夕陽だったらよかったのに

猿川西瓜

前編

 アナウンスが、また途方もない数字を告げた。

 アトレは、自分の番号札を見た。

 一億二千八百万五十七番。

 違う、な。そりゃそうだ。


 一人の男が、白いソファから立ち上がった。アトレのすぐ左前に座っていた。

 目の前を、少し浮かれた様子で通り過ぎていった。


 ソファは中庭に向けて、何百何千と整然と並べられていた。アトレは屋上と自室以外、いつもこのソファの待合室で過ごしていた。大きなガラス越しに中庭が見えていて、白樺が一本立っていた。アトレは後ろのほうの席に座って、毎日、アナウンスされては立ち上がる影を眺めていた。五七二七番。一億一三番。二百二十二番。四百五十一万二千五百十五番。番号が読み上げられるたび、立ち上がるそのシルエットは、時に老人であり、若い女であり、スポーツマンのようであり、小学生のようであった。

 横切った男は首の付け根から顎にかけて、マッサージのように手を動かしていた。アトレは、首を吊って死ぬんだろうと、思った。

 かつては、誰かが立ち上がる度に、言いしれぬものが、波となって打ち寄せてきた。胸を掻きむしった。信仰心と名付けられるほどのたいしたものは、アトレの中にはなかったはずなのに。

 だが、いつしか、自殺することで安らぐ彼らの体と心に、ほっと一息つくような祈りを捧げるようになった。


                 ■


 この、自殺する自由を受け入れる施設は、サイン一つで入所できる。何の審査もない。ただ訪れて、受付嬢から手渡された紙に、名前を書くだけでいい。

 入所者は番号札を与えられて、好きなように過ごし、死にたくなったら番号札を受付に返して、望んでいた自殺の仕方をシートに記入する。翌日には用意が完了していて、アナウンスが流れる。入所者は入ってきた入り口とは違うドアを通って、その用意された場所へと向かう。

 施設では、全員に個室が分け与えられて、美味しい食事と楽しいゲームと清潔なベッドが用意される。空調が年中きいていて、快適だった。

 入所する時のドアは、入り口専用として、一度入れば固く閉ざされる。幾度も迷い、入り口手前で引き返し続けてようやく入ってきた者。無表情にあっさりと入ってくる者。恋人を連れてカフェに訪れたように入所した者。ほとんどの人は入った後、ドアが閉じても振り返りはしなかった。

 アトレは、両親との写真が千切られ、わが子のぬいぐるみが裂かれ、食器が散乱した所から飛び出して、気がついたらここに来ていた。「いつ死んでもかまいません、心ゆくまでお過ごしください」と、受付嬢は書類を受け取ったあと、事務的にアトレに答えた。受付嬢の後ろには、「ゆとりある人生」という標語ポスターが貼ってあった。


                 ■



 中庭から差し込む強い夕陽に目が覚めた。うたた寝していたアトレは、オレンジ色の空に引き寄せられて、立ち上がった。

 彼女の見舞いに向かうためだ。

 彼女は、自殺施設の中で、屋上に隔離されていた。施設が扱いに困るほどの病を抱えていた。人を、「生きることも、死ぬこともできなくする」病だ。人はそれが「いったいどういう状態」であるか、「病」であるか、まったくわからないため、この施設に入所させて彼女の死を待った。他人には感染しないものだと科学者はいったが、反論もあり、確証はとれない。

 アトレは屋上で暮らす彼女に「おはよう」と話しかけた。何度か繰り返すと、彼女は「うん、おはよう」とようやくアトレに微笑みかけた。

 彼女は屋上でテントをはって暮らしていた。スチールパイプの座椅子の上に赤いクッションを置いて座り、一日中空を眺めていた。彼女は日に何度も注射を打たれて、今日もぐったりしていた。「生きることも死ぬこともできない病」を治すために開発された試験薬を注入されているため、見ることや聞くことはできても、時間や他の感覚は、薄く薄く消えていっているらしかった。

 夕陽が、彼女の頬を照らしていた。真っ赤になっていた。ふとアトレは彼女の頬をつねった。同時に、アトレ自身の頬もつねった。

「強く、お願い……もっと強く」

 彼女が言うと、アトレの頬に涙が伝った。彼女は頬をいくらつねっても、表情一つ変えなかった。痛覚が、ほとんどなくなっているのだろうか。指を離すと、涙は紫色になってじんじんと痺れたアトレの頬に染みた。


 アトレは、アトレの心の痛みを取り戻したかった。慟哭したかった。苦しげな顔の母も驚いた父も、よく分からないままうっすらと笑いながら殺されたアトレの幼い子のことも、アトレは眠るたびに思い出した。


「七百八十五番から七百八十七番の方はいらっしゃいますか」

 受付嬢が言った。

「焼却炉の準備が整いました……係員がご案内いたしますので受付前までお越しください」

 老夫婦とその息子らしい中年の男が、少し火照った顔で三人仲良く歩いていた。

「いい人生だったなぁ。こんなに幸せな家族なんてあるかい?」

 待合室に響かせるように聞こえよがしに言い合って、三人とも手を繋いだまま受付へと向かっていった。

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