2 依頼主の乙女

昨日の夜、私が良く眠れなかったのは想像に難くない。あの乙女が何者で、なぜ私に話しかけ、さらに次に会う約束までしたのか...。私には分からなかった。相手に直接聞けばわかることだと何度も言い聞かせたが、頭でわかっても鼓動は何度も体をノックし、その度に私は熱くなり、私の体は沸騰してもおかしくないほどに火照っていた。私の興奮は不安と焦燥とあの乙女の美貌により掻き立てられ、発狂寸前だったが、どうにか睡魔に救われた。浅い睡眠の中で、高架下で踊っていた彼女が見えた。昼間に見た時と同じように、鳥ように自由に、のびのびと飛び続けるように踊り続けていた。私はそれを高架下に流れる水の中から見つめていた。ただ呆然と見上げていた。


そして今日の朝、こんな夢を見たあとだ、私は懐かしい焦燥をおぼえ急いで掛け布団をめくり、ノアの大洪水が起きていないか確かめたが、そんな心配は杞憂であった。さすがに大学1年生の男がおねしょで世界地図を描いては、恥ずかしさのあまり部屋から1歩も出られなかっただろう。私はいつもよりも丁寧に布団をたたみ、いつもよりも丁寧に歯を磨き、いつもよりも丁寧に朝食を作り、食し、いつもよりも丁寧に私服に着替えた。このように、私の朝のルーティーンは、新しいノートの第1ページを綴るように、丁寧にこなされた。私はカバンの中にスケッチブックと文房具とスマホとハンカチなどを詰め込んで、キャンバスと画材道具を抱え、何となくソワソワと落ち着かない心持ちで家を出た。家を出て最初の角を曲がると、鍵を閉め忘れたことを思い出し、慌てて戻った。

私は昨日の夜よりは冷静さを取り戻していた。変わった美人局かもしれないし、また、はなから待ち合わせる気などサラサラないのかもしれない。そうだ、現に待ち合わせ時刻も決めていないではないか、いついるかも分からない人間を待つほどの暇人はそうそういないだろう、ましてや初対面だ、どんな人間性かも分からないくせに信じて待つなど、失笑も甚だしい。そう、これはきっと冗談なのだ、彼女の仕掛けたなんの意味もない気まぐれなハニートラップだ。なに、ものを取られなかっただけありがたいじゃないか。私はそんな思考を滔々と流し続け、昨日より約2時間半も早く高架下や工場などが見える土手に腰掛け、キャンバスを目の前に掲げた。しかし、こんなに早くついてしまったが故に、景色は昨日とは違い太陽は真上ではなくまだ東に傾いている。それでも絵を描くことはできた。しかし私はなんとなくキャンバスとスケッチブックの入ったカバンを隣に置き、ごろんと横になった。今日もとても天気が良く葉っぱの隙間から真っ青な空が見えた。相変わらずの蒸し暑さではあったが心なしか土がひんやりと冷たく心地よくて、うつらうつらと寝入ってしまった。


私はまた水の中にいた。水は私の背丈よりも深く、どうにか呼吸をしようと両手足をばたつかせていた。「苦しい、助けて、だれか...。」意識をなくしかけたそのとき、何か温かいものが私をつかんだ気がした。


「...さん...さん!」

私を誰かが揺すっている。ん...なんだか顔をぺちぺちとたたかれている気がする。

哲人あきとさん!」

瞼をようやく持ち上げると、急な光に視界がぼやける、咄嗟に掌で影を作る。

「動かないでください。水持ってきてますから。」

優しくて、けれども確かに真のあるその声は私にカバンから取り出した水を取り出し飲ませた。たった今夢から醒めた夢私はまだ判然としない意識の中でその声の主が高架下で踊っていた例の乙女だということに気が付いて。譫言のように「いたずらじゃなかったのか...」とつぶやいた。彼女は私を見て訝しげな表情をして、ことさらに優しく、絹のように柔らかい声で私の目の前に指を立てた。

「これ何本に見えます?」

「四本。」

「これは?」

「二本。」

「これは、何本に見えますか?」

「三本。」

「大丈夫そうですね。猛暑日にこんなところで寝てたら熱中症になりますよ。」

三本の指を見るころには意識もはっきりしていて、頭痛以外には特に何もなかった。

ただ一つ、彼女の日の光よりも暖かで、月よりも静かな微笑にはくらりときた。私はそんな自分を振り払うと、一つのある疑問がうまれた。

「どうして、僕の名前を…?」

彼女は一切の濁りのない、瞳で僕を見つめた。純粋無垢な子供が、赤ちゃんの作り方を聞くときの目に似ていた。

「どうしてって、カバンに書いてあるじゃないですか。ほら。」

ハッとして鞄を見ると、なるほど確かに書いてあった。正しくは刺繍してあった。実家から持ってきた物にはすべてに名前が書いてあるのを、この数ヶ月ですっかり忘れてしまっていた。少し恥ずかしかったが、彼女は相変らずきょとんとしていた。

「それよりも、今日はあなたに折り入って頼みがあるのです。」

きょとんとしていた表情は急に、踵を返したかのように真面目な表情になり、崩していた足を衣服が汚れるのも気に留めず正座にただし、これから説教でも始まるのかとさえ思うような緊張が走った。私はまだ心の底から彼女を信頼したわけではなかった。デート商法か、あるいはやっぱり美人局か。どちらにせよどんな商法にも引っかからない強い意思を私はその時持っていた。しかし彼女はそんな私の、断固たる意志をあっさりと、赤子の手をひねるかの如く、湿った土から草を抜くかの如く、あまりにも簡単に覆したのである。彼女はその美しく、自然な赤色を帯びた唇の奥から、あまりに意外な言葉を弾丸のように一息に吐き出し私の心臓に、或いは鼓膜に、もしくは脳みその中にまで銃声を轟かせたのである。


「私の絵を描いてくれませんか?」


この言葉から、私とこのいかにも清純で、純粋な目を持った乙女との不思議なお話は始まるのだ。

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