6 忘却されし乙女

朝起きると、何かとてつもなく大切な記憶を、失った気がして、いわれもない焦燥にかられた。しかし、思い出せない以上は仕方がないと腹をくくり、のそのそと起き上がると、布団もたたまぬままぼそぼそと朝食を食べた。ここ最近の活力がまるで嘘だったみたいだ。何かが欠如しているがそれが何かは不明である。はっきり言って気分が悪い、憤りさえ感じる。朝食を残し、キッチンを出た。私は絵を描く気にもなれず、所在なさげにうろうろと街をさまよっていた。やはり何かが欠落している。

商店街に入ると、わにのように目つきの悪い大男が歩いてきた。

ちょうど、十二時を過ぎていたため、私は京助と一緒に店に入ることにした。定食屋はなまる…はて、どうしたことだろうか、私はこの看板に妙にひかれた。はなまる…はなまる…。

「おい、哲人、どうしたー。はやくいくぞ。」

店の前で立ち止まっていた私に、京助は声をかける。

「お、おう…。」

私はやはり引っかかりを感じていた、何かが足りない。何か大切な約束を忘れている気がする。喉に小骨があるみたいで気持ち悪かった。

席に着くと、京助はいつもの調子でメニューを眺め、にやにやと笑っている。

店員の持ってきた水を飲むと、せき込んでしまうが、間一髪のところで吹きださなか

った。

「あぶねー、この前みたいなシャワーはごめんだぜ。」

「いやあれは…」

あれは、誰のせいで吹き出したんだ。偶発的なものじゃなかったはずだ、何かに驚いて…なににだ?いったい何に。

「おい大丈夫か、顔色悪いぞ。今日は早めに切り上げて帰ろうぜ。」

「ありがとう、でも大丈夫だよ。それより、この前のカフェの名前って何だっけ?」

「は?お前の行きつけのカフェモーニングだろ?お前もう帰った方がいいぞ、だんだん顔色が悪くなってる。」

私は、ご飯を食べると京助に、半ば強制的に退室させられた。私はふらふらと家に戻った。机の上の時計を見ると2時を過ぎていた。そういえば、私は何か絵をかいていたのを思い出した。ガサゴソと壁際に置いてあった絵を見た。だれをモデルにしたのか少し色褪せた乙女の絵であった。これは誰だろう、思い出せない。けれど今日一連の違和感と関連がある気がする。敷きっぱなしの布団に横になって考え込んでいると、うつらうつらと眠ってしまった。


幼少の私は、高架下の緩やかな川で溺れているところを、同じくらいの幼女に助けてもらっていた。私が礼をいうと、幼女はにこりと笑い、くるくると踊っていた。

景色が暗転し私は、その川の絵をかいていた。高架下にはあの日のように幼女がくるくると、踊っていた。微笑みながら。


私は重大な事実に気づき、飛び起きた。高架下の乙女との約束をそして、あの乙女の正体を。私は、一から十まで分かってしまったのだ。私はもう居て立ってもいられなくなり大急ぎで、絵を抱えて鍵も閉めずに、家を飛び出した。時刻は、定かではないが、おそらく4時半頃、実に3時間半の遅刻である。

「くそ、なんで今の今まで気づかなかったんだ。なんで、おぼえていられなかったんだ!」

悔しかった、涙が出た。自分を責めた。私は命よりも大切な約束を、すっぽかしたのである。忘れていた、そんな理由にならない理由で。彼女と共に生きていたあの日々まで、一切合切忘れていたのだ。

「おい!家で安静にしとけって言っただろう。なにしてんだよ。」

気が付くと、京助が並走していた。私は息も絶え絶えに、要点だけを説明した。心臓が裂けそうだった。日頃の堕落した生活を呪った。視界が微かにぼやけ、肺がただれるようだった。

「僕、忘れてて、約束、それで、すぐに会わないと、もう会えない気がするから、この絵を届けに、行かなきゃ。」

足がもつれ始め、もうだめかと思ったとき、地面から足が離れた。大気圏を突破したように感じた。

「よくわかんねえけど、とりあえずそこに行けばいいんだな。道案内くらいはできるだろ?」

「あ、が、とう。」

良い友達を持ったと思ったが、今はそれどころじゃない。京助のナビになることに徹した。


彼女の家に着き、チャイムを押した。しかし、いくら経っても彼女の顔は出てこない。ドアノブに手をかけると、鍵は開いていた。

「おい、勝手に入っていいのかよ。」

京助の制止も振り払い、部屋の中へと足を踏み入れた。相変わらず、モデルハウスのように簡素な家だった。しかし、机の上に紙切れが一つ落ちていた、それはこの前見た子供の描いた絵だった。

「これって…。」

その絵は、彼女のために描いた私の絵と同じ場所の、ほとんど同じ構図で描かれた絵だった。間違いなく、私が彼女のために描いた絵で、初めて人のために描いた絵だった。

「やっぱり、知ってたんだ。知らなかったのは僕だけだったんだ。」

自分で自分に腹が立った。なぜ今の今まで、気付かなかったのだろう、学校に教科書を持っていくのを忘れる学生よりも、はるかに恐ろしい愚行である。悲しさ、無念さ、怒り、様々な感情が私の肩を震わせ、ついにその振動が全身に回ったかのごとく、彼女の家を飛び出した。よく笑う、愛想のよい美しい少女を、私は今度こそ、あの日彼女に出会った幼い私と違わない気持ちで、彼女に会いに行くのだ。

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