後編

 屋上に行くと、雨が降りだしていた。密閉されているから、焼却炉の火は雨で消えたりしないだろうと、アトレは思った。彼女は雨粒を手の平で受けながら「あたたかい」と言った。

「つめたい、だろ?」とアトレは言った。

「アトレ、あなたは、冷たい?」

「雨が?」

「冷たいね、心が」

 彼女は雨のぬくもりを、誰にもわからないものを、小さな白い手の平に受けていた。身体の感覚がなくなっていくから、心で感じているのだ。だが、彼女を哀れんだり、馬鹿にしたりする人は、誰もいない。アトレは冷えていく彼女の手を強く握って温めていた。


 彼女の番号がアナウンスされる夢を見て、遠いむかし、自分の番号札をつい返却してしまうことに怯えていた頃を、アトレは思い出した。彼女といると、何かが取り戻せると思った。雨にぬくもりを感じる心。だが、アトレがもしそんな心を手に入れてしまったのならば、罪の意識に耐えられるのだろうか……大きくて丸い背中や柔い首筋に向けて刃物を握りしめていた手に、耐えられない……心臓が強く鳴った。


                  ■


 夕陽が、待合室に差し込んでいた。

 背筋を真っ直ぐ伸ばして、ヒールの音を響かせて、スーツを着た女性が「お先に失礼します」と一言だけ言い残して、去っていった。唐突に握手された後、アトレは何度かてのひらをグーパーさせた。数十分後に、ダーン、と発砲音がガラス窓を揺らした。中庭のヒヨドリが一斉に空に飛びたっていった。ソファに座っていた大勢が、鳥の数にどよめいていた。しばらくして、好きだった鳥の話とか、鳴き声や求愛行動の話で、待合室はにぎやかになった。アトレはガラス窓がずっと振動しているように思えて、透明なわずかなゆがみをじっと見つめていた。


                  ■


 夕陽で赤く染まっていたせいで、一瞬アトレにはわからなかった。

 彼女は手首から血を流していた。

「やめてくれ」

 アトレの頭の中で、息をすることをやめた血まみれの顔が次々に点滅した。

「薬がとてもよく効いてる……」

 彼女は傷を見ながら口元をほころばせた。

 こんな果ての世界で、やめろなんて、何を言っているんだろうと、アトレはふと冷静になった。それでもアトレは「やめろ」「やめろ」と言い続けた。

「……番……お……さい」

 受付嬢の声が屋上の電波塔に絡まったスピーカーから流れてくるが、アトレの耳にうまく入らない。――痛い。懐かしい。痛い。取り戻せない。痛い。感じたくない。痛い。とてもとてもさみしい――心臓が押しつぶされそうだった。アトレは、屋上に行くのが怖くなった。

 待合室でじっと、朝や夜が過ぎていくのを待っている日々が続いた。


                  ■


 雨の音が止んだ。ソファで横になっていたアトレは鳥の声で目が覚めた。

 彼女は中庭に立っていた。

 アトレはソファから立ち上がることも座ったままでいることもできなかった。立ったり座ったりを、慌てて繰り返していた。彼女のまわりにうっすらと虹がかかり、サイズのあっていない白いブラウスが風にはためいていた。感覚がほとんどないはずなのに、彼女は心地よさそうだった。袖口の所だけが赤黒く汚れていた。丁度、そこから虹が伸びているようにアトレには見えた。

「番号札、一番の方。一番の方……」

 アトレは中庭へ走り出した。彼女の手を強く握った。一番は、彼女の番号だった。

「一番の方は至急、屋上までお越しください……」

 彼女は、アトレの目をじっと見つめながら、

「中庭に、一度でいいから来たかった。だいぶ、病気も治ったし、特別に許可をもらったの。自由っていいね」

 握りつぶしそうなほどアトレは手に力を込めていた。

「さびしいね……やっと心が生きたり、死のうとしているのに、あなたの伝えようとする手の強さがわからない……」

 真っ直ぐな線がたくさん彼女の掌に引かれていた。かさぶたで、手の平は段々になっていた。アトレは親指でそっとそれらをなぞった。

「くすぐったい……んだろうね」

 彼女はアトレの指先を握った。


                  ■


「大丈夫か、痛むぞ」

「かまいません」

 と、アトレは言った。

 酒やけして真っ黒な肌をした白衣の男が、アトレの鼻にツンとくる息を吐きながら、肩に突き刺すように注射した。

「これで君は二十四時間以内に、意識がなくなり息絶える。ただし、二十四時間、じっとしていれば死ぬことはない。走ったり、運動を始めると、その分、死が近付いてくる。歩いていたら突然死ぬかもしれないし、マラソンしてやっと死ぬかもしれない。わかったね」

 アトレは頷いた。医者の診察室は、入所者の部屋と似ていた。

 アトレは、彼女のことを思い出しながら、ふと診察室の窓を見た。突然、勢いよく立ち上がった。雨雲の下にある小さな公園に、アトレが殺した父と母と子どもが、うつろな目をして空を眺めていた。

 注射のせいで、幻を見ているのだろうか。

 風に吹かれたサッカーボールが、水たまりに浮かびながら、家族を横切っていった。

 アトレは窓を開けてよじ登った。窓のすぐ横の配水管を伝い上がって、フェンスの一番上に足をかけてジャンプして乗り越えた。着地に失敗して全身を強く打ってすりむいて、心臓が脳に響くくらい鳴った。風が吹いて、泥だらけのシャツがはためいた。


 公園の出入り口にたどり着くと、鍵のかかっていない自転車がうち捨てられていた。

 遙か昔、アトレがここまで乗ってきたものだ。

 アトレはペダルをこいだ。

「どこへ行こう。どこに行こうかなぁ……」

 チェーンが錆び付いて、中々前に進まない。

 注射のあとが痛んで、アトレはすぐに息が上がった。

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夕陽だったらよかったのに 猿川西瓜 @cube3d

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