3 落し物と乙女
私は結局、乙女の純粋で情熱を孕んだ瞳に半ば強制的にうなずかされ、ついに連絡先までもらってしまった。私は彼女の目の前ではタコのように腑抜けになり、イエスしか答えが出せなくなることに微かなる畏怖を感じていた。何故そうなってしまうのだ、あの生まれてから一度も染めていないであろう黒髪の艶やかさのせいか、まっすぐで情熱的なあの目玉のせいか、微笑むたびに現れる、カウンター席のように一列に並ぶまっさらな歯と、それに乗じて現れるえくぼのせいか。それともあの絹のような肌か、すらりと伸びた決して細すぎない腕や足のせいか。あの無添加素材でできているような声のせいか。今考えてみればあれは俗に言う恋煩いであったが、当時の私にいくらそのことを伝えたとしても、信じることなどなかっただろう。あの時の私はこれらの初めての感情に翻弄され、その感情を恐怖というジャンルの中に乱暴に放り込んだのである。
野放しにしてしまっていた意識を捕まえ、体の中へと帰還させると、目の前には男が座っていた。ここはカフェモーニングだったことを思い出し、目の前にあるウインナーコーヒーを飲んだ。ぬるくなってもここのコーヒーは格別である。
「いやー、久しぶりだな。」
さっきまでにやにやとメニューを穴が開くほど見つめていた男が、まるで言葉を思い出したかのように話し出した。この男、名前を
「そうだな、吉野家で飯食って以来だね。」
「そうそう!なんかあそこの小さい女店員やたら怯えてたよな」
京助は豪快にげはげはと笑う。
「お前の目つきが悪いからだろう。」
相変わらず愉快な奴だ。そうこうしていると京助の注文したパフェが運ばれてきた。この男、こう見えて生粋の甘党である。パフェをがつがつと口にほおばる姿は、ゴジラに勝るとも劣らない迫力だ。こいつといるとこっちまで明るくなってくるのである。私はウインナーコーヒーをすすりながら、雲の流れを見ていた。
「なんだか、レジのほうが騒がしいな。」
京助の言葉につられて、レジのほうを見た何やら女性が立ち往生している。私はその女性に見覚えがあったが特に気にせず、前を向いてコーヒーをすすった。しかし、私は次の瞬間、盛大に吹き出してしまう。霧のコーヒーを浴びた京助は驚いた様子で私を見た。
「きたねえなー。どうした、むせたか。」
「いや、ちょっとね、トイレ行ってくるから机ふいといてくれる?」
「気分悪いんなら言えよ、介抱してやっから。」
私は作り笑いを浮かべながらその場を後にした。
レジでは、例の高架下の乙女がなにやらあわてふためいている。私を見ると人差し指の先を私の方に向け、目を大きく見開き驚いていた。
「どうしてここにいるんですか?」
と彼女は言う。
「ここは僕の行きつけだよ、それよりどうしたの、こんなところで。」
彼女は何やらもじもじすると、恥ずかしそうに答えた。
「実は、財布を落としてしまいまして、カバンの中を探したり、ポケットを探ってたらいつの間にか列ができてたんです。」
私は彼女が天然であることに(それも相当の)初めて気づくと同時に、呆れてため息をついた。
「いくら?」
そういうと彼女は顔をあげ「いやいや、それは悪いです。」と言った。しかし、彼女にはもはや選択の猶予はなく、今までの中で一番弱弱しい光を、目に宿していた。結果的に甘んじて受け入れることになった。
とはいえ、奇人ではあるが、美人なことは間違いないこの乙女。男として悪くはない気分である。問題はむしろこの後、ペコリと下げた頭をあげると同時に、ごつごつとした手が肩に乗ったことの方がよほど危機である。京助のニヤニヤがメニューもないのに浮かんでいたのは言うまでもないだろう。前述した通り、私が絵を描いているのを知っているのは、私と乙女と私の後ろを通る通行人くらいなのだ。私は私の裸体をさらすよりもはるかに私の内情を記している絵を見られるのが恥ずかしいのだ!
「おいおい、友人放ってナンパか?」
冗談ぽく京助が言う。私はたじろぎながら(京助がいつの間にか会計を済ませていた)、店の扉を3人でくぐる。
「いや、知り合いなんだ。」
「ほう、お前にこんな美人の知り合いがいたなんてな。」
「まぁね〜、ははは…」
「知り合いというか。依頼主です。私、哲人さんに絵を描いて貰いたくて。」
私がどうにかやり過ごそうと足掻いていると、なんとも空気の読めない言葉が弓のように発射され、私の冷や汗を滝汗に、歪み始めた視界を、ぐにゃぐにゃにされた。吸血鬼に血を吸われるような思いだった。
「お前、絵なんて描いてたか?」
「い、いや、ちょっとね。はは、本当に趣味で描いてるような、落書きみたいなやつだけどね…へへ」
私はもはや身を守る盾も、鎧も、ガードのために使う腕ですら剥奪され、ボクサーと闘っているような気分である。
「とんでもない!とてもお上手なんですよ。懐古を懐かしむような淡いタッチ、しかし、ただ淡いだけでわなく、力強さと激しさを兼ね揃えていて、キャンバスの向こう側を想像させるような迫力があるんです。きっともっと写実的に書こうと思えば、本物そっくりに描けるはずなのに、あえて淡く表現するところが、なんと言いますか…。能ある鷹は爪を隠すと言いますが、その爪を隠した姿さえも、いえ、むしろその姿が大変美しいのです。」
彼女はまた、いつかの時のように台詞のように長々とそう言い、うんうんと1人で納得するように頷いた。彼女のアッパーをもろに食らった私は、ほとんどミイラになったような面持ちで、後は野となれ山となれと半ば諦めていた。
すると、そんな私の思いを知ってか知らずか、私の絵の評価にさして触れることなく、京助は「あ、用事思い出したから帰るわ。」と見え透いた嘘を言い、何故か私に向かってウインクをした。私はそんな彼の態度に、今までの話を全て右耳から左耳に抜けさせたのではないかとさえ思った。
時刻は15時を過ぎていた。太陽はまだその力を誇示していた。じめじめとした陽気に私はほとほとまいってしまった。茹だるような暑さだ。私は家に帰ろうと思い、彼女にその旨を伝えようとしたとき、パンっと手をたたき、私がひるんだ一瞬の隙をつくように「私の家に来ませんか?お礼もしたいですし。」と誘われた。私は狼狽した。卓球の試合で、渾身の力を振り絞って繰り出したスマッシュを、打ち返された気分だった。
私には断るすべがなかったし、理由もなかった。私はいつも通り、阿呆のように頷いたのである。
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