第9話
朗報は翌日もたらされた。
昨日同様、駆け込んで来たヒューがソファで眠るエドガーを揺り動かして告げる。
「来たぞ、エド! フローラ嬢からの返事だ。今、アンジーが持って来てくれたんだ」
「むむ……で、なんて?」
「俺たちに会ってくれるってさ! 時間は今日の1時、場所は――」
指定された場所はリージェンツ・パーク。
ここは1838年から一般に公開された王立公園である。ウェストミンスター区とカムデン区にまたがる広大な敷地内には幾つもの庭園や植物園、野外劇場があってロンドン市民の憩いの場所になっている。特に北側にある動物園は大人気で、ヒューもエドガーも――きっと幼いロンドンっ子なら誰でも――象の背中に乗せてもらった楽しい思い出がある。
池のほとり、木陰のベンチに座ってヒューとエドガーはシーモア氏の妹、家庭教師のフローラ・シーモアがやって来るのを待った。今日も夜番の二人はそのまま出社できるようにテレグラフ・エージェンシー社の制服を着てローラースケートを肩に掛けた完全武装である。
その人は真直ぐ歩いて来た。
黒い喪服にベール付きのボンネット。
「ご無理を聞いていただいてありがとうございます。レディ・シーモア」
礼儀に
「いいえ、こちらこそ。あなたたちが兄を見つけてくださったのですね? 改めて御礼を申します。その節は御面倒をおかけしました」
背が高く(ヒューと同じくらいだ)ほっそりしている。銀に近い薄い金髪に青い目。細い顎を上げてシーモア氏の妹は挨拶を返した。刹那、エドガーはハッとした。この美しい貴婦人に何処かで会ったことがなかったか? しかも最近……
勿論、そんなはずはないのだが。
「それで、私に訊きたいこととはなんでしょう? 兄がお世話になったお二人です。私が存じていることならなんでもお答えしますわ」
ヒューは
「僕たちは、たった一つだけ、
「笑ったりするものですか」
レディは言った。
「私は、この世の中にはどんなことも起こりえると言う事実を、身をもって体験していますもの。何不自由なく王女様のように過ごしていたイタリアの寄宿舎から突然呼び戻されて、父の死と無一文になったことを告げられたのはリラの花が強く香る17歳の春でしたわ」
レディ・シーモアはサッと頭を振った。
「とはいえ、このことは警察の警部補にもお伝えしましたが、私は十年近く兄には会っていません。ですから、兄の生活について、詳しくは存じませんのよ」
「最近のことではないんです。知りたいのはシーモア氏が残した書置きに関することです」
ズィッと一歩、ヒューは前へ出た。
「書置きに宝について書かれているでしょう? 盗まれた宝とはなんなのか、お教えください。貴女が思い当たる物で結構です。何か心当たりはありませんか?」
「ああ、それ?」
レディは笑いだした。人がこんなに優雅に笑うことが出来るのを二人は初めて知った。
「あの〝ニセモノの宝〟のことね? 兄は人生の最期に至ってついにそれを認めたのよ」
ひとしきり笑った後でフローラ・シーモアは言った。
「ご存知でしょうが、我がシーモア家は父の代で破産しました。領地や家屋敷はもとより、代々先祖が集めた家宝、価値ある財産、その全てが抵当に取られ、売り払われ、散りじりになって消え失せました。ですが、私が最初の働き口を見つけ、兄は市内の小さなテラスハウスへ移ると決まったその日――それこそ私たちが最後に顔を合わせた日でもありましたが、その時、兄は言ったのです。唯一手元に残した宝があると」
ほうっと金糸雀のような溜息が漏れる。
「これは、兄の精いっぱいの見栄だったんですの」
レデイは顔を伏せて、暫く風が描く地面の木漏れ日を見つめていた。
「私はわかっていました。そして、ほらね、そのとおりだったでしょう? 兄は、遺書になったあの書置きに記しています。『宝・盗まれた・だがそれは偽物』と」
ヒューとエドガーを順番に見て、言った。
「どうか兄を許してやってくださいな。でもね、それは、かつては
「その家宝、シーモア氏が最後まで残した――残そうと努めた宝とは何でしょう?」
「多分、〈狐の真珠〉だと思います」
ヒューもエドガーも思わず声を上げる。
「狐の真珠?」
「我がシーモア家に代々伝わり、秘蔵して来た真珠です」
レディは説明してくれた。
「なんでもアラビア半島の砂漠で発見された、死んだ狐の口から見つかった真珠だとか。何代か前の当主がバクダッドの富豪から入手したそうです。曰く、この世で一番大きな真珠……」
レディは静かに首を振る。
「残念ながら、私は実物を見たことがありません。二十歳の誕生日に見せると父が約束してくれていたのですが叶いませんでした。別れる日に兄は見せたがったのよ。やっぱりあの時見ておくべきだったかしら? でも、偽物とわかっていたので断りました。偽物なんか金輪際、死んでも見たくなかった。あら、私も頑固で見栄っ張りね? 今気がついたわ」
「シーモア家の血ですね? 誇り高く美しい……」
それには答えず、ただ微笑んでレディは黒い手袋をはめた手を二人へ差し伸べた。
「では、ごきげんよう、メッセンジャーボーイ様。お二人とも素晴らしい人生をお過ごしになられますように!」
レディ・シーモアが去ってもヒューとエドガーは動かなかった。ピンと姿勢を正して、小さくなっていくレディのその後姿をいつまでも見つめていた。
どのくらい経っただろう。
東屋の方から響いて来る勇ましいブラスバンドの音にヒューは顔を上げた。リージェンツ・パーク恒例の、午後の軍楽隊の演奏が始まったようだ。
「出社時間までまだある、行くぞ、エド!」
「え? 行くって何処へ?」
「決まってるだろ、スコットランドヤードだ。確かめなきゃいけないことができた」
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