藤原さんはこの世界から飛び出したい
渋谷楽
第1話 藤原さんはこの世界から飛び出したい
校舎の屋根から滴り落ちた雨粒が、コンクリートを叩いた。僕はその様をぼーっと眺めると、自転車から降り、決意を固めるようにハンドルを握り締めた。
「ねえ、本当にやるの?」
僕は、隣にいるたっくんに問いかける。
「当たりめえだろ? 噂の真相を突き止めるためにも、ここで俺らが犠牲を払わなくちゃならねえんだ!」
犠牲、とたっくんは格好つけて言ったが、僕たちがわざわざ夜の校舎に来たのは、その実、好奇心によるものと、たっくんの熱意によるものだ。そのことを見透かしてか、僕の右隣りの成彦は肩をすくめる。
「犠牲、なんて大それたものじゃないよ。あの踊り場の鏡に現れる『藤原さん』の存在を確かめるというだけさ。どっちみち、ここまで来たら引き返せないぜ?」
「そう、だよね。うん。ここまで来たなら、噂を確かめなきゃ、ね」
どの学校にも「怪談」の類はあるもので、僕たちのいる中学校も例外ではない。なんでも、深夜二時、二階から三階に上がる途中にある踊り場、そこの鏡に「幽霊」が現れるというのだ。藤原さん、という名前は、誰が付けたのかはわからないが……
「物音立てないように家から抜け出すの、大変だったあ、僕の妹、寝付き悪いから……」
「お前ん家の妹、産まれたばっかりだっけ? その子にまで藤原さんの呪いがいったら大変だなあ」
「え、縁起でもないこと言わないでよ! 僕たちはただ、確かめに来ただけなんだから」
「そうだ。真相を確かめたら、すぐに帰るぞ」
その噂が無くても、深夜の学校は十分に不気味だ。放課後に予め開けていたトイレの窓から校内に侵入すると、三人固まって移動する。
「普通は、トイレにも怖い噂があるものだと思うけど」
「おう」
「この学校には、そういうの無いよね」
「それくらい、藤原さんのインパクトが強すぎるんだろうな」
「実際に見たってやつもいっぱいいるしなー」
「……僕、ちょっとお腹痛くなってきたかも」
個室に駆けこもうとする僕の服を、二人にがっしりと掴まれる。引きずられるように階段を上ると、佇むように「それ」はあった。
「結構雰囲気あるな」
「ここに、幽霊が出るのか」
「……うう、もう帰ろうよぉ」
二階と三階の途中にある踊り場、そこに何故かぽつんと設置されている鏡は、僕たち三人の姿を額縁に収められるほど大きい。
「出てくる気配、無いよ?」
「……うーん、やっぱり、噂は所詮噂ってことか?」
「なぁんだ、入るときは結構ドキドキしたけど、拍子抜けだったな。この時間警備員の人が見回りしてるみたいだから、行くなら早く行こうぜ」
「う、うん。そうしよう」
「ねえ、待って」
成彦の言葉に導かれ、踵を返したその時だ。ここにいるはずのない、女性の声を聞いた気がした。
「ん、たっくん、今なんか言った?」
「いや、何も……っていうかさっきの、恭一、お前の声じゃないのかよ」
「ち、違うよ。明らかに女の人の声、だったし」
「……おいおい、冗談だろ。まさか」
成彦の持っている懐中電灯は電池を代えたばかりでよく光る。それで鏡を照らすと、その声の正体が姿を現した。
僕たち三人と向かい合うようにして、長い前髪の女子生徒が、鏡の中から僕たちを睨んでいる。
「で、出た~!」
たっくんのお手本のようなリアクションを皮切りに、二人は一目散に走り出す。しかし僕は足が竦んで動けず、その場に尻もちをついてしまった。
「あ、ああ……」
鏡の中の女子生徒、「藤原さん」とずっと目が合っている。僕は金縛りにあったようにその場から動けず、彼女の目を見続けることしかできない。
「私。藤原さん、って言うの。君の名前は?」
「ひゃい!?」
藤原さんが喋った。普通に、普通の人間かのように喋った。幽霊の世界でも挨拶は人とコミュニケーションを取るうえで重要なものらしい。そんなことを考えていると、藤原さんはさらに前のめりになった。
「ねえ、名前」
「え!? あ、えと、高藤、恭一と言います……」
「恭一、恭一くん……あのね、良かったら私と」
最初はノイズがかかったようにガサガサだった藤原さんの声も、次第に年ごろの女子中学生らしい高く透き通った声に変わっていく。長くボサボサだった髪も次第に整っていき、ついには可愛い顔を露わにした。
そして、遂には鏡から飛び出した藤原さんは、尻もちをついている僕に手を差し伸べ、笑顔を浮かべたままこう言い放つ。
「友達に、なってくれませんか?」
あまりの出来事に、あの時の僕はどんな顔をしていたのだろうか。思い出せないが、一つだけ覚えているのは、僕は、普通の女の子のように華奢で、柔らかい藤原さんの手を、握り返したということだ。
藤原さんはこの世界から飛び出したい
作者・渋谷楽
「おい、恭! 昨日大丈夫だったのかよ?」
たっくんが朝からうるさいのはいつものことだが、今日のたっくんの勢いはいつもと違った。何故なら彼らにとって昨日僕は、「藤原さんに襲われた」ことになっているのだから。
「あー……うん、何とか逃げ切ったよ。二人は大丈夫だった?」
「うん、俺らは真っ先に逃げたからな。ごめんな、本当に。自分のことで精一杯でよ……」
「それで、藤原さんはどんな奴だったんだ? 恭一」
「ああ、うん、別に……」
その質問には、僕は気安く答えられなかった。何故なら、今の僕には……
「案外普通の女の子、だったかな?」
「恭一くん! ねえ、皆が持ってるこの板みたいなの何? パンみたいに食べられるの?」
藤原さんが、「憑いてしまっている」のだから。
「普通!? 普通ってなんだよ。どういう意味だ?」
「い、いやぁ、そのぉ」
「詳しく聞かせてくれないか!? 新聞の良いネタになりそうなんだ」
「ごめん。ちょっとトイレ行ってくる」
たっくんたちの制止を振り切り、スマホを見てはしゃぐ藤原さんの肩を、ちょん、と叩く。のこのこと付いてきた藤原さんとトイレの個室に入ると、そのまま彼女に詰め寄った。
「おい、これは一体どういうことなんだ? 何で僕にしか君が見えていないんだ?」
「いやん、恭一くん、意外と大胆」
「答えろ」
「……もう、そんなに怖い顔しなくても……私は十年くらい前のこの学校の生徒で、事故で死んじゃったの。そしたら幽霊になってこの学校に閉じ込められちゃって、夜はあそこで友達になってくれる人を探してたの」
「それが、たまたま僕だったと?」
「そう、たまたま。偶然。奇跡的に波長が合ったんだね」
ずっと独りだった割には屈託のない笑顔を浮かべる彼女を見て、思わず呆れたようなため息が漏れてしまう。
「だったら、この機会に外に出てみればいいじゃないか。僕に付き合ってるより何倍も面白いと思うよ」
僕の何気ない一言は、能天気に笑う彼女を俯かせた。逡巡、視線を泳がせた彼女は、それからぽつり、ぽつりと話し出す。
「それが出来たら、良いんだけどね。私、何でかわからないけど、この学校から出られないの。呪いがかかってるみたいに。外に出ようとすると、全身引き裂かれそうな程痛くなっちゃって」
「えっ……」
状況が整理できていない僕の頭に、チャイムの音が鳴り響く。それは朝のホームルームの開始を告げる音だったし、僕を慌てふためかせるのに十分だった。
「や、やばっ、早く行かなきゃ」
「だから、ね。恭一くん」
振り向く。綺麗な茶髪を左手で耳まで掻き上げた彼女は、恥ずかしそうに笑った。
「もう少し、君の傍にいても良い?」
「……勝手にしろ」
「うん、ありがとう」
その時の僕は、恐らく情けない顔をしていたのだろう。担任の先生に異常を指摘されるくらいには。
終始上の空で授業の内容が頭に入ってこない僕に対して、藤原さんは僕の教科書を見ながら心底嬉しそうに笑う。ずっと見ていると不意に目が合って、笑顔に吸い込まれそうな感覚を覚える。
しかし、時折彼女は、窓の外を見つめていた。体育をしている生徒たちを、空を自由に羽ばたいている鳥を、まるで絶対に手が届かない存在のように見つめていた。
そんなことない。君は、不自由なんかじゃない。
僕に出来ることなら、何でもしてあげたい。
こんな平凡な僕でも、君を「普通」にしてあげられる方法があるのなら。
「皆、いなくなっちゃったね。恭一くんは、部活してないんだっけ?」
「ああ、僕だけ、ね。たっくんはバスケ部、成彦は新聞部。僕はクラスで唯一の帰宅部さ」
「……ふふ、変なの。学生なのに、何もやらないんだ」
「今なら、それは必然だったんだと思えるよ」
「ふふ、ごめんね。でも、私なら、適当な運動部に入るかな」
握りしめた拳に手汗が滲む。臆病さを噛み砕くように息を吸うと、喉を引き絞るように声を出した。
「僕に出来ることなら、何でも言ってよ」
緊張しすぎて喉が痛い。身体がまるで彫刻のように動かない。
「君を外に出せるなら、何でもしてあげたいんだ」
「……最初、君を見たときね」
驚いたように笑った後、藤原さんは、手を後ろに組んでぶらぶらと歩き出す。
「ちょっと、弱々しいというか、頼りない人に見えた。たまたま波長が合ったけど、この人と一緒で大丈夫かな、なんて思っちゃった」
「……そりゃ、悪うござんした」
「でもね、今は違う。恭一くんと出会えたのは、運命だったんだと思う。君と、出会えてよかった……あのね、恭一くん」
迷っていたような自由飛行から、意思を持った旋回を始めた彼女は、僕の傍に立ち、顔を近づける。
「目、瞑って」
まるで催眠にかかったように、僕は闇の世界に飛び込む。柔らかく、温かいものが、唇に触れた。あっと言う間の時間が過ぎると、藤原さんは、静かに口を離した。
「ありがとう。そして、さようなら」
「え、あれ……?」
椅子ごと、床に倒れ込む。身体が動かない。意識が朦朧としてくる。藤原さんの屈託のない笑顔が、網膜に焼き付いていく。
「ごめんね。騙すようなことしちゃって……人間の生命力を吸い取って、私の役割を押し付ければ、私は外に出られるの。波長が合った人があなたで、本当に良かった」
藤原さんの優しい手が僕の瞼を閉じ、僕をさらなる闇へ突き落す。
「せめて、あなたよりは有意義な人生、生きてみせるからね」
記憶が薄れていく。僕は誰だったんだっけ。何で、ここにいるんだっけ。覚えているのは、「藤原さん」という名前だけだ。それが僕の名前なのかどうかすらわからない。強く印象に残っているから、恐らくそれが僕の名前なのだろう。
「ねえ、知ってる? 藤原さんに魅入られた人は、行方不明になっちゃうんだって」
女の子の声が聞こえてくる。もう夜中なのに、何を考えているのだろう。
「もう、あんまり怖がらせないでよ。ほら、この階段上って、そこの踊り場にある鏡でしょ? 早く見て帰ろうよ」
「私も、あんまり行きたくない……」
三人だ。まず、わざと姿を見せて驚かせる。そして、逃げ遅れた人間の生命力を糧に、徐々に元の姿を取り戻していく。
人間に戻る。そのためなら、どんな嘘でもついて、どんな役でも演じてやろう。
「ねえ、僕と友達になってくれない?」
女の子に手を伸ばし、気が付くと僕は、自分でも呆れるほど綺麗に、笑えていたのだった。
藤原さんはこの世界から飛び出したい 渋谷楽 @teroru
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