第8話

 入って来たのは、籠を抱えた、花のように美しい娘だった。

 小さくまとめた艶やかな黒髪、長い睫毛に縁どられた青灰色の瞳。娘は肩に巻いたストールを脱ぐとこぼれんばかりの笑顔で言った。

「ただいま、ヒュー!」

「脅かすなよ、アンジー……」

「まぁ! 自分の家へ帰って脅かす、はないでしょ? あら、お客様?」

 エドガーは椅子から飛び上がった。棒を飲んだように体を突っ張らせて、モゴモゴ挨拶の言葉を吐く。

「お、おじゃましています」

 それからヒューを睨んだ。

「酷いよ、僕を騙したな! 何が一人暮らし・・・・・だ。こんな綺麗な恋人と一緒に住んで――ってまさか奥さん?」

 ヒューなら有り得る。こうしてみると美男美女、似合いのカップルだ。

「馬鹿、落ち着け、これは姉のアンジーだよ。アンジー、こっちは僕の友人のエドガーさ」

 紹介された姉と友人は同時に声を上げた。

「姉さんだって?」

「まあ、ヒューのお友達ですって?」

 ややあって慌ててアンジーが会釈する。

「初めまして。ヒューの姉のアンジーです」

 裏返った声でエドガーも、

「は、初めまして! ヒューの友人のエドガー・タッカーです」

「お客様がいるとは知らずにごめんなさい。でも、ちょうど良かった! お屋敷のサマセットの奥様から特製ヴィクトリア・サンドイッチ・ケーキのお裾わけよ。すぐお茶を用意するわ」

 軽やかな足取りで台所へ向かうアンジー。それをボウッとした顔で見つめているエドガーにヒューは囁いた。

「姉貴はメイフェア地区にあるサマセット邸に住み込みの女中メイドとして働いているんだ。パークレーンの左側、そう、あのとてつもなくデカイ屋敷さ。だから、普通は、俺は一人暮らし・・・・・。わかったかい、嘘はついていないからな」

「そうか、お姉さんなのか。そういえば、似てるな」

 三人で特製ケーキとお茶を満喫した。畏まってエドガーが言う。

「ケーキはもちろん、こんなに美味しいお茶を飲んだの、僕初めてです」

「ありがとう、エドガー。紅茶の淹れ方を奥様直々に教えてもらっているの。その他、行儀作法も習えるしサマセット邸は最高の仕事場よ。お庭には池や東屋あずまやがあって、これがまた素敵なの。もちろん、花壇には――」

 ここで姉は弟の方をチラッとみてクスクス笑った。その笑顔にまた射貫かれるエドガー。

「苦虫を噛みつぶしたような、あのヒューの顔を見てよ、エドガー。帰って来るたびヒューったら私のお喋りにはうんざりするって言うのよ」

「いえ、僕は大変興味がありますっ」

「まぁ、ありがとう。エドガーは紳士ね、もう一杯、お茶をいかが?」

 お茶のお代わりを注ぎながらアンジーは思い出したように言った。

「あ、でも今日のお喋りは退屈させないわよ。だって凄いのよ。今朝、お屋敷に警察がやって来たの。それも新聞でよく見るあの有名なキース・ビー警部補よ」

 ガタン――

 椅子を倒してヒューが立ち上がった。

 弟のあまりの反応に姉の方が吃驚した。

「わかったわよ、もうくだらないお喋りはやめるわ。だからそんなに怒らないでよ、ヒュー」

「いや、続けてくれ、アンジー。一体、何故ビー警部補が姉さんの雇われている邸にやって来たんだ? これは凄く重要なことだ」

「何故来たか? ほら、新聞に載ってたでしょう? 昨夜メリルボーン街で起こったルパート・シーモア氏の強盗殺人事件。私も使用人の居間で皆と回し読みをしたけど、なんと、その殺されたシーモア氏はサマセット邸のお嬢様たちの家庭教師ガヴァネス、フローラ・シーモア様のお兄様なんですって」

 ガヴァネス――家庭教師――は、この時代、高貴な血筋に生まれながら没落した女性たちが唯一就ける職業だった。彼女たちは貴族の子女として最高級の教育を身につけていたからである。但しこのガヴァネス、財産をなくした上に高い身分が障害あだとなり、釣り合う結婚相手を見つけられず生涯独身のまま終わる者が多かった。同時代の画家、リチャード・レッドグレイヴは〈可哀想な先生〉と言うタイトルでそんなガヴァネスの悲哀を見事に描き出している。

「そうだったのか……」

 再び音を立ててヒューは椅子に腰を落とした。

「その家庭教師、フローラ・シーモア嬢が警部補とどんな話をしたか――までは聞いてないよな、アンジー?」

「失礼ね。サマセット屋敷の、使用人への躾は厳格ですからね。盗み聞きなんてハシタナイ真似はしません」

 頬を膨らませて怒って見せた後でアンジーは片眉を吊り上げる。

「でも、警部補さんがお帰りになってから、フローラ様が直接私たち召使いに話してくださったわよ。『自分は実家が破産して家を出て以降、兄とは一度も会っていないし、兄の住いを訪れたこともない。だから、今回の件で警察に話すことは何もない――』それを聞いてキース・ビー警部補は納得して引き上げたそうよ」

 ああ、お可哀想なフローラ様、とアンジーは祈るように両手を組み合わせた。

「フローラ様が貴族の家柄にもかかわらずお父上の代に財政上行き詰まって、領地や家屋敷、全てを失ったことは知っていたわ。二十歳そこそこで誰にも頼らず、身一つで自活の道を歩んで来たことも。でも、ロンドン市内のこれほど近くにお兄様がお暮しだったとは。私なんかはこんな風にちょくちょく帰って来るのに、もう10年近くもご兄弟と会っていないなんて。しかも信じられないような残酷で哀しい別れ方をなさった……お葬式をサマセット家が肩代わりすると申し出たらしいけどフローラ様はきっぱりと断ったらしいわ」

「姉さん、頼みがある」

 姉の嘆きを弟はいきなり遮った。

「俺がこれから手紙を書くから、それをフローラ嬢に渡してもらいたいんだ」

「あなたが? フローラ様に?」

 意味が飲み込めず瞬きする姉にじれったそうに弟は告げる。

「姉さんも新聞を読んだんだろ? なら、そこに書いてあったはずだ。殺されたシーモア氏を最初に発見したメッセンジャーボーイとは」

 その先はエドガーが補足した。

「それ、僕たちです!」

「まぁ!」

 ヒューは早速テーブルに屈みこんで手紙を書き始めた。アンジーはそっと立って茶器をかたずける。手伝ってエドガーも皿を台所へ運んだ。

 台所の窓辺、空き缶に青い花が揺れている。

 (やっぱりな!) 

 エドガーは小さく拳を握った。勿忘草だ。僕の鼻は正しかった。でも――

 今は、馨しい香りの源は花たちじゃなくて目の前の娘に思える。

「ありがとう。後は私がやります。どうぞ、お気遣いなく」

 薬缶からお湯をたらいへ移しテキパキと茶器を洗うアンジーをいつまでも見ていたかった。が、そうもいかない。戻ろうとした時、エドガーの手が、いきなり掴まれた――

「?」

 心臓が止まるかと思った。夕陽の射す狭い台所でアンジーの青い目がじっとエドガーを見つめている。

「ヒューのことどうぞよろしくお願いします。私、あの子に友達がいるって知って、凄く嬉しいんです。友達を家に連れて来るの初めてなのよ」

 その先、アンジーが続けた言葉にまたエドガーの心臓が止まりかける。

「私と母はヒューのお父さんに地獄から救ってもらいました」

「地獄……地獄って……」

「私はまだ4歳だったけどその意味を知っていたわ。私の実父はね、酒乱の、それは酷い男で、母も私も毎日殴られて暮らしてた。まだ生きてると思って震えて朝を迎え、明日こそ最後だって泣きながら眠りにつく、あの恐ろしい日々。前途有望で誰からも慕われていた美しいアルフレッド牧師は全てと引き換えに母と私を連れて逃げてくれたの」

「あ」

 ――父さんは夫ある若妻と駆け落ちしたのさ。やるだろう?

「短い間だったけど、教養があって優しい牧師と結ばれて母は凄く幸せでした。勿論、私もよ。素晴らしい父と母に囲まれて過ごす夢のような暮らしを私は味わえた。でもヒューは母のいる生活を知りません。母はヒューを産んですぐ死んじゃったから。父も、あんなに早く亡くなるなんて……」

 アンジーはそっと顔を寄せた。優しく上下する胸、その密やかな鼓動が伝わって来る。

「天国の父も母もヒューの幸せを願っています。地上の私もそうよ。ヒューには絶対幸せな人生を送ってほしいの。あの子はアルフレッド父さんに似て頭はいいんだけど、孤独が好きで人と付き合うのが苦手みたい。私、それがずっと心配でした。エドガー、これからもあの子と仲良くしてやってください。そして、どうか、あの子の力になってやってね。お願いします」

 すぐにはエドガーは何も答えられなかった。こんな風に他人から心を込めて何かをお願いされるなんて初めての体験だった。

 この数日で物凄く大人になった気がする。しかも、こんな素敵な女の人に、こんな真剣な目で頼みごとをされるなんて。その上、その内容たるやこの世で一番簡単なことなのだ。ヒューとずっと友達でいて? お安い御用だ! 

 息を整えるとエドガーは声を張り上げた。

「安心してください、僕は何処までもヒューと一緒です。誓います。ヒューが嫌だって言ってもくっついて離れません。ローラースケートが擦り切れてもね!」

「ありがとう、エドガー」

 一層強く、力を込めてアンジーはエドガーの手を握った。

「できたぞ、さあこれを持って行ってくれ、アンジー!」

 台所に駆け込んで来たヒュー。さっきまでエドガーの手を包んでいた白い手が閃いて封書を受け取った。

「任せて、ヒュー。じゃ私はお屋敷に戻るわね、今日はお会いできて良かったわ、エドガー、ごきげんよう」

 膝を屈めるサマセット屋敷仕込みの完璧なお辞儀をすると、ヒューの姉は去って行った。

 まだ夢心地でエドガーは尋ねた。

「手紙にはなんて書いたの、ヒュー?」

「なに、至ってシンプルさ。『ぜひお会いしたい。会って話したいことがあります。当夜のメッセンジャーボーイより』――さあ、賽は投げられた! 後はシーモア氏の妹、フローラ・シーモアが僕らの申し出を聞き届けてくれるのを祈るだけだ。うん?」

 手を握りしめているエドガーに気づいてヒューが訊いた。

「手をどうかしたのか、エド、火傷でもしたかい?」

「火傷か、うん、ある意味当たってるかも……」

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