乙女
Lie街
1 高架下の乙女
私はその日、緑色の草原に座り川の絵を描いていた。口の中で転がしているソーダ味の飴をガリガリと噛み潰し、川を見た。流れていく水の音を聞きながらキラキラと煌めく波と、そよ風を肌に感じながら、その風に鼻をくすぐられて、くしゃみを一つした。影を借りていた木はザワザワと笑っている。その日はとても天気のいい日だった。頬をいくつもの汗が、一斉に登校する子供のように顎の一点に集中していた。遠くを見ると煙を吐き続ける工場が、遥か昔からそこに身を据えていた大木のように、威風堂々と立っていた。
私は筆を走らせた、ふと、高架下に目をやると白い綿毛のようなものが目に入った。良く見てみるとそれは人で、白いワンピースを着たいかにも清純そうな乙女だった。くるりと回ったり、ぴょんと跳ねたり、両腕を高く上げたり下げたりして、まるで魚のように自由に、エネルギッシュに踊っていた。私は少しの間見入ってしまったが、そんなにジロジロ見るのも失礼だと感じて、すぐに視線を川とキャンバスに戻した。
鳥の鳴き声、車のエンジン音、時折後ろを通る通行人の足音。私はそれら全てを絵の中に閉じ込めようとした。できるだけ淡くそれでいて克明に、私はキャンバスに向かいながら、白いワンピースを少し気にしながら描き続けた。
「美しい絵ですね」
隣から声が聞こえた。反射的に高架下を見るとそこに彼女はいなかった。彼女は私の隣にしゃがみこみ、微笑を浮かべ、右頬に語りかけていた。
「遠い昔を、思い出してるみたいな絵。景色は目の前にあるのに、どこか懐かしい。」
彼女は決められたセリフのように、すらすらと言葉を紡いだ。私は突如現れた彼女と、同じように発せられた言葉に驚き、しばらく何も言えないでいた。
「そ…そうかい、ありがとう」
ようやく、口の外へと脱出した言葉はあまりにも平凡で、自分でも恥ずかしくなるほどだった。もう少しロマンチックというか、大人っぽいというか、いかにも芸術家らしい返しがあったのではないかと、頭の中をぐるぐると言葉が駆け回る。仕方ないではないか、こんなことは初めてなのだから!
私は彼女の顔を少しの間見つめ、すぐに絵に視線を戻した、顔が熱を帯びていたのは照れとかではなく、自分の絵を褒められて嬉しかったのだ。今までは絵を褒めてくれるような(私は自分の絵を知り合いに見られるのが耐えられないくらい恥ずかしかった)友人知人はいなかったのだ。純粋に嬉しかった。私は彼女の気配を感じながら、絵を描き続けていた。
どのくらいたっただろう。私は普段とは違う、誰かに見られながら描くことに半ば緊張していた。そのせいもあり、たった十五分ほどの時間を一時間かそれよりも長く感じた。私はこの絵を、絵の具が付くのも構わないで抱えて逃げたいとさえ思ったし、あと数分、彼女が私の絵を見つめていたらおそらくそうしただろう。
しかし彼女はすっと立上り、「あの、明日…」と言いかけ、微かに目を伏せたかと思うと何かを決心したように、振り返っていた私の目を見ていった。
「明日もここに来てくれませんか。」
私はその瞳の中に沸き立っている得体の知れない感情に、うなずかされるように首を縦に振った。
彼女は踵を返し、スキップをしださんばかりの勢いで歩き出した。
心地の良い風が頬を撫でるように通り過ぎ、それに合わせて木々は手をたたくようにざわめいた。
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