Chap.12-3
カチ、カチ、カチ、カチ、と時計の秒針の立てる音がリビングに響いていた。ユウキと二人きりの夜だった。リリコさんは昨日から大阪へ出張に行ってしまい、タカさんは店子のバイトで不在。
テレビの電源も入れず、何とも気まずい沈黙に、僕もユウキもお互いの様子をチラチラうかがっていた。何でもいい。何か話をしたいけれど、第一声が出ない。
ユウキはソファでスマホをいじり、僕は見る気もない雑誌のページをだらだらとめくり続けている。床に投げ出されたままの無印のビーズクッション。毎日のようにそこを指定席にしていたチャビはいない。
頭の隅の方でサイレンの音が鳴り続けていた。救急車のサイレンが不協和音となって耳にこびりついていた。チャビが運ばれた夜から二週間経ったが、何度もあの夜のことを思い出してしまう。退院の目処はまだ立っていない。タカさんが病院の手続きや、その他の雑多なことをしてくれたおかげで、とりあえず入院を続ける事に支障はないようだ。お見舞いに行きたいと思う。だけど、家に帰ることを望んでいないというチャビにどんな顔をして会えばいいのか。
タカさんの動揺も大きい。気丈に振る舞ってはいるが、どうしたって今回のことはマサヤさんを思い出すに決まっていた。
「ねえ、一平くん」
ユウキに声をかけられて雑誌から顔を上げた。
「ん?」と喉が乾いて、ぎこちない声が出る。
「時計、止まっちゃってる」
ユウキの言う通り、さっきまでカチカチと正確な時を刻んでいたはずの壁かけ時計の針は十時三十三分を指した状態で止まっていた。ときおり秒針がピクン、ピクンと動いて、生物が息絶えようとしているみたいで嫌だった。
「電池、あったかな?」
と立ち上がった。タカさんが居ないと僕らは電池のありかも分からない。ユウキと二人でリビングの戸棚を探してみたが、結局見つからなかった。わざわざ買いに外に出るほど緊急でもない。
「明日の朝、タカさんが帰ったら聞こうか」
「そうだね」
どちらからともなく、自然と重いため息が出た。
「一平くん……検査の結果出た?」
ユウキは何の検査とは言わなかったが、HIVの検査に決まっていた。初めてのHIV検査だった。検査は都内の病院はもちろん、新宿区の保健所でも無料で実施をしていた。検査をする前に書いたアンケートでは『性的対象は男性ですか?』とか、『アナルセックスをしたことがありますか?』と聞かれ、顔を熱くしながら答えていった。
HIVの感染率は圧倒的に男性間の性的接触者が多い。続いて海外旅行者や移住経験者だが、単純に数字だけ比較すれば何倍も違う。生殖を伴わない快楽だけに興じた者への罰だとどこかのネットに書かれていてうんざりした。性的マイノリティーということだけでなく、病気による差別もこの世の中にはあるのだ。
検査は採血によるもので、結果は一週間後。妙に無愛想な先生にひとこと「陰性です」と告げられてホッと肩の力が抜けた。
「大丈夫だった。ユウキは?」
「うん、ぼくも大丈夫だった」
嬉しいことのはずなのに、ユウキの声には浮かないものが混じっていた。
「ぼく、すぐに結果がわかるやつをとりあえずやったんだ。ネットで検査キットを取り寄せられるの」
ネットで申し込むと検査キットを送ってきて、家で判定できるのだとユウキは言った。
「検査精度は少し落ちるみたいだけれど、通常の検査だと結果が分かるまで一週間かかるって聞いて、いてもたってもいられなかった。結局、両方やったんだけどね」
チャビがHIV陽性であることを告げられた日、ユウキの取り乱し方は尋常ではなかった。一時間以上は洗面所で嘔吐をしていたと思う。
「自分が陰性だってわかってホッとしたんだ。ホッとしたら、すっごいいっぱいチャビのことを考えた」
ユウキはしょぼくれた顔をした。
僕だって同じだった。検査結果を待つ一週間。ネットで検索をしてHIVが血液や性的行為を通して感染することを知った。タカさんの言う通り、日常生活を一緒にしただけでは感染するものではない。HIVウィルス検知不可、効果的な治療を受けている陽性者からの感染報告もない。だが、薬を飲んだり止めたりを繰り返してしまったチャビが効果的な治療になっていたとは言いがたい。いつかチャビがケガをして、足の膝に滲んだ傷口にバンソウコウを貼ってあげたことがあった。あのとき、チャビの血に触れなかっただろうかと不安になった。
「チャビってずっといけ好かないヤツだった。でも、本当はチャビのことが嫌いだったわけじゃないんだよ。上手くいえないけど。チャビってさ、ずっとフリーターで、人との関わりも極力避けてて。そのクセいつも他人の顔色ばっか見てて。茨城から出てきたばっかの頃のぼくみたいだった。昔の自分見てるみたいでイライラして。でも最近は変わりはじめてて、そもそもぼくとチャビは違う人だし、いったい何に腹を立ててたんだろって。ただ正直、今はチャビのことをどう思ったらいいのか、わからない」
「ユウキ……」
インターホンのチャイムが鳴った。
「誰だろうこんな夜中に……ぼく、出るよ」
誤魔化すように目元を拭い、ユウキが立ち上がった。
インターホンの受話器を手にして「あれ? おかしいなあ。誰も映ってない」とモニター前でユウキが首を傾げる。廊下の方から、ガン、ゴンと物音がした。
「え? 玄関だ」
このマンションはセキュリティがあるので、部外者は建物の中に入れない。外から訪ねて来た人は、通常、マンション一階のロビーから、インターホンに部屋番号を入力して呼び出す仕組みになっている。直接部屋の扉にもドアホンがついているが、マンションの住人が訪ねて来ることは少ない。今は夜も遅い時間だ。
ユウキの肩越しに僕もモニター画面を覗いた。やはりロビーを映し出す映像には誰も映っていない。
そのまま玄関へ行き、おそるおそるドアスコープを覗いた。誰もいない。郵便受けに白い封筒が入っていた。
「こんなの入ってた。なんだろ、これ?」
顔の横でひらひらさせながら、リビングに戻る。宛て先、差出人はおろか、切手も消印もないまっさらな封筒だった。封筒は厚みがなく、せいぜい紙切れ一枚ぐらいしか入ってなさそうだ。物音は扉の郵便受けを外から開け閉めした音だった。
「また戦場カメラマンの人が写真送ってきたんじゃない?」
ユウキが言う。
「源一朗さんが? まさかこんな時間に」
そもそも消印がないので郵便配達ではない。本人が投函とか、源一朗さんならそんなイタズラをしそうだが、今は日本にいないはずだ。源一郎さんの写真はいつも絵葉書で、封書で送られたことも一度も無い。
僕は封を切った。いずれにせよ中身を確認しないと、判断のしようもない。
「――っ!」
指先にヒリッとした痛みが走り
ユウキの顔が青ざめた。
「カミソリ?」
しばらく押さえていればすぐに血は止まるだろう。鋭利な紙の端で切ってしまったのかと思った。失血をしながら不器用に拾い上げた封筒。封の部分に巧妙にカミソリが仕込まれていた。
「なに、この嫌がらせ……」
ユウキが絶句する。ケガは大したことない。嫌がらせをされた事実の方が大きく、鈍器で殴られたような衝撃を感じた。
「宛名もないから、誰に対してなのかもわからない」
「ぼくには心当たりないよ。人知れず恨みをかってたらわからないけど」
ユウキが不安な表情を浮かべる。
知らない間に誰かを傷つけたりしただろうか。会社の後輩や、数少ない友人の顔を思い浮かべてみるが、こんな陰湿なことをするような者はいないと思う。
「でもここに送られて来たんだから、みんなのうちの誰かだよね、ターゲットは……」
タカさんやリリコさん、そしてチャビ。事故物件のことやチャビの入院が続いて、これ以上、みんなに不信感を持ちたくないのに。
ユウキがスマホを弄り出した。
「なんだよ、こんなときに」
「こういうことするヤツは顔見知りのはずだし。SNSでつながってる人とかさ。なんかヒントがあるかもしれないと思って」
「なるほど」
鋭利だった分、血はすぐに止まった。僕もスマホを取り出し、ソファーに座り直す。みんなに近い情報と言えば、確かにSNSを見るのが手っ取り早い。画面をスクロールさせ、タイムラインに何か目に付く情報はないかと調べていった。ちょうど時間的に、SNSへの投稿が増える時間帯だった。寝る前のちょっとした時間にスマホをいじる人が多いのだろう。
日常的なつぶやきが僕の手の内を流れていく。大阪へ出張中のリリコさんが『大阪なう、たこやきなう』と数時間前に投稿していた。
流れる画面に指をあて、スクロールを止めた。指先に残っていた血の跡が画面を汚す。
HIVという文字。
チャビのことがなかったら、その投稿を読み流していたかもしれない。SNSに蔓延する根も葉もない噂や陰口は、聞き慣れてしまった救急車のサイレンのように、僕らの感覚を麻痺させている。フォロワーの誰かが「コワイよね」というコメントと共にある投稿をリツイートしていた。リツイートとは他人の投稿を紹介するような機能だ。
スマホを持つ、僕の手が震えた。
『【要注意人物】コイツはHIV陽性でみんなにポジ種をバラまきまくってます』
その文章とともに晒されていた画像は、森のクマさんのように穏やかな笑顔をしたチャビの写真だった。
第12話 完
第13話「新宿ウォーカー」へ続く
虹を見にいこう 第12話「不協和音」 なか @nakaba995
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