ニコチアナ・タバカム

煙 亜月

ニコチアナ・タバカム

  どこでもないところの

  だれでもないおはなし


 冬で夜だった。

 四区の真ん中あたりのホテルのベンチに座った男は安煙草をせかせかと吸っていた。背も低く不摂生による肥満体の醜男で、足を小刻みに動かすのが男の卑猥さをいっそう際立たせている。ハンチングを被り口髭をたくわえていた。肉塊はサイズの合わないクレリックシャツを着、袖に左右で違う(とっておきの)カフスボタンを光らせていた。


 男はヒールの音に視線を上げる。女が来た。女は目印の赤い紙袋を掲げてみせる。

「マダム」男は煙草をもみ消し、立ち上がる。

「マドモアゼルです。遅くなってすみません、ムッシュ」


 女は紙袋をベンチに置く。女は痩せており、一六一センチメートル、四十七キログラムの身長を高く見せていた。やや低いが形のいい鼻と白く荒れた肌をしている。黒いタートルネックセーターにグレーのタイトスカート、黒いストッキングを履いている。ベージュのコートのポケットに両手を突っ込んでいた。金髪碧眼のこの女はオフィーリアという名で呼ばれていた。


「来月の第二金曜日、十五日にこのホテルの小会議室にラザニアを届けに来たとフロントでいってほしい。すぐに通されるはずです。会議の時間は十四時です」男が立ったままの女に伝えた。

「分かりました」


 男が声をひそめる。「本当にスパイをやったら検挙しないでくれるんです? ハムレットはもううんざりなんです。強制送還されずにすむっておっしゃるからハムレットに入ったのに、これじゃますます――(言葉を探しているようにみえる)泥沼だ。もういいんです。いったい何のために危険を冒してるんだか(声はか細く、断定的になっていた)。もういいんです(二度目のこのせりふはさらに悲壮感に満ちていた)。ぜんぶ洗いざらい話して、あとは天に委ねますよ。徒刑場へでも地獄へでもいい、ハムレット以外ならどこへでも行ってやりますよ」


「(オフィーリアは少し間を置いていう)あなたの果たした役割は大きなものでした。でももう安心して。これで我々はハムレットへの連絡が作れましたから。あなたは金曜の会議にも出席しなくていいし、ハムレットとの関係ももうないわ」

 

 男は放心して女の話すのを聞いていた。

「心からの感謝と、これまでの報いを用意いたしましょう」


 女は手を差し出した。両手で男の手を握る。女は右手薬指の爪で相手の掌を引っかき、そのまま両手をコートのポケットに滑り込ませた。男に背を向けホテルを後にする。


 女を見送る男は掌から血が出ていることに気づいた(しかし右袖のカフスボタンがなくなっていることには気づかなかった)。顔面蒼白になりトイレに駆け込もうとしたが、すぐに床に倒れた。ひっ、という女の悲鳴に振り返った見物人が何事かと群がった。


 風は道行く人の顔を執拗になぶり、たくさんの落葉はその足許をすくった。

 大通りからこの角を少し入ればスラムへの、堕落と懈怠けたいへの近道だ。

 裏通りの一角にあるアパルトマンの階段をオフィーリアは上っていた。

 四階で彼女はコートのポケットから鍵を取り出す。すぐにキーホルダーを握りしめ、音をたてないようにする。鍵穴の向きで分かった。ドアは解錠されている。


 オフィーリアは心の底から不機嫌そうに口角を下げ、バッグからオピネルの刃渡り十センチメートルの折り畳みナイフを取り出し、刃を開く。ドアノブを回すと肘と膝で思い切り強くドアを開ける。ナイフを逆手に持った短刀の構えで前後左右、天井、物陰を警戒する。


「クリア――あなたを除けば、ね」と、ナイフの刃をしまう。

 部屋のカウチには金髪の女がいた。


「おかえり。遅かったわね。ドア閉めてよ。寒いじゃない」

「こんな時間にどうしたの? それか、残業帰りの同僚に料理でもしてくれたの? まあ、あなたが料理なんて頭脳労働ができればの話だけど」


「まあ、その、ちょっとね。あ、でもおつまみは買ってきたよ。えらいでしょ?」

 自慢げにいった侵入者――オフィーリアの同僚はヘネシーのブランディをバカラに注ぎちびちびやっていた。


 パンツスタイルのダークスーツに薄紫のショールをまとい(オフィーリアが彼女をにらむとショールをテーブルの上に置く。自分のショールを返されたオフィーリアはわずかに口許だけで頬笑む)、名をレアティーゼといった。


 レアティーゼは部屋の隅のカウチソファにかけ、青い瞳(目は大きく見える)でオフィーリアを眺めていた。オフィーリアはナイフをテーブルに置き、ベージュのコートを二人掛けソファに放り投げる。


 バスルームへ向かうオフィーリアの姿をレアティーゼはぼんやりと眺めた。

 洗面台でオフィーリアは右手の薬指の付け爪を剥がし、石鹸とブラシを使って爪を慎重に洗う(付け爪と爪の間には茶色い乾きかけた液体があった)。ブラシでこすってそれを洗い落とす。


「爪の毒、まだアトロピン使ってんの」とレアティーゼが訊く。

「煙草を煮出した液を使ってるけど。わざわざそれを訊きに来てくれたの?」


 レアティーゼがもはや何杯目か誰にも分からなくなったブランディをバカラに注ぐ。「あんたもやる?」とオフィーリアに尋ねたが無視されたので独酌を続ける。


「あたしはベラドンナが好き(レアティーゼはベラドンナを煮出して作った高濃度のアトロピンを爪の間に入れており、また液を瞳に差していた。そのため瞳孔が散大し瞳が大きく見える。彼女はそれが気に入っていた。無論それでは視力も大きく落ちるが)。煙草汁? はっ、誰が使うのよそんなもの」


 オフィーリアもかつては爪の毒にアトロピンを使っていた。

 鋭利なすずき鰓蓋えらぶたでできた付け爪は相手の皮膚を切り裂き、切創から入るアトロピンはその者を心室細動に陥れる。現在使っている煙草の煮汁は急性ニコチン中毒による中枢性呼吸麻痺を招くものだった)。


 レアティーゼは長い金髪を掻き揚げウィンストンに火を点ける。オフィーリアもタオルで手を拭いてゴロワーズ(鰹節の焦げたような風味の黒煙草)に火を点けた。

 オフィーリアは咥え煙草のまま、キチネットでパイプ煙草のボルクムリーフをほぐして煮詰める(猛烈なにおいが部屋に充満する)。


 レアティーゼが「今日はどうだった」と訊く。

「対応したわ。満を持して。(レアティーゼはグラスを目の高さに掲げて乾杯の意を表す)」


 オフィーリアは立ったままブランディをグラスにそそぎ、ひと口呷る。

「それで」とレアティーゼが訊く。

「あとは知らないわ」

「ふうん。で?(レアティーゼはヘネシーを飲み干す)」


 オフィーリアは脱いだコートを顎でしゃくった。レアティーゼは酔いの割に俊敏な動作でコートのポケットをまさぐる。男のカフスボタンを取り出す。


瑪瑙めのうか。あんたの遺留品集めの趣味はいかれてるけど、まあ、金にはなるな」とレアティーゼが鑑定する。


「それで、お客様。ご用命は?」

 レアティーゼは呂律の回らない口調でこう話した。


「ええと、公安庁は全面的な再構成を必要としてるのね、知ってのとおり。萎えてきたのよ。不能者。インポってこと(レアティーゼは突然けたたましく笑う。オフィーリアは眉をひそめて舌打ちをする)。で、まあ、公安庁はあたしとあんたふたりを使うだけの余裕すらないらしいの。だからどちらかが辞任するか、罷免されるか、まあそういうこと。よく分かんないんだけどね」

 オフィーリアは鍋の火を止める。


「レイアも何考えてるんだか。だったらまっさきにクラウンを馘にすればいいのに」そういうオフィーリアは何も感じていないように見える。


「そりゃまあ、そうだろうけどね。でもいつだって上の考えてる事は分からないものよ(疲れたように目を細めていう)。とにかく、決定が出てから変に逆恨みされちゃ困るから先に言っとこうと思って。じゃ、報告終わり」


 朝、オフィーリアはアパルトマンを出て河沿いに歩き、パンドーム広場へ入る。建物の中に入り(衛兵に身分証を見せる)ほの暗い廊下を進む。


 会議室の扉を開く。

「遅刻だ、オフィーリア」と室内の男が咎める。

 口髭を生やしたシルバーのスリーピースはオフィーリアを見つめる。赤毛には派手なウェーブがかかっており、名をピックといった。

「まあいい。報告してもらおう」


「きのう夕刻、ホテルで該者に接見、必要事項を聴取ののち対応しました」オフィーリアはよく通る(静かでもある)声で報告した。

「それだけか?(オフィーリアはもちろんです、といった)。よろしい。あとはハムレットの身内がやってくれるはずだ。これは君に全権を委託している。組織のために言うが、慎重に頼むぞ」


 会議室は広いがそのため暗く、出席者の面々の顔へ影を落としている。

 オフィーリアは自分の席へ歩み寄り、音ひとつ立てずに腰を下ろす。


 深緑の別珍のパンツにグレーのリブタートルネックのセーターを着、革のジャケットを羽織ったラフな出で立ちだった。昨夜の不眠のため起きる時間が遅くなって服を選ぶ時間がなかった。急いでつけたロングピアスが暗がりに光る。


「――今回のハムレットの会議にはわれわれも注視している。どうもきな臭いというか、剣呑な事態に備えているようだ。あるいはそういう事態を招き寄せているのか」

 ピックとは別な男が歩きながら解説した。


「会議は秘密裏に開かれる。ハムレット内部の我々の調査官も、会議の実施の決定を知ったのは一週間前の事だ。その夜の会議で報告したとおりだ。ハムレット内部でも全員が把握しているわけではない。幹部レベルの会議だろう」


「――きのう情報を引き出した男によれば、あのホテルの会議には外国籍ハムレットのみが集まるような口ぶりでした。もっと手なずけていたらいい駒になっていたかもしれません。私の落ち度です」

 と、オフィーリアがコメントを述べる。


「ふむ、駒を切るタイミングに関しては再考の余地があるのかもしれない。しかし、だ。ハムレットに関係する者、しかも外人のみが集まるとなれば、無視できない。どうだろうか、今の時点でわたしは心底わくわくするのだがね」


 その男は会議机を一周し、オフィーリアの真後ろで歩みを止めた。線が細くフラノのスーツを身にまとい、名をトレフルといった。


「ハムレットの皆さんはいつも隠れてるんだよね」と、また別の男が解説した(彼が昨夜オフィーリアとレアティーゼが解雇すべきだといっていたクラウンである)。

 クラウンの発言からややあってトレフルは話を進めた。


「ハムレットはいま内部分裂の渦中にある。タカ派とハト派の間でな。それはむろんここにいる同志の尽力があってだが。その会議を君が誘導できれば、いくらハムレットといえども打撃は小さくはないはずだ」


 トレフルがオフィーリアのつむじを見ながら嬉しそうにいった。トレフルはウォーキングを再開させる。


「当局はハムレット内部の調査官を増員することにした。オフィーリア、引き続き統括を頼む。以上だ」

 会議は解散した。


 廊下でレイアに声をかけられる。

 オフィーリアは一〇分ほどののち上司の部屋を出る。気分が悪そうだったが、それは職務上のものであるので仕方もないことだ。が、ピックに話しかけられたのは単純にピックのことが(管理者であるレイアや、トレフルの爬虫類的なものとは趣を異にする)不愉快さのためだ。


「(ウェーブのかかった茶髪を掻き揚げる)人員削減案のことは知っているな。きょう事務のやつらがたくさん首切りにあった。つぎは公安職の削減をはじめるそうだ。そこで、だ。君とレアティーゼのどちらかに行政事務へ移籍と、つまりそうせよと上がうるさいんだ。君らには申し訳ないが、何分このご時勢なんでね」


「それはレアティーゼからも聞きました。しかし辞令も出ていないのにそんなことを話されても困ります。それともどちらが身を引くか、仲良く相談しろとでも?」


「(ピックは鼻背にしわを作る。不機嫌なように見える。それから力を緩めて鼻で笑う)そう尖るな。出向やら失踪やらで総務は記録に忙しいんだ。調査官を辞めたからといって職にあぶれることはないだろう。君らは有能でもあるしな。ほかの省庁にも席があるかもしれない」

 オフィーリアは背を向けた。


 深夜のパブ。

 六区のごみごみした区画にあって、汗の匂いと喧騒に包まれている。待ち合わせていた男とオフィーリアはグラッパ(葡萄の絞り粕から造った蒸留酒)を飲んでいた。

 店内では酔いの回った楽士がバンドネオンとヴィオル、トラヴェルソというトリオによるジグを演奏している。


 男との接触はハムレット内部に放った調査官の働きにより叶った(オフィーリアはよく彼女と組んでいた。陸軍情報部の派遣将校で、公安調査庁の中でも高い地位にあった)。

 オフィーリアはその男に静かにいった。


「単刀直入にお話します。あなた方に協力を申し出ます。内規により詳しい身分は明かせませんが、政府の中でも左と位置づけられています。やり方は違えど、最終的に至る道は右側の人間と同じです。


 ――まだ噂の段階ですが、政府は不換紙幣を発行するともいわれているのはご存知ですよね。ですが、発行は事実です。すでに決定されているんです。

 この不況下にそんな暴挙に出れば、国民の不満は文字通り、爆発するでしょう。疲弊した政権は今、銃口を国民に向けています。国民を脅迫しているのです。ここは機動力に優れたあなた方の組織のお力に頼るほかありません。来月の二〇日に行われる会議に関し、ぜひ提案したいことがあります。もちろんこれは非公式な面会ですが、いかがでしょう」


 男は四小節のあいだを黙り込み、口を開く。

「政府が協力を? 今にも隣人に襲われそうなしがないパン屋に? これは面白い。うちの店の襲撃予定日でも教えてくれるのですかな?」


 男は酒をすする。ジグは終わり拍手が起こり、少し間が空いて(楽士たちがアルコールを補給したのだろう)タンゴが始まる。死にそうな生活を忘れるために踊るものが出た。


 オフィーリアは頬笑みを浮かべる。

 男は二階席の酔っ払い(ジョッキを片手にくだをまいている。ざわめきの中辛うじて不況を嘆く声が聞き取れる)を、そこに未来があるとでもいうようにのぞき見る。男は先程からしきりに眼鏡を人差し指で押し上げている。オフィーリアが口を開く。


「まったくお心当たりがないとでも? 深夜よく家を抜け出して、どこかへ馬車を走らせるのに? 何も取って食おうという訳ではありませんわ」とオフィーリアは喋るあいだ頬笑みを崩さない(この会話をすることがさも楽しいかのようだ)。


 それから幾たびかふたりは話し合い、やがて男が口を開く(「奥様の弟さんの借金があっては、下の娘さんを学校にやるのも難しいでしょう?」とオフィーリアが言うと男はつばを飲み込んでうなだれた)。


「よろしい。お話しましょう(ええ、賢明ですわ、とオフィーリア)。会議の議題は外人ハムレット支援者へ、本邦の永住権を取得させるということです。彼らに家がないというのは困りますからね。弱みはひとつでもなくした方がいいんです。


 現在活動している外人支援者はおよそ三〇名。そのうち七名前後は外事要員として近隣諸国に残らせます。彼ら三〇名の賛同者は、祖国を完全に捨ててでも本邦に寄与したいと考えている者です。


 我々ハムレットは、国内で活動中の外国籍の者をアソシエイトからパートナーへ昇格させるには本邦籍を取得させるべきだと結論しました。一連の発案とそれに係る責任はアドバイザリー・パートナーである僕に帰結します。まあ、この国の血が流れていないのに協力を乞うなんて恥を知れ、とか陰口をたたく者もいますがね。


 今回の会議においては永住権の取り方を検討、業者に頼むと思いますがね、つまるところその業者の選定作業となるでしょう。生活習慣、語学、身分証、戸籍など、それらに通じた各種業者もこの会議ですべて決めます。彼らを完全にこの国の人間にさせるのです。現状では不法滞在の者が多いんでね(男はまくしたててため息をつく。酒をあおり、グラスを空にした)」


 オフィーリアは相槌を打ちながら聞き、最後にゆっくりと頷く(深い関心を寄せているように見える)。コーヒーをふたり分注文する。

「さて、あなたの提案というのは? マダム」


「マドモアゼル。コーヒーを飲みながらでもよろしくて?」

 と、オフィーリアは頬笑む。薄紫のショールをたたみなおし、じっとりとにじむ手掌の汗をショールで拭きとる。


 運ばれたコーヒーに彼女は砂糖をひとつまみ入れ、匙でゆっくりかきまぜる。

「提案いたします。わたくしどもで永住許可証を斡旋しましょう。簡単ですわ。邦人と婚姻を結ぶだけでよいのです。その際に帰化していただくだけなので、摩擦もないでしょう。幸い、わたくしどもは政治犯の家族など、こちらのいいなりになる人間を保有しています。


 抵抗はおありでしょうけれども、この国のためです。そこで外国籍の活動家の方の戸籍抄本とか、出来れば謄本など書類がいくつかが必要になってくるのですけれど。もちろんサインもです」


 男は眼鏡をはずして、顔をハンカチで何度もこすった。

「そこまで調べられているのに、気づかなかったとはね。迂闊だった。しかしそれは嬉しい。なるべく早く全員分そろえましょう。サインは血判状の写しがある。実に、こう、なんと言ったらいいのか」


 男は「奢りましょう」と言って上等なカルヴァドス(林檎酒を蒸留して造った酒。洋梨の蒸留酒も林檎とともに原材料に含むことがある)を注文した。


 しばらく酒を手に談笑し、その後ふたりは次に会う約束をとって別れた。


 部屋に帰ったオフィーリアはパンプスに新聞紙を詰め、風通しの良いところに並べて置いた。煙草を二、三本吸い、爪の手入れもせずにベッドに入る。寝返りを幾たびも打ち、時おり起き出して窓辺に立っては眼下に流れる河を見て眠れない時間を過ごした。

 

 夜も明けきらぬ頃にオフィーリアは起き出した。煙草を吸いながらキチネットで湯を沸かしコーヒーを淹れる(煙草をもみ消した灰皿は吸殻があふれるほどになっており、それを窓から捨てる)。フィセル(細長く水分が少なく、堅いパン)をコーヒーで流し込み、黒いウールの礼装用コートを羽織って外へ出た。


 トゥルネル橋まで歩きそこで歩みを止める。背中を欄干に凭れかけさせ、肘を手すりに乗せ体重をかける。首を肩にうずめ、そのままジタン(ゴロワ―ズ同様焦げた風味の黒煙草)を二本吸った。あたりは静かで、川に捨てたジタンの火が消える音さえ聞こえそうだった。


 日が昇りきったころにアパルトマンに戻る。ドアの郵便受けに手紙が挟まれていた。

『オフィーリア。安酒は体に毒と言うけれど、いい酒でもあれだけ飲めばいずれにしろ不健康よ。VSO以上であれば何でもいいわ』署名はフルネームだった。どうせ飲みながら書いたのだろう、素面でいる時間が極めて少ない彼女のことだ、その程度の奇行にはオフィーリアも慣れていた。


 手紙をテーブルに放り、礼装用コートを脱いでマーテル(白葡萄で造るブランディ。単式蒸留器で二回蒸留し、その風味と値段は上流階級に選ばれる)の瓶をひと口あおる。地味なパンツスーツに着替える。ペリエ(カルシウムを多く含む、硬度の高い炭酸入りナチュラルミネラルウォーター。健胃整腸作用がある)を飲む。胃の中が陰圧になっている錯覚がした。ドアノブに手をかけようとし、引き返してマーテルをもうひと口飲んでから外へ出る。


 午まえまで早足で街を歩き回った。公文書館の近くのブラッスリーに入り薄いコーヒーとまずいクロワッサンを賞味したり、士官学校近くで最後の抵抗を見せる軍楽隊の演奏を聴きながらベンチで本を読んだりした。『瞳の美しさ、心の苦しみ、機知の光も御照覧あれ。私は貴女の前にひれ伏し(ますが)、足元の埃には接吻しません』。そのあと馬車で市役所へ行く。


 窓口でレアティーゼの代理の者だと名乗って、戸籍謄本の開示を求めた。

「委託とご身分とを証明できるものを」と黒の腕抜きを着けた係の者の求めに従い、公安庁で支給された偽の身分証明書を見せた。

「それで、ええと、謄本のご使用の目的は」中年の黒の腕抜きをした戸籍係が目も上げずに訊く。

「相続に関することです。まわりに法律に詳しい人がいなくて、全部やってほしいと依頼されまして。それで私が取寄の代理を。行政書士証票はこちら」とオフィーリアは答えた。


 掛けてお待ちくださいといわれ、婚姻届をかき集めていると呼び出された。腕抜きを外した戸籍係の男から「この番号札をお持ちください。三番の窓口で呼ばれましたら謄写手数料を支払って、書類をお受け取りください」といわれ、しばらく待って三番窓口で手数料を払い、渡された書類を鞄にしまう。その他もろもろの手続きを済ませたオフィーリアは外へ出た。


 役場を出、グレーヴ広場を抜けたところにカブリオレの辻馬車が通りかかる。乗り込んだオフィーリアはパンドーム広場へ、と御者に告げた。

 汚い身なりの男が貴族風の男を襲うのを認める。「止めて!」オフィーリアは叫んだ(御者が急に手綱を引く。馬が不服そうにいななく)。


 身なりの良くない男の得物は鉈で、貴族は肩から血を流し何かを叫びながら地面を転げまわっていた(周りの人間が遠巻きに見物している)。襲う方も襲う方でよく聞き取れないが激しく喚いている。貴族が動かなくなった。まだ生きている。血圧があるから血が噴き出すのだ。浮浪者は貴族の首を切断しようと努力したが、鉈では到底無理だった。断頭は諦め、金目のものを奪うとどこかへ逃げた。今度こそ死んだ貴族の周りに乞食たちが群がる。


 オフィーリアは一部始終を見届けると御者に「もういいわ。出して」と命じた。

「なんとおぞましい。あんなもの見て動じないなんて、軍人か何かです、マドモアゼル?」

「ただの法医学者よ。勉強のために見てただけ」運賃を払い、馬車を降り白い建物の中へ入った。


 アドバイザリー・パートナーの男を紹介してもらった調査官と会った。地味なグレーのスーツで、発達した三角筋が肩を膨らませているのが分かる。調査官はオフィーリアの呼ぶ声に振り返りもせず手洗いへ入った。オフィーリアが追いかけて中へ入ると、その調査官は腕組みをして壁に寄り掛かっていた。


「会いたくないっていったでしょ」と調査員が顔をしかめる。

「まあまあ。軍人でも極右は嫌いでしょうしね。でもこれ、仕事なんだから。そう避けないでよ」


 オフィーリアは煙草を調査官に勧めた。断られたのでひとりで吸う。洗面台に灰を落としながら(いささかトーンを落として)いった。

「公安庁の辞令があるわ。私達の戸籍が必要なの。いっている意味分かる? 人間を整理するの。リストラ。だから謄本出してよ」

「首切りに戸籍まで要るの?」

「ああ、あなた軍から来て日が浅いのよね。わたしたちは戸籍上の身分も公安庁が作った偽物だから、公安庁を辞めさせるには実物が必要なの。わたしたちの実物の戸籍は役場じゃなく庁が一元管理してるから。馘にする人間だけじゃなく残る人間のも必要よ。これを機に戸籍を整理するつもりよ、上は。一応わたしはあなたの指導役も仰せつかってるし、頼めない?」

「ああ、事務が馘になったから皺寄せ? 仕方ないわね。じゃあすぐやろうか」

「助かるわ」


 オフィーリアは同僚たちの目を盗んで謄本をアパルトマンへ持ち帰った。まだ日は高い。煙草と酒、食料品を買いに行き、夕方まで素手と素足を出して乾かせるよう努める(腋窩えきか掌蹠しょうせきの多汗症は季節を問わず彼女を悩ませていた。明礬みょうばんを塗ったり、なるべく緊張をほぐすようにしたりと工夫はしていたが、どれも報われなかった)。


 夜になるのを待つ(部屋で酒を飲みながら本を読み、煙草を吸った。灰皿はすぐにいっぱいになる。窓から捨てるが他の住人は彼女に注意しない。以前管理人がしたり顔で説教に来たが、適当な理由をつけて追い返してやった。そのからというもの、彼女は誰にも苦言を呈されない代わりに、挨拶もされなくなった。好都合だった)。

 オフィーリアはパブへ出かけた。


 前とおなじ席におなじ男は腰掛けていた。オフィーリアも席に着く。

「用意は済みました」と男はいった。

「そう」

「今は持っていません。あなた方の素性もよく知らないのにこういう話をするのはよくないと上が言うもので」男は酒をすすった。

 オフィーリアは笑った。


 笑った後で哀れむような、蔑むような目で男を見た。

「そちらに駆け引きすだけの立場があって? 我々はあなた方に素敵なレディたちをご紹介しようというのよ。あなた方は喜んでそれを受け容れこそすれ、拒むメリットはないはずよ。この件であなた方に不利益でも? 罠にはめられると恐れているの? アドバイザリー・パートナーのあなたが上の顔色伺いを? わたしが指を鳴らしたら二個分隊の憲兵隊がやってくるのに? 


 それにだいたい、あなた方、ハムレットにせよほかの活動団体にせよ、替えは利く。十分に利く。反してわたしたち政府はどの反政府組織を使おうと選り取り見取りなのに、まったく、わきまえて欲しいものですわ」


 男はまた黙り込んだ。周りの人間が何事かと好奇の目でふたりを見る。男は隣のテーブルに座った別な男に目配せをして、アタッシェケースを持ってこさせた。


「参りましたな(ケースを受け取りながら言う。苦笑いを浮かべている。視線はオフィーリアには合わせない)。よろしい。謄本はここにあります。(ケースを開く)全部で十七名分。警戒する者が多くてね。どうか彼らを責めないでほしい。結局これだけしか集まりませんでした。血判状はこちら。これでよろしいのなら」と、男はいった。


 そんなに暑いわけでもないが(男はコートを脱いでいない)オフィーリアは額に汗を浮かべていた。「この喜ばしき夜に」と、オフィーリアはグラスを空けた。


 アパルトマンに帰り、オフィーリアはベッドへ倒れこんだ。寒い夜だった。酒を飲んだ後では冷えも強い。毛布を頭まで掛けても冷気は忍び寄る。体に毛布を巻きつけたまま起き出す。バッグからウーゾ(グラッパ同様葡萄の絞り粕から造った蒸留酒。アニスシードやスパイス、ハーブを加えており、風味は苛烈)をのミニチュアボトルを取り出して呷った。喉が焼ける。それからまた眠ろうとするが、アルコールによる熱はすぐに奪われる。オフィーリアは部屋の灯りを点ける。作業に取り掛かった。


 机の上と床に大量の書類――婚姻届、ハムレットの外人工作員と調査官の謄本、血判状、オフィーリアが事務仕事の際にくすねた調査官のサイン、およびアルマニャック(マーテルと同じく白葡萄から造るブランディ。半連続式蒸溜機で一回蒸留したのもので、木樽熟成の義務がなく、野性味のある風味)と紙巻のコイーバ(プレミアムシガーを手掛けるブランド)とを並べる。


 オフィーリアは婚姻届に謄本通り必要事項を記入し始めた。次いで平らな鑢(やすり)の上に蝋引ろうびきした多孔質の紙を載せ、その上にレアティーゼからの手紙を重ねる(体を気遣い、酒に注文をした手紙だ)。サインの部分を鉄筆でなぞり、蝋引きの紙を婚姻届の上に載せる。その上からインクをごく少量含ませたコットンで撫でると、婚姻届に彼女のサインができていた。


 乾くのを待って、レアティーゼの謄本と誰か知らないハムレットの謄本、そして彼らの婚姻届を封筒に入れた。ブランディの酔いが回ってくると(体に毛布を巻きつけたまま)葡萄ジュースを取ってきて混ぜ、フロック・ド・ガスコーニュにして飲んだ。飲んでは書類に向き直り、ひと組がすむごとにひと口酒を呷る。オフィーリアは毛布を体に巻きつけたまま作業を進めた。


 そうやってつぎつぎにカップルを誕生させた。重複している新郎新婦が多くあった。オフィーリアは立ち上がり、不要な書類をフライパンに入れ、ブランディをかけて焼いた。


 不眠不休の作業は役所が開く時間ぴったりに終わった。頬はこけ、目の周りに隈ができ、瞳はぎらぎらと輝いていた。口の中がすっぱい味がした。舌苔をスプーンでこそぎ落とし、水でうがいをし、爪にマニキュアを塗った。スーツに着替え、一散に市役所へゆき、どっさりと婚姻届を提出した。


「いったい何人分あるんです?」と窓口は驚いた。

「いつの時代にでも愛はあるってこと」とオフィーリアは頚を鳴らした。


 しばらくすると公安調査庁内部に重婚の噂が飛び交った。

 職位の高い調査官五、六名が重婚したらしい。違う、はめられたんだ! 噂はすぐに混乱へと規模を上げ、クラウンは「だから面白いんだよね、この仕事は!」と喜び、謄本を用意した軍情報部の派遣将校は「ねえオフィーリア! わたしを騙したの?」とびくついた。「大丈夫、あなたに累は及ばないわ」


 事実、課長級以上である彼女やオフィーリアの謄本は厳重な扱いで、彼女自身も用意できなかった。ゆえに彼女は重婚させられるのを逃れた(いずれにせよ、オフィーリアは彼女を巻き込むつもりはなかった)。


「何よ、何だっていうのよ!」ほかの調査官に詰め寄られたオフィーリアは知らぬ存ぜぬで通した。


 公安庁の混乱と並行してハムレット内部にも重婚騒ぎが持ち上がった。アドバイザリー・パートナーの男は面目丸つぶれとなって一家全員殺され、よく分からないままに知らない女と結婚した工作員もことごとく姿を消した。公安調査庁の調査官やその上司も停職、免職処分を受けた。


「詐欺です! 七四七条を使えば婚姻の取消ができるはずです」

 レアティーゼは足掻いた(ほかの重婚疑いの調査官らも同様に反駁した)。

「だめだ。もう失態は庁の外にもリークされている。いまや個人の問題ではないんだ」とトレフルは諭す。「どうしたっていうのかしら」とオフィーリアはそらとぼけた。


「デスクに来てほしい」とレイアからのメモが来た。オフィーリアは悄然としてレイアのオフィスに入った。


「掛けてくれ」オフィーリアはデスクをはさんでレイアの前に座った。いまやレイアはネクタイも緩め、マッカランをちびちび飲んでいる。オフィーリアは酒を勧められたが断った。レイアは煙草を取り出す。


「ご苦労だった。これで公安庁とハムレットのパワーバランスが均衡化したな。やれやれだ、オフィーリア。やや乱暴だが結果論として、全面的に再構成できたといえよう。戦争が長引けば長引くほど予算が下りる仕事というのは、そうあったものではない」


 レイアの咥えたデスにオフィーリアは身を伸ばし、サロメのライターで火を点ける。

「増税しようがなんだろうが、こればかりはやめられなくてね」と鼻孔から満足げに煙を吹いた。


「ハムレットを潰すのは惜しい。対抗勢力がそうなっては予算が下りなくなるからな」

「(それまでずっと俯いていたオフィーリアは顔を上げる)それは――いくら予算が少ないとはいえ血税を――国民は今にも爆発します。それ以前に、この政権のままだと軍事クーデターが起こりかねません。それなのにわたしは、予算のためだけに――(オフィーリアは俯いて額に手を当てた)」


「ふうん? 今さら何を言っている。君を見込んでの仕事だったんだが。いいか、税を投入するということは国民に還元していることも同義だ! 君こそレアティーゼを排斥するために重婚させたんじゃないのかね? ふん、おめでとう。これで首がつながったな。ハムレット対策の全権を握っている君にはピックも頭も上がらんだろうよ。ピックの職位も形だけさ。さぞかし愉快だろうかと思ったのだが?」


「——少し休暇を取りたいと思います。全権は一旦、トレフルへ」オフィーリアは俯いたまま言った。

「好きにしろ」


 オフィーリアは一礼して部屋を出た。

 ドアを開けるとレアティーゼが立っていた。「レア――ごめんなさい」

「まあ、仕方ないといえば仕方ないわね。でも、もういいわ」とレアティーゼがいう。


「さぞかし憎いでしょうね、保身のためにあなたを使ったんだから。全部わたしが悪いの。あなたにはどう謝っても謝りきれないわ」


「あんたは真面目すぎるのよ、昔から。ひとりで悪役を引き受けるつもり? なんのメリットもないじゃない。それに、あんたは私の姉貴なのよ、アン(レアティーゼは本名で呼んだ)。公安庁はあんたに汚れ役を押し付けた。全部押し付けた。悪いのは庁よ。いや、だれが悪いとかじゃない、とにかく、このくそったれな時代が悪いのよ。悪い時代に生まれたのが運の尽きなのよ」


「もう——もういいの」レアティーゼの言葉を最後まで聞かずにオフィーリアはトイレに駆け込んだ。


 便器に顔をうずめ吐く。横隔膜が何度も何度も肺を圧迫し、牛の吠えるような声が出る。コールタールのような吐瀉物だった(赤血球のヘモグロビンと胃の中の塩酸が結合した塩酸ヘマチンの色だ)。


 トイレを出るとレアティーゼは消えていた。

 吐いて少し気分転換になったところでオフィーリアはゴロワーズを吸った。


(その後、オフィーリアはレアティーゼが私宅軟禁されていると風の噂に聞いた。オフィーリアはその日一日泣きながら酒を飲み続けた)


 オフィーリアはアパルトマンへ帰り、寝巻きに着替えると泥のように眠った。目覚めることのないかのような、死人のような寝顔だった。


 オフィーリアは南方、山岳地の向こうにある温暖な平野部で冬を越すつもりだった。南は暖かかった。ホテルの部屋にある鏡に指を這わせる(爪には何も塗っていなかった)。鏡に映る指との間が空いていれば、鏡の奥で誰も監視していない証拠だ。


 彼女は今までの睡眠不足を取り戻すかのように眠った。一〇時すぎまでベッドで眠り、昼と晩は食堂へ下りて簡単な食事を摂る。もう無茶飲みも吐血もしなくなり、体重は平均値に戻り、肌も若干ながら赤みを取り戻した。

 

 そのころからオフィーリアは黒煙草をやめ、ウィンストンを吸いはじめた。爪の毒薬にアトロピンを選ぶようにもなった。だんだんレアティーゼに自分を似せ、公安庁ではハムレット対策の予算と権力をほしいままにしていた。

 

 さて、彼女は正しかっただろうか? もし仮に後悔に明け暮れることがあっても、あの時オフィーリアはそれが正しいと思い為していた。オフィーリアはいつだって正しかった。仮にわざと間違いを犯そうとも、そうするのがよいと判断し行なったはずだ。ゆえに我々は常に最善を尽くし生きている。


 あなたもわたしも、いつだって正しい。



『ニコチアナ・タバカム』——了

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ニコチアナ・タバカム 煙 亜月 @reunionest

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