今だけできるアリバイ証明

小石原淳

今だけできるアリバイ証明

「やあ、お待たせお待たせ」

 取調室で待たされること数分。予想外の笑顔で刑事さんは入って来た。ただ、目だけ見るとちょっと作り笑いっぽい。確か仁藤にとうという名前だったが、今は“にたぁ”って感じ。

「緊張してるみたいだな。まあ初めてだったらそんなもんさね。それにこの状況、私も初めてなんだよな」

 一瞬、何を言ってるんだこの人はと我が耳を疑った。大ベテランとまでは行かずとも、四十になるかならないかくらいに見える刑事が、取り調べが初めて……?

 少し考えて僕の疑問は解消した。念のため確認しておこうと思い、およそ二メートル先に座っている仁藤刑事に尋ねる。

「それはこの距離感が初めてという意味ですか」

 僕と仁藤刑事、それにもう一人いる書記か何かの若い刑事の三人は、ほぼ正三角形の位置関係にある。一辺の長さは二メートルちょいあるだろう。無論、三人ともマスク姿だ。刑事二人は手袋まで着用している。

「ああ、もちろん。この部屋、普段は会議なんかに使うんだ」

 道理で、出入り口にある部屋の名札が手書きで「取調室」と張り紙されている訳だ。

 前後にあるドアはさすがに閉じられているが、廊下と反対側の窓は全開。ただしブラインドが下ろされている。今日は真夏の太陽がじりじりと照りつける晴天だからいいものの、雨風のきつい日はどうするんだろうと、他人事ながら心配になった。

「で、何で呼ばれたのかは知ってるんだよな。I大学一年生の門脇辰喜かどわきたつき君?」

「参考人聴取だ、みたいなことを言われましたが」

「じゃなくて、事件のこと。何の事件で呼ばれたのか」

「……田中奈水たなかなみさんのことですか」

「そう。分かってるんじゃないか」

 仁藤刑事の笑みが収まり真顔へと転じた、ように見える。

 田中さんはI大学クイズ研究会の一年先輩で、故郷が同じとあってかそれなりに親しく話をさせてもらっていた。多分、同時期に入った一年生の中では女子のはたさんに次いで親しかったろう。

 その田中さんが二週間ほど前に亡くなった。住んでいる旧いマンションの屋上から転落したと言われている。遺書の類はなく、靴が脱いで揃えてあったなんて状況でもなかったそうで、少なくとも自殺ではないと思われていた。事故か他殺か過失致死、そのいずれかであろうと捜査が進んでいるとは噂に聞いていたが、まさか自分が引っ張られるなんて。

「学生さん相手だし、まだ今のところ十九歳といったら未成年だし、早めに済ませたいんだ。とりあえずアリバイ、聞かせてくれる?」

 仁藤刑事は離れたテーブルで両肘をつき、左右の手を組んだ。じっと見つめてきている。

 僕はすぐに答えた。

「アリバイって、いつのですか」

「うん?」

 わざとらしい仁藤刑事。恐らくとぼけているに違いない。

「田中先輩が亡くなったのがいつなのか、僕は聞いていません。報道も多分されてないと思うんですが」

「ああっと? 言ってなかったっけ。おい野原のはら、おまえは彼に言ってないのか」

「言ってません」

 野原と呼ばれた書記?の人は、素っ気なく答えた。表情は見えないけれども、もしかしたら苦笑いでも浮かべてるんじゃないだろうか。「また仁藤さんやってるよ、同じ手ばかり使ってる」なんて風に。

「田中さんが亡くなったのは、先月末の夜八時から十時に掛けてだ。即死したとは限らんらしいから、実際に聞きたいアリバイは同じ七月三十一日の午後七時から午後十時、いや、十一時にしておこうか。どうだい?」

 七月末というと、元々のスケジュールでは前期試験最終日で、多分、どうにかこうにか乗り切って、クイズ研究会の皆さんと一緒に打ち上げをしているはずだったんだけど。感染症が大流行しているせいで、何かとおかしくなってしまった。

 I大学では遠隔授業で対応できるものは遠隔にし、無理なものは延期となっている。問題は評価の方法だが、筆記テストまで遠隔で行うのはやはり難しいらしく、持ち込みありの科目を除くと、延期かレポートで代用するかそれまでの授業の出席状況などで判定するかのいずれかの措置が執られていた。

 このようにI大学の関係者は、かなり真摯に感染症対策にいそしんでいるように思う。事実、感染者はゼロだ。感染したら遊び歩いている証拠と見なされかねない雰囲気がなきにしもあらずで、みんな極力出掛けないでステイホームしている。

 だからアリバイと言われても困るのだ。

「その時間帯は、自宅アパートの自室にいたとしか」

「そうかー、困ったな-」

 全然困ったようには見えない仁藤刑事が言う。

「誰も訪ねてこなかった?」

「ええ。だって外出自粛ですから」

「どこかに行かなかった? 遊びには行かないにしても、食料の買い出しとか」

「あいにく、その前日に買い物に行ったばかりで」

「んー、なるほど。コロナのせいで何も証明できないと。気の毒だけどだからといって我々も手心を加える訳に行かないし、長く厳しい日々になるかもしれないよ」

 何だこの言い種は。暗に自白を迫られているように聞こえるんだけど、気のせいか?

「じゃあ、刑事さん、教えてくれませんか。何で僕が疑われているのか」

「うーん、普通は頼まれたからって簡単には教えない。こっちにはこっちの計算があるから。だけど現状のままだと君も我々も動きようがないよな。何らかの突破口になることを期待して、特別に明かそう。門脇君が田中さんと親しいからっていうだけじゃないんだよ。

 そもそも被害者のマンション、屋上に簡単に出入りできるのはおかしいよな。通常、屋上へ出ることは禁じられているそうだ。ただ、旧いだけあって屋上へと通じるドアにかなりがたが来ていてね。ノブのすぐ隣に押すとへこんで向こう側が見える程度の穴ができている。そこから手を突っ込んで、外側のノブにあるターンを回せばドアの開閉ができることが分かった。と言っても小さな穴だから一般の男性はもちろんのこと、女性でも難しい。田中さん自身の腕でも入らないと分かっている。

 翻って門脇君。君は男にしては相当な細腕だ。少なくとも計算上は、あのドアの隙間から手を突っ込んでロックを解除できると思える。田中さんに近い人物で、それができるのは君ともう一人だけなんだよね」

「誰なんですかそのもう一人って」

「そこまでは明かせない。君には関係ないことだろう」

 ぴしゃりとはねつけられた。僕は言われたばかりのがりがりの腕をさすりながら、どうすればいいのか考えた。

 実を言うとアリバイの証明は無理でも、アリバイの主張だけならできるんだが……言うに言えない事情があった。決心が揺らぐとしたら、この取り調べが延々と続いて意識が朦朧としてきたときだろうか。そんな状態でかつ丼を食べたって、味なんかしないんだろうな。

 と、不意に部屋のドアがノックされた。野原刑事が仁藤刑事とのアイコンタクトの後、席を立って応対に出る。廊下で話をし始めたが、中にいる僕や恐らく仁藤刑事にも内容は聞こえない。

「仁藤さん!」

 血相を変えてとはこのことだろう。野原刑事が倒れ込みそうな勢いで戻って来ると、仁藤刑事のすぐそばに立った。二メートルどころか二十センチも離れていない。耳打ちしようとするのを、仁藤刑事は嫌った。僕の方へ視線を振りながら「彼に聞かれちゃまずいことなのか?」と部下に問う。

「えっと、いえ大丈夫、かも」

「分からん! もういいから距離を取って話せ。俺、万が一にも感染したら母ちゃんに殺されかねないんだよ。子供がいじめられるって」

「はあ。その感染なんですが、同様に事情を聞いていた畑雪子ゆきこが向こうの取調室で倒れて、病院に搬送されたそうです」

 え? 畑雪子って同じクイズ研究会の畑さんじゃないか。

「何だ? ウイルスだってのか?」

「検査はもちろんまだですが、別の情報があります。二三日前に感染していると分かったヘアサロンの店員がいたでしょ」

「ああ、あのありがたみの薄いカリスマか」

「そこの利用者の一人が畑雪子で、いわゆる濃厚接触者に該当します。これは感染を疑わざるを得ないでしょう」

「そ、そうだな。だが、こちらの聴取は続行だろ?」

 仁藤刑事がこちらを向いた。

 僕は椅子を蹴るようにして立ち上がった。

「刑事さん、僕も検査をお願いします!」

「――んあ? 何でだよ。同じクイズ研と言ったってコロナのせいでまともに活動できてないから、会ってもないんだろ?」

 首を傾げる仁藤刑事に、僕は数秒の逡巡を経て、決意を翻すことにした。

「僕は畑雪子さんとお付き合いをしていて……その、七月三十一日の夜にも会っています。彼女、新しいヘアスタイルになっていた」

「――早く言え、ばか」

 仁藤刑事は後ずさりをしながらも注意をしてくれた。

 本当の意味での濃厚接触をしていたと言ったら刑事達はどんな反応をするのか、想像してみた。

 が、熱っぽさを急に覚えた僕はこめかみを押さえた。


 終わり

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今だけできるアリバイ証明 小石原淳 @koIshiara-Jun

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