7 思い出の乙女

母の友人の家に訪ねていた時のこと、私はまだ六歳くらいだった。自由奔放だった私は、トム・クルーズになったつもりで、玄関をそろりと抜け出した。電車で一時間も揺られ続けた少年の冒険心は、手が付けられないほどに膨らんでいた。

大きな電信柱、車の往来が激しい大通り、背の高いビルや賑やかな繁華街。当時の私の目には、異世界にさえ見えた。私は、土手まで歩いてくると、その坂を駆け下りた。気分が高揚し、精神的に昂っていた私はそのまま河川に駆け込んだ。暑い日が続いていたが川の水は幾分かひんやりと涼しかった。しかし、向こう岸に渡ろうとしたとき、唐突に川は深くなった。私の身長では僅かに底にとどかなかった。私は激しく動揺し、必死にあがいた。しかし、そうすればそうするほど、水は私を支配していくのだ。ちょうどその時、溺れる者は藁をもつかむとはこのことで、私が必死に伸ばした手に、熱を帯びた細い何かが当たり、咄嗟に私はそれをつかんだ。私はそれの力に引き上げられ、肩を貸され、木陰に横になった。大いに狼狽した私を落ち着かせるように、少女は次のようなことを言った。

「これ何本に見える?」

「…、四本。」

「これは?」

「二本。」

「これは、何本に見える?」

「三本。」

「うん、大丈夫だね。」

少女は確かにそういって笑い、河川の恐ろしさについて淡々と説いた。女の子の成長は男よりも早いとはいうが、これほどまでかとのちに私は思った。

「ところで君はどこの子?ここら辺に住んでるの?」

「ううん、電車できた。一時間くらいかけて。」

「へぇー、遠いね!」

少女は大袈裟に驚いて見せた。

「あ、おつかい忘れてた。ばいばい、またね!あ、そうだ!君の名前は?」

「前田哲人、君は?」

「私はね…、」

これが高架下の乙女とのファーストコンタクトである。


次に会ったのは、それから間もなく。子供心ながらに命を救われたという、初めての感覚は心の底に刻まれていて、学年が一つ上がっても昨日のことのように思い出せた。だから教卓の前に立った少女が、河川にいた少女であることはすぐに分かった。

彼女はわけあって私の学校の近所に越してきたのだ。そして、転校生としていま教卓の前に立っているのだ。彼女の席は私の隣だった。

「やぁ、哲人くん。また会ったね。」

「久しぶり。」

私のボキャブラリーの中には、それくらいしか、久しい知人にかける言葉がなかった。

「覚えてる?私の事。」

「うん、川であったよね。ずっと前に。」

「へぇー、覚えてたんだ。」


それから、私たちの仲はとても良くなった。それはもう、双子のように。

私たちは、よく二人で遊んだし、大勢で遊ぶ時もおおよそ二人でいることが多かった。年頃の男子にありがちな、安い冷やかしの時の、照れくささからくる軽い暴言も、彼女は笑って許してくれた。

その関係は中学生になっても続いた。いつまでも、続くものだと思っていた。

思春期を迎えた私は、その言葉の特別感に浸り、少し荒れていた。両親の不仲も原因の一つではあった。彼女との心のすれ違いも増え、いつしか彼女との会話を楽しめなくなっている自分がいた。常日頃から、何か些細なことでイライラしていて、精神的な余裕がまるでなかった。私は家にいる間、ほとんどの時間をマスターベーションに費やした。その時だけは、全てを忘れられたのである。ネット上にその類の動画や画像は山ほどあった。そうして私は、自分から孤独になっていった。腐ってしまっていたのだ、つまらないプライドが私を貶めたのだ。

それでも、彼女は私の味方であり続けた。私とは違い大勢の友達に囲まれていたが、それでも私を気にかけたのだ。しかし、大阿呆な思春期気取り野郎は、それが目障りで仕方なかった。当てつけかとさえ思った。耳元を飛び交う蚊よりも鬱陶しい存在だった。そしてある日、事件は起きた。

その日はいつも通り、学校の帰り道を二人で帰っていた。彼女は何か喋っていたが、私は気にも留めてなかった。どことなく気の滅入るような、淀んだ空気があたりを支配していて、むせ返るようだった。人通りの少ないトンネルにさしかかた時、彼女の話し声が、キャッと言う悲鳴とともに途切れた。私は彼女をトンネルの壁に追いやり、逃げられないように両腕で柵を作った。私はその時、キチガイも同然であった。

「なぁ、鬱陶しいんだよ。いつもいつも、俺のところにいぬみたいに駆け寄ってきて。人の気も知らないで。」

私の声は狭いトンネルに反響していた。

「それとも何?犯されたいの?俺の犬になりたいのかよ!」

狂った犬のように叫んだのはむしろ私だった。声は幾重にも重なって聞こえるようだった。もしも通行人が一人でもいれば、確実に通報されていただろう。しかし、やはり人通りは少なく、ここにいるのは二人だけだった。

「…ッッ」

大きな破裂音がした。私の頬は彼女のあの、私を救った手によってはたかれたのである。当然だと思った、これで私は孤独になれると思った。頬はじんじんと熱く、手加減はされていないことが分かった。私にもう意識などなかった、蝋人形のように固まってしまっていた。もしあの時彼女が、すぐにそこを立ち去ったのなら、私は15分はそうしていただろうが、彼女はそうしなかった。はたかれた直後、私の体は彼女の細い腕に包まれた。あんなことを言った男の体をひしと、抱きしめたのである。

「もう!女の子にそんなこと言ったらだめでしょ哲人くん。私はね、本当は優しくて、絵がうまくて、努力家で真面目な哲人くんが、出会ったときからいままでずーーーと好きだったんだよ。今は、思い通りにいかなくて苛立っているかもしれないけど、大丈夫だよ。きっと、大丈夫。」

私は当惑していた。狂犬は単なる迷える子犬だったのである。トンネルには、ただ2人の影と僅かに差し込む光だけが、残されていた。首筋へと流れる汗がヒヤリと冷たかった。

私は我に返ると、彼女の腕を振り払った。自分が後ろめたくなって、苦しくなって、悲しくなって、苛立って、そして、少し嬉しくて、私の中で喜怒哀楽が無茶苦茶に暴れ回ったのである。さながら、ただをこねる子供のように、四肢を上下左右させ猛ったのである。そのままの勢いで、私は走り出したのだ。振り返りもせずに、彼女の気持ちも行動も無下にせんとばかりに、ただがむしゃらに走って逃げたのだ。どこまでも、どこまでも。

それから3日程、私は学校に行かなかった。もう何も気力が起きなかった。だらりと自室に項垂れ、木目の目立つ天井を見つめるばかりだった。何も考えられなかったし、何かを考えようとすればトンネルでの1件が頭をよぎった。彼女が何度か訪ねてきたらしいが、私は一切の面会を拒んだ。

そのまま私は、引っ越すことになった。両親が別居することになったのだ。

「あんた、あの子にさよならの一言も言わないでいいのかい?」

母はそう言った。

「うん」

私はやはり子供だった。馬鹿だった。

「ちょっと喧嘩したくらいで…」

母はそう言いかけ、自分にも心当たりがあったのか途中で濁した。彼女は私の家の前に立っていた。ただ、何も言わずに、スカートをぎゅっと握っていた。

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