんが犯人だという推理はどうなの? キース・ビー警部補はそう結論付けて逮捕に踏み切ったんだろ?」
「エド、カンバーランドさんが犯人だと言うのは有り得ないよ」
きっぱりと首を振ってヒューは否定した。
「凄い自信だな。どうしてそう言い切れるのさ?」
「言い切れるとも!」
ヒュー・バードの灰色の瞳が薄闇の中でキラキラ煌めいている。
「画家のカンバーランドさんが犯人だという推理には決定的な無理がある。いいかい、エド、もしカンバーランドさんが犯人なら、シーモア氏は書置きに一言、その名を記せばよかったんだ。簡単だし楽なはず。ところがシーモア氏はいくつもの単語を書き連ねて、力尽きて昏倒した。書置きにはなんて書いてあった?」
エドガーはもうすっかり憶えてしまったそれを口に出して言ってみた。
「〈宝 盗まれた だが 偽物 偽物を持つ者 が 殺人者〉……」
ハッと息を飲む。
「ほんとだ! シーモア氏は7文字も書いている……」
「僕が思うに、シーモア氏は犯人と鉢合わせて刺されたけど、犯人の顔は見てないのさ。つまり、犯人は顔を隠していたんだ、覆面かなんかで。だからこそ、シーモア氏は最後の力を振り絞って自分でわかる限りの〝犯人に関する情報〟を書置きに記した。一方、シーモア氏が自らの体で訴えているのは別のこと――多分、〝盗まれた宝に関わること〟ではないかと俺は睨んでいる」
「凄いな、君、まったく凄いよ!」
ここでカチリと微かな音が聞こえた。玄関ドアに鍵が射しこまれる音?
ギクッとして顔を上げるヒュー。つられてエドガーもそっちを振り向いた。
ゆっくりとドアが開いて入って来たのは……
*マザーグース英詩
ぼくが月を見ると
I see the moon,
And the moon sees me;
God bless the moom,
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