葉桜の君に(改稿前)

佐藤大翔

葉桜の君に

プロローグ


 小学校の教室。新しいピカピカのコンパスを開いたり閉じたりしながら円を書いていた。

 なんとなく分かる。これは夢だ。

 学年主任の年配の教師が廊下を走って来る。

「葉太くん、今すぐ帰る準備して!」

 心音が五月蝿い。

 冷や汗とも言い難い脂汗が滲む。

 このくだりも何度目、何十回目だ。なのにあの日と焦りようは変わらなくて。

「先生、まゆは……?」

 今日もランドセルは持たなかった。勢い任せに教室の外へ。

「葉太くん、教務室へ……」

 言い終わらないうちに階下へ走る。この際授業中は静かにとか、廊下は歩きましょうとか、どうだってよかった。隣にいた年配教師の存在も然りだ。

 そう、気が動転していたんだ。あの日も。今日も。

 どうやって着いたか分からない病室にはたくさんのチューブを繋げられた少女が横たわっていた。

 思わず駆け寄る。雪のように白く儚げな小さな手を握る。

「まゆ! まゆ!」

 10歳に満たない当時のおれだってどういう状況かくらい分かっていた。

 苦しそうに喘ぎながら呼吸する少女はおもむろに人工呼吸器を外した。

「生まれ変わったらっ、ま……た、会いに行く……っから」

 突如咳き込み、ベッドにばちゃばちゃと液体が飛び散る。赤い血だった。

 けたたましく電子音が響き、白衣の大人が何人もおれの前でよく分からない単語を叫びながらまゆを助けようと動いていた。

 まださっきの手の温もりは残っている。

 切迫した空気におれは呼吸の仕方を忘れ、ただ呆然と眺めていた。──自分はこの場に居ないかのように。


1


 ……ぴ、ぴぴぴ、ぴぴぴ

 枕元でスマホのアラームが鳴る。

 いつの間にか濡れていた目元を拭い、ほっと息を吐いた。

 ──ほら、やっぱり夢だった。

 寝起きのクセにやけにはっきりした頭で思った。

「……新学期なんだけどな」


“まゆ”は当時のお隣さんで幼馴染の女の子だ。名前を、冬野真雪とうのまゆきと言う。享年9歳。今から17年前帰らぬ人となった俺の初恋の相手。

 生まれた時から一緒に育って、何をするにも俺とまゆは2人で一緒だった。

 住んでいた団地の近所にあった公園で遊ぶのが好きだった。1本の桜の木とブランコしかない小さな公園で日が暮れるまでよく遊んでいた。小学校に上がるまでは。

 まゆに病気が見つかったのは卒園式の前日だった。

 その日も俺はまゆといつもの公園でブランコをして遊んでいた。お昼過ぎのよく晴れた日で、桜の蕾は開花を心待ちにしていた。俺とまゆは明日の卒園式や小学生になったら、みたいな話をしていた覚えがある。

「ようちゃん、小学生んなったらさ、いっしょに学校いこうよ」

「もちろん! 同じクラスだったらいいよね」

「入学式までに桜咲くかな」

「小学校の近くの桜ぜんぶ咲いたらきれいだろうね」

「うん!」

 まゆは桜色のほっぺたを更に赤く染めた。

「まゆはほんとにお花が好きだね」

「桜のお花がいちばんすき!」

 3月の春と呼ぶにはまだ早い冷たい風が吹いた。

 まゆはコホンとひとつ咳をした。

「まゆ、風邪ひいたの?」

「ううん。ちがうよ」

 首を横に振った。無理して強がっている様には見えなかった。──が、チクリと胸に刺さるものがあの日はあった。

「今日はもう、おうち帰っておやつ食べよ」

「でも、まゆ、まだようちゃんとあそびたい」

「短い針が3になったら帰ろ」

「それならいいよ!」

 ……結局のところ、ふたりで公園を出たのは“ゆうやけこやけ”の音楽が流れ始めた5時だった。

「3じゃない。5になってる!」

「いそげー!」

 ぽてぽてと走って夕暮れの住宅街を抜ける。

 繋いだ右手がいつもより温かかったのが気の所為で無かったことと知ったのは翌日だった。

 団地のすみっこにある階段を駆け上る。3階の左側から5番目と6番目の扉を開けて「またあした」。

 いつもどおりだと思っていたんだ。あの時は。


 翌日の卒園式にまゆは来なかった。

 淡いピンクのワンピース。彼女の姿は式が始まっても、終わった後もおれの前には現れなかった。

「葉太、早く中入ろ? 卒園式始まっまちゃうから」

「おかあさん、まゆはまだ来ないの?」

「まゆちゃんお休みだって。お熱出ちゃったみたいよ」

「……でも」

 ほら、早く行くよと手を引かれて最後の保育園へ。

 3月の終わりの園庭に冷たい花弁が舞っていた。

「卒園式はおかあさんに髪の毛ふたつに結ってもらうの」と楽しみに待っていたのに。

 先生に呼ばれた「冬野真雪さん」の返事も聞くことは出来なかった。

「おかあさん、まゆのお見舞い行っちゃだめ?」

「お見舞いって一緒に遊べないのよ?」

「……行っちゃだめ?」

 母は呆れたようにおれの頭をくしゃくしゃに撫でた。

「仕方ないわね。プリンでも持っていこうか」

「うん!」

 卒園式の後、おれとおかあさんはコンビニでプリンを2つ買った。まゆとおれの分。「遊べないからいっしょに食べる」と我儘言って買ってもらったおれのプリン。

 車が止まって、おかあさんにドアを開けてもらうと団地の階段を1人で駆け上がった。コンビニのビニール袋を大事に手に持って。

 305号室。うんと背伸びして呼び鈴を鳴らす。ぴんぽーんと間抜けな音がした。

 ドアの向こう側からは物音が何もしなかった。まゆもおばちゃんも出てこなかった。

 もう一度鳴らした。ぴんぽーん。

 やっぱり誰も出てこなかった。

 肩で息をしている母が背後から声をかけた。

「お医者さん行ってるみたいだね」

「……まゆ いない」

「明日また来ようか」

「……うん」

 隣のドアの鍵を開けてもらう。入る前にまゆが帰ってきてないか階段の方を見た。1人の女性が上がってきた。視線が交差した。……おばちゃん?

「ようちゃん……」

 おばちゃん、まゆの母親はこちらに駆け寄った。

 ──目が赤い。

 まゆの姿を探してキョロキョロしていたらぎゅっと抱きしめられた。まゆと同じ匂いがした。

「ごめんね、ごめんね」

 おばちゃんはおれを力一杯抱きしめ、ごめんねの言葉を繰り返して泣いていた。

 大人が泣いている姿が初めてだった。よくわからないままおれは抱きしめられていた。声のかけ方も、慰め方も知らなかったから。

 ──知っていたのは“悲しい時は人は泣いてしまう”というたった1つの事実。それだけだったんだ。

 ごめんね、ごめんね……。

 雪は変わらず静かに降っていた。膨らんだ桜の蕾を覆うように、ただ静かに降っていた。


“ゆうやけこやけ”と一緒に帰ってきたまゆは熱があった様だ。症状は微熱のみ。はしゃぎすぎて風邪を引いたんだろうとまゆの母親は軽く受け止め、いつもより早めに床につかせた。翌朝には治っているだろうと。

 その晩、まゆは高熱を出した。咳が止まらず、飲み物も全て吐き出してしまう始末だった。

 夜間診療の病院に彼女の母親は慌てて連れて行った。まゆは肺炎だろうと診断された。入院が決まった。

 翌日、行くはずだった卒園式。

 朝になっても彼女の症状は良くならなかった。いや、むしろ悪化していた。大きな病院に運ばれ、精密検査が行われた。医師は結果に重たい口を開いた。

 ──呼吸器の病。名前も付いていない先天性の難病。5年生存率は3パーセント以下。10歳まで生きる事はとても難しい、と。


 4月になって桜が咲いた。その日からおれは毎日放課後まゆの病院に通った。ランドセルにお土産話を詰めて。3年、4年近くと言った方が正しいかもしれない。



2


「最近はまゆの夢見てなかったんだけどなぁ」

 今朝の夢を思い出して扉の前で呟く。ネクタイをきっちり締め直して深呼吸。

 よし、と小さく気合いを入れて教室に1歩。

「おはようございます」

 3年1組の教室をぐるりと見回す。

「はじめまして、担任の秋田葉太です。今年1年よろしくお願いします!」

 黒板に名前を書きながら自己紹介をする。担当教科は現代文、文芸部の顧問になったこと、前任校であったこと、この学校に来ることを楽しみにしていたこと……。多分そんな事を話していた。

 どこの担任もやるつまらない自己紹介。まともに聞くヤツなんてほとんど居ない自己紹介。……なのに1人の少女だけは真っ直ぐにずっと俺の目を見ていた。最初は珍しい子だな、と思っていた。どこかで会ったことがあった気がする。でも、誰かは覚えていない。そんな女の子。クラス全員の自己紹介をきいて彼女の名前が“春川桜子”であることが分かった。聞き覚えは無かった。

 ロングホームルームの余った時間で学級の係を決めた。彼女は学級委員になった。クラス投票で選ばれたんだからとても人望があるみたいだ。

 放課後。俺は1日目の学級日誌を書いていた。

 楽しい1年になりますように、早くクラス全員の顔と名前が覚えられるように頑張りたい、みたいな国語教師のクセに文章力に乏しいコメントを書いていた。

 教室で1人だと思っていたら背中をつつかれた。振り向くと少女が立っていた。春川桜子、俺が初めて覚えた3年1組の生徒だ。

「学級委員になりました。春川です。秋田先生、よろしくお願いします」

 にこりと微笑んだ。桜色に頬を染めて。

 ──誰かに似てるんだけどなぁ。誰に似てるかが思い出せないや。

「よろしく、春川さん」

 握っていたボールペンを教卓の上に置き、右手を差し出す。

 彼女は寂しげに眉を下げ、俺の手を握った。よろしくお願いします、と。

 何も覚えていないんですね、と心の中で言われた気分だった。


3


 授業や放課後、何度か彼女と話して気付いたことだ。

 彼女は勉強熱心だ。放課後よく質問に来る。

「先生、ここの記述問題見てもらっていいですか?」

「ああ、いいよ」

 問題文を読んで解答欄の文字と照らし合わせる。

 右肩上がりの綺麗な字。ハネの部分に特徴のある字だ。まゆと同じ書き方をする子だ。

 解答内容を確認しながら頭では毎度別のことを考えてしまう。

「あの……。先生?」

 呼ばれてハッとする。

「あ、はい。全体的に悪くないよ。でも、最後の1文は直した方がいいかな」

 赤ペンでサイドラインを書き込む。

「ここの文章引っ張っていばいいですか?」

 問題の文章をシャープペンシルで囲む。確認するようにこちらを向いて小首を傾げる。

「そう……だね」

 ──やっぱり彼女はまゆに似ているんだ。ちょっと訛った言葉遣い、ふとした所作も。

 彼女は俺の動揺なんて他所に黙々と新しい解答を書いてる。

「できました! これでどうですか?」

 自慢げにプリントを見せる。

「ばっちり」

 ──このくらいなら許されるよな。

 頭をポンポンと2回撫でる。

「えへへっ。先生によしよしされました」

 春川さんは桜色の頬をさらに赤く染めた。

「よく頑張りましたのご褒美」

「もう子供じゃないもん」

 ぷくりと頬を膨らませる。

 ──この顔もまゆに似てる。おれと喧嘩してムキになった時の表情と一緒なんだ。

「……先生はわたしといる時、たまに、ほんのちょっとだけ寂しそうに笑いますよね」

 バレないように隠してきたつもりなのに顔に出てしまっていたか……。

「気の所為だよ」

 ほら、もう遅いから、と急かして下校を促す。

 不満げな顔で彼女は「さよなら」と言って帰っていった。

 廊下の奥で彼女の姿が見えなくなるのを確認して、教務室前のパイプ椅子にドカりと腰を下ろした。

「……寂しそう、か」

 無意識にポツリと呟いた。

 あるわけないと心の奥では分かっているけど、1人の生徒に縋ってはダメだと分かっているけど。

「会いに行くから……、なんて」

 廊下の向こうの彼女を想像し溜息をついた。


4


「でっかい溜息」

 振り返るとショートカットの保健医が立っていた。

「夏木か」

「何が『夏木か』だ。アホ」

 人差し指を眉間にグリグリされる。

「痛い痛い痛い!」

「せっかく美人で優しい夏木先生が、(同じ大学の同期だから仕方なく)心配してやってるのに! 秋田はバカだね」

 心配とか言っておきながら夏木は人差し指に尚も力を込める。

「おいコラ養護教諭、カッコの中身聞こえてるから」

「きゃあこわーい! ぱわはらよー」

「こっちのセリフだよ!?」

 眉間に押し当てられた右手を払い除ける。

 ……腕細くね? どこからあんな力でてくるの??

「放課後とはいえ生徒も通りますよ」

 俺たちの様子を横目に1人の老人が通る。

「校長……!」

「ほほほ。若いっていいですなぁ」

 白髪の老人は俺たちを(生)温かい目で見ながら重厚な校長室の扉の向こうへ消えていった。

「……書類整理しよ」

「そだネ」


 先程の1件は校長のせいで記憶の奥底に。変な気の迷いを起こしかけていたから、これで良かったのかもしれない。

 久しぶりに明日は土曜日なのに休みだー、みたいな謎テンションで来週配布するプリントを作成。

 いつもより早く片付いた。

 パソコンをシャットダウン。デスクの上はお粗末じゃない程度に整理する。

「お疲れ様でしたー、お先に失礼いたします」

 まばらになった教務室の入口付近で挨拶。ついでに時計を確認。

 ──1本早い電車で帰れるな。

「秋田先生、帰り保健室寄ってもらえる?」

 バスケ部の顧問から茶封筒を受け取る。因みに名前は覚えていない。


 玄関脇の保健室は優しい光が灯っていた。

 ノックを3回。

「どうぞー」

 やる気のなさそうな返事がした。

「お届け物でーす」

 顔の前で茶封筒をヒラヒラさせてみた。

「秋田じゃん。今帰り?」

 受け取ってそのままカッターで封を切る。

「そんなとこ」

 夏木女医は中の紙をほぉ、とか言いながら折り畳み、ファイルに挟めた。

「ちょっと待っててよ。飲み行こ?」

「何処? 駅前?」

「もち」

「奢ってくれんの?」

 夏木は3秒ほど目を閉じて迷った挙句「1件目までは」と返事をした。──何件行く予定なんだコイツ。

「いいよ割り勘で」

「秋田は直ぐに潰れるもんねぇ」

 言うほど俺は弱く無い。夏木が飲兵衛なだけである。


 結局俺は潰された。

 駅前の飲み屋街の一角。俺は焼き鳥を食べながらビールのジョッキを煽っていた。

「だからぁ、何で俺は結婚できないんだぁ!」

「今こうやって叫んでるからでしょうね」

 夏木はケラケラと笑う。

「彼女はいないの?」

「いたらお前と飲まねぇよ。みんなさぁ、俺が好きなのは私じゃないって別れるんだよ」

「へぇ」

 相槌を打ちながら、夏木は追加のハイボールを注文した。何杯目か数えるのは随分前に諦めた。

「秋田って浮気性なの?」

「ちゃんと好きだったよ。なのにさぁ、酷いと思うんだよ俺は! お前以外見てねかったさぁ」

 勢いよく焼き鳥を頬張る。ネギまじゃない。皮だぁ。

「あれじゃない? 元カノが忘れられない的な」

「元カノねぇ……」

「毎晩夢に出てくるの、みたいな」

「夢に出てくる子なんて……。いた」

 冬野真雪。最後に会ったのは17年前。

「未練タラタラだね。キモ」

 口悪く詰りながらニヤニヤとした笑みを浮かべる。

「未練って言ってもさ」

「酷い別れ方だったんだろ? お?」

 お代わりのネギまでつつかれる。受け取って食べる。

 瞼の奥で微笑む姿を想像する。何年待っても会うことは叶わない──多分おれの最愛の人。

「死んじゃったんだ」

 夏木のさっきまでのヘラヘラした態度が迷子になる。

「会えないって分かっていても、思い出すのは未練なのかねぇ」

 ジョッキの底数センチのビールを飲む。

「面影を重ねてしまうのは未練なのかねぇ」

 春川桜子。まゆが亡くなった年に生まれた少女。

「今更シアワセになりたいなんて……思っちゃだめなんだろうなぁ、きっと俺は」

 ──なぁ? まゆ。

 ここで記憶は途切れた。


5


「頭痛い……。昨日飲みすぎた」

 終電で帰ったのか、タクシーで帰ったのかは曖昧だ。

 そのまま着替えることもせずに眠ってしまったらしい。

 台所の蛇口を捻って1杯の水を汲む。

 1口飲む度にごくんと喉が鳴った。呼応するようにシンクを水が穿つ音がする。古い安アパート、簡素な六畳間は寂しい音がした。

 打ち消すようにテレビのスイッチを入れる。

「もう昼か……」

 コップを片手に意味もなくバラエティー番組を見る。

 連休明けだと言うのに、性懲りもなく観光地を特集している。

 目に映った家族連れの遊園地も、恋人と出かける広い公園だって。気付いてしまった。──俺の前では全て無価値なんだ。

 冬が終わって、春になった。君が好きだった桜の花は散ってしまって、そろそろ夏が来るだろう。

 窓の外の桜の木は葉桜になった。君と見れなかった青葉が茂っているんだよ。何度目だろう。この先何度俺は1人で見ることになるんだろう。

 酔いは覚めているはずなのに視界が霞む。

 幸せな顔をしている画面越しの人が理由もなく憎かった。

「黙ってくれ。わかってるんだよ」

 ──俺にはシアワセになる価値なんてないのかもしれない。

 薄い壁に吸い込まれそうな嗚咽を飲み込む。

 ──君がいなければ意味なんてないんだ。

 神様に幾ら頼んだところで俺の言う「もう一度」なんて来ないんだ。夢は叶うなんて嘘だから。

 忘れることが普通なら「思い出」なんて要らなかった。高望みをさせてくれるなよ。あの日の言葉に期待を持たせてくれるな。

 ──会いたい。会いたいよ。


 泣き腫らした顔を洗って、シワシワのシャツを着替える。財布の中身を確認してスニーカーをつっかけた。

 錆びたトタンの階段をかけ下りる。

 瞼の裏に遠く離れた君を描く。

 ──縋ったっていいじゃんね?

 土曜日の午後2時過ぎの住宅街を走る。近所の野良がこちらを見ていた。

 ガラガラの電車に乗った。車窓からは青々とした木々が見えた。

 2時間程乗って見慣れた駅で下車。懐かしさに胸がキュッと詰まる。

 目指す場所は柔らかな木漏れ日の差す箱庭。

 俯きながらコンクリの道を歩く。視界に誰も、何も映らないように。──顔を上げて歩いた町は思い出の中だから。隣に君は居ないのだから。

 自販機で2本のりんごジュースを買ってブランコに座る。1本は開けて人の乗らない椅子に置いた。

 はたから見たら滑稽な光景だろう。目を腫らした成人男性とブランコ。おまけに2本のりんごジュース。

 りんごジュース──まゆが好きだったんだ。生きていれば「ビールがいい」とかカッコイイことを言い出していたかもしれない。でも、俺の知ってるまゆは9歳のままだから。

 キャップを開けて1口飲んだ。

「甘い」

 久しぶりに飲んだ黄色い半透明の液体は、甘酸っぱい香りがした。口内で味を反芻する。

「やっぱり甘いよ」

 すごく美味しいなんてもう思えない。酒の味と煙草の香りを知ってしまったから。

 ──17年。近いようでその距離は恐ろしく遠かった。

 大人になるってこういうことなのか?

 ぽっかりと空いた胸に問いかける。

 誰も答えてはくれない。あの日から俺は独りぼっちだから。

 夕焼けの公園で感傷に浸る。

 ふと時計を見ると丁度5時を指したところだった。

「ゆうやけこやけでひがくれて……」

「やーまのおてらのかねがなる」


6


 独りだと思っていたんだ。続いて誰かが歌うなんて……。

 この声は──

「春川さん?」

 逆光で朧気な人影に問う。

「いつになっても5時の音楽は“ゆうやけこやけ”なんだね、

 たおやかな黒髪が斜陽に照らされて、木漏れ日と同じ色に染まった。

「ねぇ、先生。ちょっとだけ付き合ってよ」

 彼女は真っ直ぐに俺の元に歩いてきた。

 空いたペットボトルを手に取り、隣のブランコに座る。

「先生はよくここに来るの?」

「……月に1度は必ず、かな」

 彼女はりんごジュースに視線を落とし、寂しそうに笑った。俺にはその顔がひどく大人びていると思った。

「春川さんは家がこの辺とかなのか?」

 頭を横に力なく振る。シャンプーの甘い香りがした。

「違う、違うけど違くないの」

 それはどういう──言いかけたところだった。

「冬野真雪」

「え?」

 意味が分からなかった。

 何で春川さんがまゆの名前を知っているのか? 何で俺がここに来た理由を知っているのか? この場所、この公園で言う意味はなぜか?

 頭の中に疑問が溢れてぐるぐるする。

 何で? 何で? 何で? 何で? 何で? 何で? 何で?

「せん……せ? 顔色悪いですよ」

 春川さんは俺の顔を心配そうに覗き込んでいた。

 長い睫毛、吸い込まれそうな真っ黒い瞳、今にも溶けてしまいそうな雪のように白い肌───まゆに似てる?

 落ち着こうとペットボトルの中身を飲み干す。

 息を吸って大きく吐く。2回ほど深呼吸。

「冬野真雪を知っているのか?」

 彼女に躊躇いは無かった。

 それから彼女はぽつりぽつりと話始めた。

「私が生まれたのはお姉ちゃんが亡くなった年でした。皮肉なことにね、私がお腹にいるって分かったのがお姉ちゃんの命日だったんだって」

 錆びたブランコは漕ぐ度にキーコキーコと音がした。1つ空を切るごとに彼女はワンピースから白い足を覗かせた。

「お姉ちゃんが亡くなって直ぐに私たちは引越したそうです。私の家は桜の花が綺麗な場所なんだ」

 お隣が引っ越した日。覚えてる。四十九日が終わって間も無くだったはず。……でも、の存在は知らなかった。

「春川の名字になったのは去年の暮れのことでした。お母さんの旧姓になったの。……お父さん死んじゃったんだ」

 元々のたれ眉をさらに八の字にしていった。

「お姉ちゃんと同じ病気だろうってお医者さんが」

 

 戻らないことへの期待。終わった事に対する希望。

 現実は矛盾しているけれど、想いは溢れて止まらなかった。

「まゆは、まゆはまだ生きられた?」

「分からない。───けど」

 ──現実を見な、お姉ちゃんは戻らない。

 ──期待してもいいんじゃないかな?

 どちらを言いかけたのだろう。彼女は口を噤んでしまった。

「ごめんね先生。急に話始めて」

 困ったような苦しそうな笑顔だった。

「大丈夫……だよ、全然」

 気付けば辺りは茜色に染まっていた。

「そろそろ帰ります」

 立ち上がってスカートの裾を直す。

「りんごジュース、良かったらもらってくれないかな」

「え? いいんですか?」

 まゆじゃないけど、勝手にまゆを重ねていたから。

「俺の想いの供養、みたいな?」

「おいしくいただきます。私コレ好きなの」

 ぺこりとお辞儀をして彼女は歩き始めた。

 出入口の石段の下で振り向いた。

「今月のお姉ちゃんの月命日、また会えませんか」

「ここで?」

「はい。全部話せるかわからないけど、先生には話したいことがあるから」

 ばいばいと手を振って彼女は夕焼けの町に飲まれていった。

 最後まで何で春川さんがこの公園にいたかは分からなかった。まぁ、それも次会った時にきけばいい。

「まゆ、また来るから」

 久しぶりに実家にでも寄って帰るか。


「ただいまぁー」

 突然の帰宅なのに母はいつもと変わらず出迎える。

「葉太おかえり。今日ビール買ってないわぁ」

「連絡よこさなかった俺が悪いよ」

「肉じゃが、食べてくんでしょ?」

「うん」

「じゃあ手洗ってきなさい」

 まゆのことを知ってて黙ってくれることが心地よかった。

 両親と3人で食卓を囲む世界は穏やかだった。

「葉太、お前いい人居ないのか?」

 全然穏やかじゃなかった。思わず人参落としちゃったじゃねぇか!

「この前振られちゃったかな」

「そうか……」

 あからさまに残念がらないでくれ。素面でこの空気は俺だって思うところはあるからね?

「母さんとそろそろ孫の顔もみたいなって話してたんだよ」

「俺もそろそろ身を固めないとなぁって思ってるけどさ」

 だんだん苦しくなってきた。口に入れているものを飲み込むのが辛い。

「やっぱりまゆちゃんのこと……」

「ちがう! まゆは何も関係ないからっ……!」

 ──何で俺は怒っているんだろう?

 母の言葉に反抗した俺を別のところから見ていた感覚だった。

「全部無かったことにするつもりはないよ。忘れるつもりだってない。前だって見てるから!」

 ──説得力ってなんだっけ?

 こんな俺が教壇に立っているなんて馬鹿げている。滑稽なことだろう。

 紆余曲折が人生だから、若いうちの努力は買ってでもしろ? だからなんだって言うんだ。何をするにも空回り、空回り。正しい生き方の正解って何処にあるんだよ。

「……ごめん。取り乱した」

 母が申し訳なさそうにうなづいた。

 やがていつものひょうきんな態度で「ご飯……お代わりいる?」と尋ねた。

「1杯貰おうかな」

 正直お腹いっぱいだった。

 母さん、俺ももうコドモじゃないんだ。


7


「あーきーたーせんせー! 金曜あの後大丈夫でした?」

「げ、夏木」

「せっかく人が心配してやったのに!」

 月曜日。5時過ぎの教務室前。

「ちゃんと帰れてたよ。記憶は無いけど」

「べろべろでしたもんねぇ」

 夏木はやれやれと茶色い頭を振る。

「俺、そんなに酷かった? 大丈夫だった?」

 夏木は恥じらうように白衣の袖を口元に当てた。

 ──コイツに限って手出してないよな?

「1人で帰らせるのが不安だったからタクシー呼んだの。終電逃しちゃったのもあるし」

 ──大丈夫だよな、俺? 何もしてないよな?

「そしたら秋田、車内なのに──」

 20センチ下から上目遣い。心臓がドキリと跳ね上がる。

「ごめんなさい!」

「全部思い出した?」

「申し訳ありません!」

 覚えていないけど何かまずいことをした事は確かだろう。反射的に謝った。

 頭を下げる俺の耳元で夏木は吐息をかけるように囁いた。

「人間誰でも失敗はあるわ。──1度くらいレディに向かって吐いても私なら許すから」

「ゲロったのか!?」

 横目で彼女の顔を覗くと、冷ややかな侮蔑のこもった目をしていらした。

「ソノセツハタイヘンモウシワケゴザイマセンデシタ」

「まぁ、私が酔わせたのもわるいんだけどさ」

 お、酒の席を悪びれるなんて珍しい。

「青年、前を向いて生きよう。お姉さんならどんな辛い過去でも受け入れてやるから! キリッ」

 コイツ、自分の口から「キリッ」て言いやがった。

「なんかいろいろほんとにごめん」

「そんなに苦しいんだったら私にすればいいのにって思いました、まる」

「話の主語は何?」

 夏木は盛大にため息をついた。

「だから秋田は結婚出来ないんだよ……」

「言うてお前も独身じゃん」

「うるせぇ♡ しばくぞコラ♡」

 猫なで声でも内容は可愛くないぞ!?


 夏木と話すことはあったが、あの日以来春川さんと話す取っ掛りは無かった。声を掛けても「3組に用事があって」だとか「今忙しくて」とやんわり断られる。避けられてるのだろうか。だから教室で顔を合わせても会話に至ることは無く、いつも通りに授業をしてそのまま終わり。金曜日はだいたい放課後に教務室へ寄ってくれるのに、今週はそれすらも無かった。

 ──先生には全部話したいから。

 あの言葉は何だったのだろうか。お姉ちゃんの月命日、まゆの月命日は明日の日曜日。

 ──春川さん、明日は本当に来るの?

 喉の奥まで出かかっていた言葉をセーラー服の後ろ姿に届けるまもなく飲み込んだ。

「先生さよーなら!」

 お昼前の教室の外で彼女は手を振った。満面の笑みで。桜色の唇から白い歯を覗かせて。

「さようなら。気を付けて帰れよ」

 春川さんとその他数人の生徒を見送る。

 無人の教室で自然と頬が火照った。

 こんな時でもまゆの面影に重ねてしまうなんて。

 彼女はまゆの妹であってまゆではない。俺と春川さんは教師と生徒以外の関係ではないんだ。

「いい大人のくせに……だよなぁ」


8


 翌日の日曜日。まゆの月命日。

 俺はいつも通りお昼前にまゆの墓参りに行って、その足でいつもの公園に行った。理由はないけど、毎月この日は昼飯を食べる気にはならない。

 近所のケーキ屋でプリンを2つ買って、自販機のりんごジュース。

 約束をしていないのにもかかわらず、彼女はそこにいた。日曜の昼には似合わない紺色のセーラー服でブランコに座っていた。

「春川さん?」

 彼女はぱぁっと笑顔を輝かせて駆け寄った。

「先生! よかった、来てくれたんですね!」

「春川さんこそ来ないかと思ってた」

「誰が誘ったと思ってるんですか!?」

 頬を膨らませる仕草をした。──この顔もまゆとそっくりだ。

「そういえば先生、手に持ってるのは……」

「プリン」

「好きな食べ物覚えててくれたんだね」

「あれだけ喜ばれたら忘れないよ」


 秋田少年がお手伝いをして貯めたお小遣いは、ほぼプリンかりんごジュースとして消えた。

「ようちゃん今日プリンの日??」

 病院の売店のものでも、スーパーの徳用のものでも、ちょっとリッチなケーキ屋のものでも、手作りで甘すぎたものでも、まゆはどれも美味しそうに「これを食べるのがまゆの楽しみなの!」と幸せそうに食べるのだ。


「先生は何でお墓参りだけじゃなくてこの公園にも来るんですか?」

「未だにまゆはここで遊んでるんじゃないかなって思うんだ。……ただ俺自身がまゆはお墓の中にいるってことを認めたくないって思ってるのかもしれない」

 顔を合わせたことすらない姉を思ったのだろうか。彼女は複雑そうな心境を表すように顔を歪めた。

「お姉ちゃんは生きてるよ」

「何を馬鹿な。まゆは俺の目の前で息絶えたよ」

「それは体の話」

「春川さん、何を言って──」

 風が吹いた。葉桜の若い緑の香りがした。揺らした黒髪から覗く彼女の姿はまるで──

 冬野真雪本人だった。

「ま、ゆ…………?」

「会いに来ちゃった」

 信じられる訳がない。叶いもしない夢物語だと思っていた。

「冗談はやめてくれよ。シャレにならないから」

 彼女はブランコに腰掛ける俺に歩み寄る。1歩、また1歩と。17歳とは思えない大人びた余裕を持った微笑みで。

「また明日はほっぺたに、ごめんなさいはおでこ、頑張れは……どこだか忘れてないよね」

 呆然とする俺の頬に手を添え、額に唇が触れるだけのキス。

「ごめんねのちゅう、信じてもらえた? 春川桜子はまゆだよ」

 あの頃と変わらない熱を持っていた。

 変わらない優しさがあった。

「ずっと逢いたかった。ようちゃん、待たせてごめんね」

「でも、でも……」

 混乱で口をパクパクさせる俺の唇に細い指が触れた。

「同じ高校でおっきくなったようちゃんが先生しててまゆ、びっくりした。まゆじゃない誰かと一緒になってたらどうしようってずっと思ってたけど左手の薬指に何も無かったから少し安心した。」

 スっと息を吸って彼女は眉をひそめた。

「でも、まゆのこと待ってないで幸せになってても良かったんだよ?」

 学校で優等生な彼女は我儘だった。

「来世でもようちゃんの隣にいるのはやっぱりまゆがいい。ようちゃんと一緒に歳をとりたい。生まれ変わってもようちゃん、貴方が好きだよ」

 堪えていた感情がボロボロと崩れるように彼女の涙と共に決壊した。

「子供の頃のコトだからって、もうまゆには会えないって分かっていた……けどッ、誰と一緒に居たって、手を繋いでも、キスしても、それ以上のことであっても、心のどこかでは物足りなさを感じてた」

「だからってさ、ようちゃんはバカ野郎だよ!」

 ──まゆのことを忘れないで待ってるなんて。

 ──自分のシアワセを見限っているなんて。

 両方の意味でのバカ野郎だろうか。

 幸せになっても良かったんだよ、なんて言っておきながらそんなに悲しい顔をするなんてただのエゴだ。

 俺は多分これからも君を忘れることはできない。何年経とうと君がいなくなってもこの気持ちは変わることはないと思うけど。……ごめんね、君以上の我儘を言わせて。

「ねぇ、おれの初恋を終わらせてよ」

 君の手でお終いにさせてよ。

 これ以上苦しみたくなかった。利己主義だって言われてもいい。純粋な気持ちを真っ直ぐに、そんなことできるほど幼く無かった。

 あの頃持っていなかったプライドとか社会的責任とか、世間の目……。彼女の変わらない無垢な気持ちを受け入れられるほど、俺は大きな人間では無かった。

 17年間引きずる想いは驚く程切なく、寂しく、そして綺麗だから。……だからこそ思い出の中に閉まっておきたかった。

 彼女は涙が止まるほど酷く傷ついた様子で桜色の唇をわなわな震わせて、紺色のプリーツスカートを翻して走り去っていった。

「これで、これでよかったんだよ」

 どれほど望んでいたことでも、受け入れていい現実世界を知らなかった。

 17年越しにめぐり逢えた最愛の人。記憶はそのままに彼女は高校生の少女だった。自分の教え子としての再会。──愛し合っていいわけない。許される立場になんて俺は居ない。

 届いたかどうかなんて知らない。「ごめんね」ひとり呟いた。


 その日以来俺はこの公園に行かなくなった。


 春川桜子の存在を冬野真雪の死として受け止めたのか、冬野真雪本人として認めたのか、あるいは関わりたくない相手であるとしたのか──全てが正解で全てが間違いだろう。

 彼女の存在はもう漠然としたモノではないのだ。

 日を追うごとに鮮やかに、深く、透明度が増して……儚い思い出では表せない等身大の重みがあった。

 共に大人になれなかった冬野真雪は春川桜子に姿を託したのだろうか。

 授業、面談、放課後、たまたま廊下で会って。2人きりになっても、彼女も俺もあの日以来踏み込んだ話から目を背け続けた。表面上の会話。本来そうあるべきの生徒と教師の関係。お互いの想いだけが雁字搦がんじがらめになっても平然を装う矛盾した関係。

 惹かれ合いながらも自分の想いには蓋をして、溢れそうになっても見ないふり。

 自分が好いている相手は記憶の中の冬野真雪か、入れ物の違う春川桜子か? 17年前の記憶を持つ少女を1人の生徒以上に目で追ってもいいものか? 俺なんかよりもっと別の人が彼女を幸せにしてあげられるのではないか?

 話さなくなってから彼女の存在がどんどん膨れ上がる。まゆを失ってモノクロに見えていた世界が色付いて見えるようになった。同時に自分の発した言葉が日増しに首を締め上げるようになった。


9


 夏が過ぎて秋になった。色付いた葉が落ちて、雪が降り始めた。

 初雪は例年地面を淡く塗る程度の白さのはずだが、何を思ったのだろうか。水分を多く含んだみぞれと言うには重たい雪が、雪おろしの雷が鳴った後からずっと降り続く。

 鉛色の空、雪の日特有の冷たく澄んだ空気。

 一面の銀世界と呼ぶにはお粗末な街並み。

 月明かりに照らされて足跡がコバルトに満ちる。

 一陣の北風は手足の温度を奪っていく。

 コートの襟に顔を埋める。


 寒くなって、降り続く雪は嫌いだ。


 雪の日の夜は嫌いだ。


 独りで歩く銀世界が大嫌いだ。


 ──真雪と会った最後の日は雪の日だったから。


 ──振り返っても1人分の足跡しか残っていないから。


 ──閑静な住宅街に自分以外が雪を踏む音が聞こえなかった日を思い出してしまうから。



 真雪は死んだが生きている。

 幼くなった生き写しの少女は、手を伸ばせば触れられる距離にいるのに。伸ばされた手を払い除けたのは自分なのに。

 イタズラに時間が流れれば、にまゆは追いつけない。

 ……だけど想いに関係ないでしょ? 泣きそうな顔の桜子が脳内に囁く。

 ああ、そうだよ。もっともな意見だ。

 終わりにしようなんて言ったところで俺は君を忘れることは出来ないんだろ? 20年以上拗らせた初恋なんだから。君が死んでも忘れられなかった想いなんだから。


「本当に俺はバカ野郎だよ」


 無垢な白雪に自虐的な台詞を吐き捨てる。

 ──相手は教え子、18歳になったばかりの受験生だぞ?

 彼女の努力も、俺の立場も無いものにはできないけど、もう今度は見て見ぬふりはしたくないんだ。2回目は失いたくないから。


10


 12月24日。世の中は浮き足立った人々が目に余る。

 俺にとってはクリスマスイブよりも、まゆの命日としての意味が強い。翌日の25日は一緒に祝えなかった彼女の誕生日。生きていれば28歳……と言っても桜子には「生き返ってるよ」なんて言われそうだが。

 墓参りをしなくなってから半年が経とうとしていた。

 数ヶ月ぶりに訪れた公園は疎らに降った雪が地面の芝生を強調していた。

 追悼なんてもう意味が無いのかもしれないけど、長年染み付いた習慣に準える。自販機でりんごジュースを2本買った。色あせたプラスチックのブランコの椅子から雪を払う。気が付けば雪は止んでいた。

 金色のオーナメントが生垣を飾り、赤と緑の愉快な光は暗闇の中、点滅を繰り返す。

「温かい缶コーヒーにすればよかった」

 意味もなく吐いた言葉に返事をする者はいない。

 ここに来るまでの道に以前ほどの高揚感を感じることはできなかった。芯まで冷えた体に冷たい液体を流し込む。喉の奥がキュッと鳴った。

「なあ、まゆ。俺は一体何をすればいいんだ?」

 18年前の記憶の中の少女に一方的に問うた。

 ──本当に好きなら私の手を取ってよ

 そんな答えが貰えたのならどんなに良いことだろう。

 しかし暗闇に響いたのは携帯電話からの着信音だった。

 ホーム画面には同僚の名前が表示されていた。

「もしもし」

「秋田ー?」

 拍子抜けするほど間の抜けた声がした。

「そうだけど、何か用事あった?」

「いいや。特に用事はなかったんだけどね」

「え?」

 予想外の答えに唖然とする。

「最近元気なかったから。それなのに具合悪そうって訳じゃないのに今日すぐ帰ったじゃん?」

「うん」

「理由聞こうって訳じゃないけど、大丈夫かなって。心配になっちゃったから電話かけてみた」

「……ありがと」

 全部じゃなくて貴女になら伝えてみたい。

「ねえ秋田、これからご飯でも行かない?」

「……今市外にいるけど」

「仕方ない」

「このまま話だけ聞いてよ」

「気の済むまでいいよ」

「あの……さ」

「夢に出てくる未練に塗れた女の子の話カナ?」

「……」

 コイツにまゆの話なんてしたっけ。正直覚えていない。酔った勢いで話したのか?

「多分その話かな」

「会えないって分かっていても思い出すのは未練? 面影を重ねてしまうのは未練? だっけ」

「そんなこと話したっけ……」

「がっつり」

「……そっか」

「私は忘れずに好きっていうのも悪くないと思うよ」

「面影を重ねてしまっても?」

「きっかけは死んじゃった大好きだった子かもしれない。でも、似ているその子のことは大好きだった子と重ねるほど好きなんでしょ?」

「たぶん」

「なんだそれ」

 画面越しに彼女は笑った。

「もしもの話していい?」

「どーぞ」

「夏木の大事な人が死ぬ前に『生まれ変わったら会いに行くから』っていったとするよ」

「うん」

「20年近くたって、その子の面影のある子に『会いに来ちゃった』って言われたらとうする?」

そんな話があったら信じるかな」

「そっか」

それが死に別れた最愛の恋人とかだったら、今度こそ幸せになりたいかな」

「俺は誰かに背中を押してもらいたかったのかな」

「それは知らないなぁ」

「生まれや育ちを理由に見ないふりしてたんだけどなぁ。きっと我慢はできないよなぁ」

「好きなもんは仕方ないよね」

「それが問題なんだよ」

「……犯罪者になる予定でもあるの?」

「時限爆弾抱えてるんだよね。彼女」

「教え子か……」

 電話特有のノイズが混じっても、絶句した表情が目に見えるようだった。

「否定はしない」

「イバラの道を選ぶんだね」

「幻滅した?」

「いいえ。私にしとけばいいのにって思っただけ」

 ころころと笑う声が聞こえる。

 元気がないからと心配して電話をかけてくるような奴だ。一緒にいて楽しくない訳じゃない。だけど

「夏木は幸せにしたい人じゃなくて、幸せになってもらいたい人……なんだよ。俺の中では」

 お前は俺に勿体ないくらい良い奴だから。

「なんだそれ。絶世の美女を振ったこと今に後悔するぞ」

「お前はいい友達だと思ってるから」

 やれやれと言わんばかりの溜息。

「私より大事な子なんでしょ。早く迎えに行ってあげられるといいわね」

「……うん」

 誰かに認められる、そんな何気ない事ひとつで俺はいくらか自信が持てた気がした。

「ちゃんといつもの秋田に戻った? 元気でた?」

「元気でた! ……夏木、ありがと」

「ん」

「夏木は俺じゃない誰かと幸せになってよ」

「イケメンの石油王捕まえるわ、おやすみ親友」

「おやすみ」

 ──早く迎えに行ってあげられるといいわね。

 払い除けた手を掴めと夏木は言った。

「卒業したら良いよなぁ? 親友?」

 いつの間にか空っぽになったペットボトルに視線を落とす。

「帰るか」

 誰もいないけど言いたくなった。



11


 梅の花が咲き、桜のつぼみが色付き始めた3月。

 卒業生は紺色のセーラー服の襟元、黒い詰襟の胸元にそれぞれ桜の花を模したコサージュを付けていた。

「秋田先生ー、クラスでもう1枚写真撮ろー!」

 教え子たちに両腕を掴まれて強制連行。写真に応じる。

「あきちゃーん! 陸部にも顔出してくださいよー」

「俺、文芸部の顧問なんだけど」

 文句も聞かずに強制連行。写真に応じる。

「先生ー! チトセとツーショット撮ってよ」

 腕を絡ませ強制連行。写真に応じる。

「瑠奈ちゃん! こっち来てよ、先生と撮ろ!」

 仲間が増えた。スリーショット。写真に応じる。

「秋田先生! 6組ウィズ秋田で撮りましょう!」

 何を言っているんだ。このメガネは。写真に応じる。

「先生ー! カナメ呼んで来るからちょっとここで待ってて!!」

「今まで逃げた覚えはないよ!?」

 束の間の休息。長い黒髪の少女を探す。

 今日が最後のチャンスだから。一言だけでいい。2人で話せる時間をください。お願い、まだ帰っていないで。

 キョロキョロと辺りを見回す。彼女が見つかる前に先程の少年が、姿を現した。

「待たせてわりぃ! カナメ連れてきた!」

 全然大丈夫と不安を顔に出さない様に取り繕った笑顔で写真に応じる。

「ありがと! 2組の女子があきちゃん探してたぜ」

 少年らに手を振って見送る。

 時計の針が進むほどに校門付近の人は疎らになっていた。俺はただ焦ることしかできなかった。


 式が終わって1時間がたった頃。

 お祭り騒ぎで興奮していた生徒たちは残すところ20人程に減っていた。──春川桜子はいなかった。

「帰っちゃったか……」

 これで今度こそ会えることはないだろう。1度ならず2度も同じように離れ離れになってしまうなんて。

「不甲斐ないなぁ」

 誰かに伝わることなく呟いた言葉は春の空気に飲まれた。

 意味もなく足は教室に向かった。

 全ての生徒が巣立った教室には誰もおらず、ただ黒板だけが陽気な寄せ書きに変わっていた。

「お前ら本当にこういう所……大っ好きだからな」

 在校生が書いてくれた“卒業おめでとう”の文字のまわりには教え子たちが俺に向けてサプライズメッセージを書いていた。

 40名のクラス全員分。先程の落胆を頭の隅に追いやるほどの衝撃だった。思わず1人ずつ読んでいってしまう。黒板の右上から順に読み進める。

 ありがとう、楽しい一年だった、また会いに来ます……

 どれも嬉しい言葉に溢れていた。

 左下の隅っこ。最後の言葉はあの見慣れた字で書かれていた。

「学級日誌 春川桜子」

 小首を傾げ、教卓から日誌を取り出す。

「3月3日、春川桜子

 こうていのさくらはさいていなかったけど、みんな

 うれしそうなかおでした。

 えがおいっぱいのそつぎょうしきでした。あきたせ

 んせいのおかげです。これからもげんき

 でいてくださいね。

 またあいにくるよていですから。

 つらいことも、しあわせなこともすべ

 てみんながいてくれたからできたおもいで。つぎあつま

 るときはせいじんしきかな?」

 2ページに渡って書き記された学級日誌。

「……わかりやすすぎるだろ」

 片付けにおわれる職員らに体調が優れないから、みたいな取ってつけたような理由で帰宅の意思を述べる。嘘八百? どうとでも言いやがれ。

 玄関で栗色の髪を綺麗に結い上げた後ろ姿に声をかける。

「夏木、ありがとう。行ってくるよ」

「おせぇよ、バカ。行ってらっしゃい」

 悔しいとも嬉しいとも言えないような顔で見送られる。

 どこが体調不良と見えるのか、走りにくい革靴で駅まで一直線に猛ダッシュ。

 あの日、君に言えなかった言葉を伝えたい。間違ってしまった言葉を取り消したいんだ。


 生徒達の帰宅ラッシュは過ぎたようで、電車はガラガラに空いていた。ちょうど彼女とそこで会った日に似ている。

 なんて伝えよう? ごめんなさいが言いたい。もう二度と君と離れるようなことは嫌だ。会いに来てくれてありがとうって、今更だけど伝えなくちゃ。俺がのは“まゆ”だけど、俺がは“春川桜子”、君だから。今まで言えなかった想いを全て伝えたい。


 最寄り駅で降りて、そのまま走る。そろそろ身体が悲鳴を上げ始めていたが、鞭を打ってひたすらに走る。

 いつまでも待たせてばっかじゃ悪いでしょ?

 呼吸が荒いのは年甲斐もなく緊張しているからだろうか。体力の衰えなんて言葉は見て見ぬふりをしよう。

 公園脇の自販機では今日は何も買わなかった。

 キーコ、キーコ、キーコ

 閑静な住宅街に錆びたブランコを漕ぐ音が響く。


 春風が鼻腔をくすぐる。

 セーラ服の襟だけでなく、たおやかな黒髪までも揺れた。乱れた長い髪の隙間から白い肌が覗く。伏し目がちに閉ざされた瞳がこちらに向く。

「待たせてごめん」

「来ないかと思ってたよ」

「会いに来ちゃった」

 彼女は困ったような笑顔で頬を緩めた。

 もう間違えてはいけない。

 次こそこの手を離してはいけない。

 逸る鼓動を鎮めるように深呼吸を2回。目の前に座る彼女の目を真っ直ぐに見る。

「まゆ、いや、春川桜子さん。今度こそ貴女の手で俺の初恋を終わらせてください。貴女と幸せになりたいって思ってもいいですか」

 もともと大きな目が更に大きく見開かれる。

「ようちゃん、貴方となら喜んで」







「ようちゃん、準備できたよ」

「……本当に俺の初恋に終止符を打ったんだな」

 目の前の花嫁はいつの日かと同じように笑った。

「生まれ変わって会いに来たしぶとさが持ち味だからね」

「それもそうか」

 式場の窓から満開の桜の木に視線を移す。何年と月日が流れてもこの美しさは変わらない。あの日の思い出は散ることなくこれから先も覚え続けることだろう。

「桜の花言葉にさ、“私を忘れないで”っていう意味があるの」

 ──君を忘れた試しは無いよ。

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葉桜の君に(改稿前) 佐藤大翔 @soosoo

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