爪紅
田所米子
爪紅
びいん、と音を立てて三味線の弦が切れた。しかも悪いことに、その切れた弦が指先を擦ってしまったのだから、霧野は思わず舌打ちする。
今頃、姉さんもこんな風に血を流しているのだろうか。
痛んだ指先を舐りながら、開け放った戸の向こうに目をやる。すると、入道雲浮かぶ夏空がいつのまにやら見事な紅に染まっていたものだから、姉女郎のことを考えずにはいられなかった。
ご法度の
遊女は
悲鳴が聞こえてくるやもと、今一度握った銀杏型の
霧野は七つになってすぐ、吉原に売られた。元々腕が悪い大工だった父は、屋根から足を滑らせてお陀仏になってしまった。なので、母はやむなく一番上の娘を売り払ったという次第である。
自分の半生は聴く人が聴けば、可哀そうにと涙を流す身の上かもしれない。が、生まれたばかりの三番目の弟を始め、霧野の他にも五人の子を抱えて生きざるを得なくなった母には、そうするしかなかったのだ。第一、そんな身の上は吉原にはありふれている。
あのまま父が生きていたところで、酒とご開帳しか楽しみのない父はこれからも子を増やしていったはずだ。だから、霧野は遅かれ早かれ売られる定めだったのだろう。だいたい昼は父を詰る母の声が、夜は夜で父に抱かれて
年の割に冷めた子供だったとはいえ、まだ七つだった霧野が一度も家族恋しさに泣かずにいられたのは、姉女郎の夕里のおかげだった。霧野が下働きとして見世に買われた頃。座敷持ちになったばかりだった夕里は、霧野を自分の禿として引き抜いてくれたのである。それが、七年前のことだった。
買われて間もない霧野はがりがりに痩せた、餓鬼さながらの子供だったから、女将も最初は禿とするのに難色を示した。
「この子は賢い目をしているから、きっといい女郎になれる。それに、随分と白くて、柔らかい肌をしてる。磨けばきっと餅みたいに、男を離さない肌になるよ」
けれども夕里の一言で、女将も霧野を遊女見習いとすることに同意したのである。
霧野の手を引いて自分の座敷に戻るやいなや、夕里は良かったねえと微笑んでくれた。端整な面をくしゃりと崩した彼女は、霧野よりももっと白い、抜けるような肌をしている。なんでも夕里は、江戸よりずっと北の村から売られてきたのだという。
夕里が生まれた村はお天道様もあまり照らず、従って作物の育ちも悪く、村人たちも鬱鬱とした者ばかりだったらしい。冬になると体力のない老人や子供がばたばたと死んでいき、夕里の弟や妹の何人かも凍えて死んでしまったのだとか。
「あたしゃ、年季が開けたってあの村に帰るのだけはごめんだね」
口癖のようにぼやく夕里が、次に口にする言葉は決まっていた。
「もういっそ、年季が開けたら遣手か飯炊きにでもなって、一生ここに置いて貰おうかねえ」
遊女ならば、身請けしてくれる客を探すべきではないだろうか。霧野が禿になってすぐに、夕里は見世の一番人気となった。その売れっ妓の細い喉から出たとは思えぬ文句は、女将が聴けば
遠い遠い所から売られてきた夕里と違い、霧野が産まれた長屋は、試みれば辿りつけなくもない場所にある。引っ越しをする余裕があるはずもないから、母や弟妹たちは今でもきっとあの場所で暮らしているだろう。もっとも、霧野と同じく売られていなければ、の話だが。
霧野はもう、吉原に売られる前になんと呼ばれていたのかすら思い出せない。従って、家族の許に帰りたいとも思えない。
「だったら、あたしもそうします。あたしだって、あの貧乏長屋には戻りたくはないし」
「お、そうかい。あたしら、やっぱり気が合うねえ」
あたしも、年季が開けてもこの見世にずっと置いてもらおう。そうすれば、夕里姐さんとずっと一緒にいられる。その決意を口にすると、夕里は花が咲くように笑ってくれたものだった。
夕里の仕込みは厳しく、時に泣きたくなるぐらい罵声を浴びせられることもあった。けれども霧野は、夕里を慕っていたのである。もはや顔も忘れてしまった母などよりも、ずっと。一途に。長女を自分の代わりに飯炊きをさせる道具程度にしか見做していなかった母と違って、夕里は霧野を可愛がってくれたから。
姐さんが霧野を叱ることがあれば、それは霧野の行く末を真剣に考えるがゆえ。ひとしきり説教が終わったら、次からは頑張るんだよと霧野が好きな飴や饅頭を分けてくれる姐やを、どうして好きにならずにいられようか。霧野は父母の一番上の子だったけれど、もしも上に姉がいたら、こんな感じだったのだろう。
夕里を喜ばせたい一心で稽古に励んだ霧野は、いつしか次なる稼ぎ頭と目されるようになっていた。芸事は何でも巧みにこなすし、いつか姐やが見込んだ通り、その肌は白く、触れれば吸い付くように肌理が細かい。
霧野は肝心の面相の方は、夕里のような万人が認める端整さは持ち合わせてはいなかった。けれども円らな瞳にはなんとも言えない愛嬌があり、薄紅の装束を纏って佇めば、その様は近頃人気の桜草のようと称賛されもしたのである。牡丹や蓮には及ばずとも、可憐で親しみやすい風情の桜草を好んで愛でる輩はわんさといるのだ。
「この子の真価を見抜いたあんたは賢いよ。あたしゃ、危うくお宝をどぶに捨てちまうところだった」
新造になった霧野の三味線を聴いた女将は、霧野よりも夕里を持ち上げた。
「当然だよ。なんたって、このあたしが仕込んだんだからねえ」
すると夕里は、これまた霧野よりも嬉しそうに相好を崩すのである。
「でも、霧野も、あと少しで水揚げか……」
新造とは下級の遊女を指しているのだが、新造はまだ客を取らない。いかに吉原といえども、女になっていない遊女には客を取らせないのである。だが月役が訪れれば、好きでもない男に股を開く日々が始まるのだ。そして身体の成長具合から考えるに、霧野はもうそろそろだろう。
女になってしまえば、嫌でも自分と夕里は競い合う仲になってしまう。それでも、夕里姐さんは自分を可愛がってくれるだろうか。
ご開帳よりも夕里との穏やかな日々が終わることが不安でならず、霧野は唇を噛みしめる。妹分のただならぬ様子に、一体何を思ったのだろう。
「よし、ちょいとあたしと一緒に来てみな」
夕里はいつかのように霧野の手を掴むと、猫の額みたいな庭まで引っ張った。そして、片隅に生えていた鳳仙花の花弁を指先で潰したのである。綺麗な着物が汚れるかもしれないのに。
姐やは制止を右から左に受け流し、潰した鳳仙花の花弁に
「こうするとね、爪が綺麗な紅色に染まるんだよ。
しばらくして潰れた花弁が落とされると、たしかに霧野の爪は夕焼け空さながらに赤くなっていた。うだるような暑気に汗の珠を結んだ姉さんの項は、息を呑むほど艶かしい。
「ほんとはちゃんとした紅で染められたらいいんだろうけど、それは公家とかお武家さんとこの女がやることだから。うちみたいな中見世じゃあ、こんなおままごとみたいなので精いっぱいさ。でも、これだって中々綺麗に染まっただろう」
ふと見やれば、夕里の爪も霧野と同じ黄昏の色をしている。
「この色が初雪が降るまで残ってれば恋が叶うって言われてるそうだけれど……。あたしら女郎には、恋が叶っても嬉しいことなんざ一つもないからねえ」
この時、姐やがほうと哀愁を帯びた溜息を吐いたのは、予兆だったのかもしれない。密かに相惚れの客を作っていた夕里は、あろうことか見世に火を付けてまで、その客と足抜けしようとしていたのである。
夕里の企てを知り女将の耳にいれたのは、霧野だった。
葉月のある日。八幡様に屋台が出たと聞いた霧野は、同じ時期に見世に入れられた新造たちと、連れだって屋台に出かけた。本当は夕里と一緒に行きたかったのだけれど、生憎夕里は数日前から風邪をひいていたので。
どれぐらい屋台を見物していただろう。いつしか一緒に来た娘たちと逸れてしまった霧野は、どうにかごった返す人波から出た。そして幽かに聞こえる聞き覚えのある声を頼りに足を進めると、行き着いた先ではなんと寝込んでいるはずの姐さんが男と抱き合って、足抜けの画策をしていたのである。
客として夜に訪れるだけの男たちや他の見世の遊女には、化粧をしていない夕里が、どこの見世の遊女かなど分からないだろう。だが、霧野にははっきり分かった。霧野は、夕里に裏切られたのだ。ずっと一緒にいよう、と約束していたのに。男なんてあてにならないからねえ、と二人して笑いあっていた日々はなんだったのか。
八幡様見物から戻ってすぐ、霧野は女将に見聞きしたことを告げた。つまり夕里は、吉原に火を放つよりも先に、霧野の中に火を放ったのである。
女将は当然かんかんに怒って、姐さんを打ち据えに行こうとしたけれど、霧野は女将の足元にしがみ付いて止めた。そうして何食わぬ顔で時が熟すのを待ち、いざ夕里と間夫が新たな人生を始めようと囁き合っていた日の、炎が放たれるはずの刻になると、若衆をやって二人を取り押さえさせたのである。
幸いにも放火は小火で済んだが、夕里の相手の男の方は、その場で殴り殺されたと聞く。本来ならば放火を企てれば火あぶりに処される決まりだから、男の方はむしろ楽に死ねたのかもしれない。しかし、共犯の夕里は違った。遊女にとって足抜けは、放火と同じくらい重い罪なのだから。
人一倍目をかけていた夕里の恩を仇で返す振る舞いに激高した女将は、煙や筆、針で苛めるのみならず、姐やを代わる代わる男達に辱めさせた。
いかに夜毎好かぬ男に股を開く遊女とて、好いた男を殺された挙句の、この仕打ちには耐えかねたのだろう。夕里姐さんは、仕置き小屋から出されたその日の晩に、首を括って恋した男の後を追った。梁からぶらぶら揺れる躯の、爪を剥され真っ赤になった指先は、鳳仙花で爪紅した時よりも綺麗だった。
爪紅 田所米子 @kome_yoneko
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