Chap.12-2

 その日の午後、僕らはマンションのリビングにいた。チャビのことが脳裏をよぎって結局一睡も出来なかった。

 タカさんがユウキに経緯を説明すると、明らかに狼狽した顔をして、

「それ、冗談じゃないんだよね? マズイんじゃないの。ぼくたちも感染の危険があるんじゃないの?」

 と口を両手で押さえた。

 HIV陽性、俗称は……エイズだ。後天性免疫不全症候群の略称。身体の免疫力が著しく低下してしまう病いで、HIVはその症状をもたらすウィルスの名前なのだとタカさんは言った。

「マサヤの時のクセで家事をするときには、無意識にいろいろと気をつかっていたからリスクは低いだろうと思う。もともとHIVは空気感染もしない感染力の弱いウィルスだから、普通に日常生活を送っている分には誰かにうつる心配もほとんどないんだよ。ただ、みんな念のため検査には行った方がいいだろう」

 すがるようにタカさんの話を聞いていたユウキは、検査に行った方がいいと聞いた途端、リビングから飛び出した。すぐに洗面所から嘔吐おうとする音が聞こえた。心配をしたタカさんがタオルを片手に洗面所へ向かった。

「ふざけんなよ、チャビ!」

 タカさんの手を払いのける音、呪うように叫ぶユウキの声が聞こえた。洗面所の水が流れる音と、ユウキの嗚咽おえつが続く。

「タカさんの恋人の、その……マサヤさんも同じだったんですか」

 リリコさんが肯いた。

「タカと付き合う前にもう感染していたのよ。検査でわかったの。HIVが発病するまで数年かかることもあるみたいだから。無知で未熟な行いをした自分が悪かったって、ずいぶんマサヤは後悔していたわ」

 リリコさんが昔を思い出すような仕草をする。

「恋人がHIVに感染してたら、まずは浮気を疑うじゃない? それもただの浮気じゃないわよね。自分のパートナーにも感染させてしまうようなリスクを考えない危険なセックスをしたのかもって。感染リスクがどうこうってよりも信頼の問題よ。でも、タカはマサヤを信じた。自分と付き合う前に感染してしまっていたことはもうしょうがない。たまたま一緒に生きることを選んだ人が、HIV陽性だった。それだけのことだって。昔と違って今は死んでしまうような病気じゃないもの」

 タカさんがマサヤさんに執着する理由がわかったような気がした。覚悟をして共に生きることを決めた人だったのだから。

「でもマサヤさんは薬の副作用で……」

「あれは不幸な事故だった。薬の副作用なんて人によって出方もちがうし、誰にも防げなかったわ。誰のせいでもない」

 マサヤさんは薬を変えたことで、突発的な意識の混濁が生じるようになっていた。本人もそれと気付かず、たまたま椅子に乗って時計の電池を変えようとしている時に、意識を失ってしまった。

「僕らもチャビの様子に気づいてあげられなかったのでしょうか」

 洗面所でユウキの嗚咽が続いている。

 チャビはしばらく入院をすることになった。過剰服薬は大事に至らなかったが、血液中のHIVウィルスの数値が思わしくなかった。精神的にも非常に不安定で、何より……本人が帰宅を望まなかった。

 こうウィルス薬は複数の抗生物質を一度に投与するのが一般的らしい。それを俗称でカクテル療法と言うそうだ。抗生物質は副作用を持つものも多く、中には精神に作用するものもある。だが症状が現れるかどうかは個人差があって、服薬については医者と経過を見てよく検討しなければいけない。

 チャビのオーバードーズの原因は、処方された薬の一部に幻聴を促す副作用があったためだった。薬を飲むと幻聴が聞こえる。それが怖くなったチャビは勝手に薬を飲むことを止め、検査でHIVウィルスが増えたことを知る。また薬を飲む。幻聴が聞こえ恐ろしくなる。そんなことを繰り返した挙げ句、増加傾向にあったウィルスをひと息になくそうとしてオーバードーズをしたのだ。そんなことをしても効果がないのに。

 薬を飲んだり止めたりすることは、HIVの治療で最もやってはいけないことだとタカさんは言った。薬に耐性のあるウィルスが増加してしまう。決まった時間に決まった量の薬を飲み続けること。それがいかに難しいことなのか。幻聴の副作用だって、医者に相談していればよかった。そう思うのは僕らが当事者ではないからなのだろう。正常な判断ができないくらい、チャビは追い詰められていたんだ。そして追い詰めることになった原因の幾つかは、僕にあるのかもしれなかった。

『ボク、いっぺいくんやみんなに言わないといけないことがあって……』

 あの時、チャビは僕に何を伝えようとしたのだろうか。

 自分のことで精一杯で、チャビの声に耳を傾けられなかった。それだけではない。思えばチャビがリビングに居ると声が聞こえると言い始めたのは、もう二、三ヶ月前からだったし、チャビがちょいちょい体調を崩して風邪を長引かせていたのは、夏の前からだった。チャビの体調の変化には気づけたはずだった。後悔が波のように押し寄せて来る。家出なんてしている場合じゃなかった。僕はいったい何から逃げ回っていたのか。逃げ回っていたから、こんなことになってしまったのではないか。

「ようやく……タカさんの気持ちがわかったような気がします」

 タカさんはマサヤさんが亡くなった事に対して、今でも責任を感じている。薬を変えた時に、恋人の体調の変化に気づけなかったのは自分のせいだと。

「一平、変なこと考えるのよしなさい。何であたしたちがいちいちチャビの顔色をうかがって暮らさなきゃいけないの? そんなの不自然でしょ。苦しかったら自分で手を上げるの。困ったことがあったらもっと早く言いなさいよ。水臭いのよ、チャビは……いずれこの部屋を出て行ってしまうのかもしれないけれど、あたしたち、今は一緒に住んでいるんでしょ」


Chap.12-3へ続く

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