8 さよなら、乙女

私は京助に抱えられていた。

「はぁ、はぁ、わりぃ、こっからは自分の足で行けるか?」

京助は息があがっているのと、何より私を抱えることが負担になっていた。私は京助の背中から滑り降りると「ありがとう」と、お礼を言った。

私は京助を置いて走り出した。幸い、はなまる公園まではあと数メートル。走れない距離じゃない。

私は走りながら、この根拠の無い自信はどこから来るのだろうかとふと思ったが、彼女が僕を呼んでいるのだろうと言うことにした。都合がいい、本当に都合がいい。

真っ赤な夕焼けが、はなまる公園のすぐ側の民家や学校を染めて、暖かく強く、優しく輝いていた。カラスの声がどこからか聞こえ、私の焦燥を加速させていった。薄暗くなった道路には人影はなく、子供のはしゃぐ声もしなかった。

はなまる公園に着いた頃には、私の体は汗でびしょびしょだった。頭からバケツを被ったかのように。シャツも髪も靴の中も蒸れて、ベタついた。

私はほとんど倒れ込むように前屈みに歩き、あのブランコの前に来た。空は薄明としていて、星がチラついていた。

私は顔をあげることが出来なかった。ふいごのような呼吸のせいばかりではなく、このブランコの上に乙女がいるのかも分からないのに、どんな顔をすればいいのか分からなかったのだ。臆病者、そう心の中で自分を罵って、土を掴んだ。


「思い出したんですか?私の事。」


すぐ側で声がした。私は頭を上げた。目の前には高架下にいたあの乙女。私の幼なじみであったあの乙女である。

小学生の時よりも顔も体つきも変わってはいるが、紛うことなきあの乙女である。私には分かるのだ。

「君は僕をあの川から助けてくれたんだ。あの時はありがとう。」

彼女は少し驚いた顔をした。大きく開かれた瞳が何者にも例えがたい美しさだった。

「そして、すまなかった。僕は君にあんなことを…」

私は疲労感など忘れてただ、胸の内が彼女に対する感情で埋め尽くされていた。

「そうか、全部思い出したんだ。」

「うん、全部思い出した。」

私は何をいえばいいか分からず、彼女の言葉を復唱した。

「私ね。嬉しかったの。」

彼女は立ち上がり、空を見て言った。彼女の声は聡明で、決して大きくはないのに、鋭い光線のように雲を突き抜けてどこまでも上にいくような気がした。

「私ね、昔から忘れられやすい体質でさ。1年も経ったらみんな私の顔も名前も全部忘れて、初対面の人になっちゃうんだ。昔から、ずっとそうだったの。だからさ、私嬉しかったの、哲人くんが1年も前にあった私の事を覚えていてくれて。そうじゃなくても、子供の記憶なんて短いものなのにね。」

少し風が吹いて、彼女の髪がなびいた。

彼女の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。

「私ね、もうすぐ帰らなくちゃならなくてさ。」

彼女はそっと俯いた。

「どこに?」

「あそこに。」

彼女はまっすぐに空を指した。

「実はね、私ね、ここにいてはいけないんだ。」

私には彼女が何を言っているのか分からなかった。

「私が子供の時、君を助けた川で溺れ死んじゃったんだ。」

私はただ呆然と跪いている。

「でね、幽霊になったの。その川から離れられなくて、浮遊してたら君が私の時みたいに溺れてて、それで、助けないとって思ったんだ。」

これが真実なのか虚言なのかは分からないが、その時の私には到底この話を疑おうとは思えなかった。

彼女の顔を照らす微かな光がその言葉の真実味を…この到底フィクションとしてしか捉えられない彼女の話の現実味をより一層帯びさしていたのである。

「そしたらさ。届いたの、君の手に。なんで帰ってこれたのかは分からない。だから、なんでまたあの世に帰らなきゃならないのか分からない。けど、多分正しいと思う。ほら、見て。」

彼女の体は微かに発光していて、少し透けていた。

「私やっぱり、行っちゃうんだ。でもね、これでいい、これが正しいのよ。哲人くん、あなたにもう一度会えたんだから。私ねずっと探してたんだよ、哲人くんにまた会いたくて、また絵を描いて欲しくて、でも見つからなくて、どんどん私のことを覚えてる人が消えていって、怖くて寂しくて、それを紛らわすために踊って、そしたら君に会えて、でも君は私のこと忘れてて、辛かったけど、もしもあの日のことを覚えてたら君は私を無視して置いていったかもしれない。そんなことも考えたよ。でも最後には全部思い出したのに、依頼人の私じゃなくて幼なじみの私に会いに来てくれた。それだけで、私幸せよ。」

彼女は大粒の涙をこぼしている。その涙は頬をつたい、顎に集まって白いワンピースに薄く黒いシミを作っていた。そして、作り続けた。やがて、それは濁流となり、彼女の口はきゅっと結ばれ、苦悶の表情をあらわにする。それが、初めて見た彼女の泣き顔だった。

彼女は涙でぐしゃぐしゃになりながら何とか泣きやもうと大きな雫を何度も拭ったが、嗚咽は抑えられない。

「え…」

私は彼女を抱きしめた。かける言葉はなかった。声をかけることなど出来なかった。今、何を言おうと気休めや無責任な言葉にしかならないと思った。

私は強く抱き締めた、彼女の細い体はより一層無色に近づいていた。

彼女は抑えていた瞳から手を離すと私の体を抱きしめた。そして、声を上げて泣いた。私も泣いていたように思う。

「私、ここに居たい!やっぱり、居たいよ。」

「うん」

「哲人くんともっとお話したいし、色んなところに行きたいよ。」

「うん」

「また生まれ変わったらさ、付き合ってくれる?」

「うん」

「本当に?」

「本当だよ。」

彼女の泣き声はやがてすすり泣きになり、やがてやんだ。

「ありがとう」

「俺も、ありがとう。いままで迷惑かけたね。」

彼女は首を横に振った後、精一杯笑った。その笑顔は、切なくて綺麗で、夕方と夜の境目の空のようだった。

「本当君に会えて良かった。」

「俺も君に会えて良かった。」

「さっき思い出したくせに」

彼女はいたずらっぽく笑う。私は少し困ってしまった。

「そんな顔しないでよ。」

「あ、ごめん。」

私は彼女を見るのが怖かった。どれくらい透けているのかを確認するのが嫌だった。太陽はもうほとんど沈みかけである。

「ほら、もう行かなくちゃ。最後にさ…、私のこと覚えててくれる?」

私は強く何度も頷いた。彼女はやはりかなり薄くなっていて、ムーンストーンのようであった。もはや彼女を、目を凝らせば微かに見える肌や洋服の色と、鼻や胸などの凹凸でしか確認することが出来なかった。

「忘れないよ。ずっと。」

「ほんとに?」

彼女はまた私をからかうような顔をするが、私は歴然とした態度のままで、彼女の目を見た。

「忘れない。」

彼女はちょっと安心したように、表情を緩めて空を見上げた。

「そっか、じゃあ安心だ。みんなが私を忘れても、哲人くんは覚えててくれる。だから、私は死なないんだよ。」

彼女はまた、笑う。私も微笑み返す。私はあなたを忘れない。私は彼女を忘れることは無い。何度でも思い出せる。何度でも。

「星が綺麗だよ。」

私は空を見上げる、満天の空には雲ひとつない、ただ彼女の声だけがいく重にもこだましているかのように、夜空に反響する。流れ星が流れた、ほんのひと刹那の間に何人の願い事を乗せて流れたのだろう。

「バイバイ、大好きだよ。」

小さなその声は私の耳元で聞こえた。辺りを見渡すと、もう彼女の姿はなくただ蝉の声だけが、思い出したかのように鼓膜を震わせた。私はまた泣いていた、袖で涙を拭う。



「俺もだよ。陽葵ひまり。」


「名前で呼ばれたの久しぶりだな。」

そんな照れたような声がどこからか聞こえた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る