虹を見にいこう 第12話「不協和音」

なか

Chap.12-1

「え? ちょっと何を言ってるのか……落ち着いてください」

 電話口のリリコさんの声が、よく聞き取れない。

 こんなに取り乱したリリコさんは初めてだった。歩道橋の上、吹きさらしの風が耳元の雑音となってもどかしい。何が、いったい、どうしたというのか。

 ようやくリリコさんの言っている内容を理解したとき、キーンと高い音の耳鳴りが僕を襲った。スマホを落としかける。つかみ直した拍子に、途切れる通話。歩道橋の下を通過するトラックの振動で身体が目眩のように揺れた。


 歩道橋を駆け下り、東新宿方向へ深夜の明治通りを走り出していた。点滅する横断歩道を、北風に流されてきたコンビニのレジ袋ごと飛び越えた。あのガソリンスタンドの角を曲がればすぐにマンションの建物が見えてくる――。

 救急車の白い車体が目に飛び込んできた。パトライトが、マンションのエントランスを照らしている。その赤い回転が僕の胸をざわざわと逆なでした。この町にいて救急車やパトカーのサイレンを聞かない日はない。でも、まさかその音が自分の近くにやってくるとは誰も思っていないのだろう。さっき歩道橋の上で耳にしたサイレンは、この救急車のものだったのだ……。

 もう早朝に近い時間だが、通りすがりの人や近所の人が数名、救急車を取り囲んで不安な表情をしていた。乱れた息を一旦大きく吐き出して、高層マンションの建物を見上げた。ここからでは僕らの住む十階の部屋は見えない。気ばかり焦って足がもつれそうになる。

 エントランスロビーに駆け込むのと同時に、救急隊員に遭遇した。

「そこ、どいてください!」

 有無を言わさぬ隊員の声と突進して来るストレッチャーに、反射的に飛び退いていた。目に映る光景がスローモーションになる。また耳がキーンとなってストロボをたいたように細切れに視界が途絶えた。体格が良く目つきの鋭い救急隊員だった。まだ若い救命士もいる。プルオーバーのウィンドブレーカーと白い安全ヘルメットをかぶり、二人とも身を前傾にし、顔を並べてこちらへ突進して来る。彼らが押しているストレッチャーの上で、誰かが毛布に包まれていた。顔を確認しようとするが、ロビーの照明が眩しく照り返し、視界が白くはじけ飛ぶ。

 停止していた呼吸。両膝に手をつき、あがる息に肩を上下させた。ロビーを出て行くストレッチャーの車輪音がガラガラと耳に障った。

 遅れて誰かがこちらへ駆け寄って来た。

「一平! 早く来て……一緒に」

 リリコさんだった。顔が青ざめてはいるが、はっきりとした口調で、そのまま腕をとられた。エントランスを飛び出す。一緒に救急車に乗り込んだ。タイヤが縁石を乗り越える沈むような感覚に次いで、サイレンを鳴らし、救急車は走り出した。


 深夜の東京を走り抜けて行く救急車。気付くと、僕はリリコさんの手をぎゅっと握り締めていた。何かにしがみつきたかったのかもしれない。家出をしていたことも、リリコさんへの気まずさも忘れていた。リリコさんの手は冷たく血の気が引いていた。

 運び込まれたストレッチャーがそのまま処置台となり、毛布にくるまる丸っとした輪郭がわかった。息をしていないのか、いつもの愛嬌のある顔が石膏の作り物に見える。仰向けに寝かされたチャビは、まるで死人のようだった。

 救急隊員はときおりチャビの瞳孔どうこうにペンライトの光を当てたり、脈を確認するだけで、特に何かをするわけではなかった。無言のままの僕らを乗せた救急車は、深夜の街にサイレンを響かせ続ける。このままどこか見知らぬ場所へ連れ去られるのではないかと不安な気持ちになった。


 ◇


「……あたしが帰ってきたら、部屋の中が真っ暗だった」

 リリコさんがぽつりと言う。明け方の病院の廊下で、僕らは長椅子に座り、気が抜けたようにうなだれていた。

「誰もいないのかしら? て、電気をつけようと思ったら、リビングのテレビがついていたの。暗い部屋の中にテレビの光と、深夜番組の笑い声だけが聞こえて、ぼんやりとチャビが床で横になっているのが見えた。寝てるのかと思って身体を揺さぶったのよ。こんなところで寝てたら風邪ひくわよって。そしたらびっくりするぐらい体が冷たくて。これは尋常じゃないって」

 救急車を呼んだ直後、タカさんにも電話をかけたが、バイト中でつながらなかった。取り乱したリリコさんは、僕に電話をかけてきたのだった。その後、タカさんにも改めて連絡がつき、店子のバイトを切り上げて駆けつけてくれた。今は医者に呼ばれて、タカさんがチャビの容体を確認してくれていた。

 オーバードーズ、過量服薬。薬物を過剰に摂取してしまうことだ。用量を誤ると危険な薬だった場合、意識混濁こんだくや最悪死亡に至るケースもある。

 リリコさんの話を聞きながらスマホでその意味を調べていた。画面に出てくる情報は、どれも僕の考えを暗くするものばかりで、嫌気がさしてスマホをポケットにしまった。

「チャビ、いったい何の薬を飲み過ぎたんでしょうか?」

「知らないわ。あたしだって、救急車の人がそう言ったのを聞いただけだもの」

 隣りに座るリリコさんは寄りかかる壁に頭のてっぺんをつけるようにして、薄暗い天井を見上げたていた。その顔は疲れ切っていた。リリコさんの白い首筋。早朝の病院はまだ診療時間外で、僕らと同じように救急外来の人がちらほらといるだけ。照明も半分以上落とされ静まり返っていた。

「でも、飲む量を間違えた感じじゃなかったし、分量から一時的に処方された薬じゃない。何の薬を服薬してたのかはわからないけれど、自分でわざと何日分も一気に飲んだんだと思うわ」

 リビングの床に大量に転がっていたという錠剤。治療の参考になるかもしれないと、救急隊員の指示に従ってリリコさんは両手でかき集めた。何の薬かもわからないまま。

「チャビ……薬を飲まなきゃいけない病気だったなんて知らなかったです」

「あたしたち、チャビのこと何にも知らないわね」

 森のクマさんのように穏やかなチャビの笑顔が思い浮かんだ。夏に上野動物園へ二人で行ったときに話してくれたこと。動物やゲームが大好きで、マイペースなチャビ。でも本当は傷つきやすく繊細な少年だった。僕のことをちょっとは慕ってくれていたと思う。それでもチャビの全てを知っているわけではなかった。

 明るくなり始めた病院の窓から東京の曇り空が覗く。チャビと一緒に動物園で見たペンギンも空を見上げていた。ペンギンは鳥なのに、飛べないところがいいとチャビは言った。

「タカとルームシェアをはじめて、しばらくしてからタカが連れて来たのがチャビだったのよね」

 ふいにリリコさんがつぶやく。

「そう考えるともう三、四年の付き合いになるのかしら、あの子とは。初めは、また変わった子を連れて来たって、やんなっちゃったわよ。こんなコミュ障でルームシェアなんてできっこないじゃないって。でも、予想に反してあの子は出ていく気配がなかったわね。他に行くところがないだけかもしれないけれど」

「タカさん、どこでチャビと出会ったんでしょうか」

「遠い親戚みたいよ、タカの。でも一度も会ったことはなかったみたい。家出同然で東京に飛び出してきたんでしょ。見たこともない遠い親戚に、ダメもとで頼って来たんでしょうね」

 チャビはお母さんを亡くして、父親もなく、叔母さんに育てられたと言っていた。随分、邪険にされていたようだから、ダメ元の遠い親戚がタカさんで本当に良かったと思う。

「あの子……つい最近まで身体を売ってたのよね?」

「さあ」

 思わずトボけた声を出してしまった。リリコさんが首を振る。

「薄々勘づいてた。いいとか悪いの話じゃなくてね。あの子、自分をすり減らしてるみたいだった。きっとそういうのが性に合ってなかったのよ。辞めたようだったからホッとしてた。前より外に積極的に出かけるようになったし。それって、一平、あんたのおかげなんでしょ?」

 リリコさんは横目でチラリと僕を見た。

「いや、僕は何もしてません。チャビが自分で決めて、自然とそうなったんです」

「あんたってつくづくオカシナ奴ね。コトナカレ主義もここまで貫かれると尊敬しちゃうわ」

 リリコさんが肩をすくめる。

 リリコさんと肩を並べて、以前と同じように話をしている。不思議な気持ちだった。タカさんのことで気まずい思いをして、勝手に避けていたのは僕の方で。リリコさんはどんな時だって、リリコさんのままだった。

 僕らが座る長椅子のわき、処置室の扉が開く。タカさんが出て来た。

 三十分ほど前、

「意識が戻りました。ご家族の方ですか?」

 と看護師さんに問われて、曖昧な態度になってしまった僕らとは裏腹に「はい」と力強くタカさんは答えた。タカさんが居なかったら、今頃僕らは医者から何も教えてもらえず、途方に暮れていた。本当に親戚なのだから嘘もついていない。ただ、そういうつもりでタカさんは家族だと言ったのではないのだろう。きっと他の誰かが同じことになっても、タカさんは同じように答える。嘘をついているつもりは微塵みじんもなく、一緒に住んでいるのだから当たり前なのだと。

 病室から出て来たタカさんの顔は真っ青だった。

「チャビ、よくないの?」

 心配したリリコさんが声をかける。

 タカさんはゆっくりと長椅子に腰を下ろした。

「いや、命に別状はない。幸い発見が早かったから胃の洗浄をして、飲み過ぎた薬はだいたい出せたみたいだよ。致命的な薬がなかったのも良かったのだろう」

 その声が少し震えていた。

「タカ、あんたが大丈夫に見えないんだけど」

「チャビが飲んでいた薬……カクテルだった」

「え?」

 意味のわからない僕と引き替えに、リリコさんは表情を険しくした。

「何ですかそれ?」

「マサヤが飲んでいたものと同じ類いのものだ。何種類か見たことがあるものも混ざっていた。カクテルは複数の強い薬の効果や副作用を抑えるように合わせて飲む服薬の方法……チャビはおそらく、HIV陽性だ」


Chap.12-2へ続く

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る