「あ、あのう、塾に電話を入れても良いですか」


高校生にもなって自転車でズっ転け、知らない女性に病院までついてきて貰っていると言う僕にとっては不都合な、奇妙な状況の中でようやく話を切り出した。


もう太陽が地平線に重なりかけていた。


「もしかして今から塾だったの?」


僕を助けてくれた女性が、茶髪の巻き髪を揺らしながらこちらを振り向く。



「はい」

目を合わせずに答える。



「じゃあ早く連絡入れなきゃじゃん。

私のことは気にしないで電話かけて」


「すみません。ありがとうございます」



年上の女性の扱いはよく分からないから、

とりあえず丁寧に返事をしておく。彼女は大学生くらいだろうか。



電話をかけるため、怪我をした左手を使わないようにしてスマートフォンを耳に当てる。



2コール目、次で出るかな、

などと考えていると、彼女が振り返らずに



「あ、あと敬語じゃなくて良いよ。

制服と、名前の刺繍で分かったけど、

あなた、私のクラスメートだから。」


と訳の分からないタイミングで訳の分からないカミングアウトをした。


そのせいで、

「..は?あ、もしもし、青葉ですよ。」

という訳の分からない文句で塾の電話に答えてしまった。


それを聞いた彼女、いやそいつは吹き出しながらあえてこちらを振り向かない。

そいつの背中を睨みながら僕は気を取り直して、


「あ、すみません。

あの、校舎に向かう途中で怪我をしてしまいまして。

はい。このまま病院に行きます。 

はい。母には自分で連絡できます。

あー、そうですね。手の平なんですが、

何針か縫うかも..

いえいえ!左手なので。

学業に支障はないかと。

大丈夫です。明日、補講に行きます。

よろしくお願いします。失礼します」


大人に好かれる対応をきちんとする。



「めっちゃ喋るじゃん。

何、君、塾の先生に恋しちゃう系の男の子?」



少しは黙れないのかと思いながらも、

「そんな訳ない」

と僕は至って冷静に返す。



「私にはあんまり懐いてくれないんだねぇ、

こうやって色々してあげてんのに」



「ほんとありがとうございます」


言葉に気持ちを込めるのは難しかった。




「君、気に入ったわ」


「......」



僕は予備校の松田先生との電話を終えてから、彼女がカミングアウトしたことについて考えていた。

コイツ、本当に僕と同じクラスなんだろうか。

というか昨日、教室にこんなヤツいたか?


いや昨日に限らず、だ。


2年2組が集まったどの日にも、こんなヤツは見なかった。


しかも何だこのチャラけた髪の色は。

うちの学校は染髪禁止だ。

定時制...な訳ないしな。不登校なのか?

目を瞑り、じっくりと記憶を辿ると確かに、教室の窓側に、最後列が一席空いている映像が脳に映し出される。


あそこか。なるほど。


「え、何で目瞑ってんの。

そんなに痛いんですかあ?」


心配しているようだが目が笑っているんだよ。妙に上がる語尾がうざったい。


「いや、君がクラスメイトだった記憶が無かったから。君は学校に来てないの?」


「あ、バレちゃった?」


「僕は同学年の生徒の顔はもう大体見た。

しかし君の顔は見たことがない。よく進級できたね」


「痛いとこ突くね」


一昔前のギャグ漫画のキャラがするような表情をしてまたこちらを向く。


不登校のお前に嫌われたところで僕の学校生活には何の影響も無いんだよ。


「保健室登校?」 


「特別にね。私は頭が良いので」

と言いながら、が高々とVサインを掲げる。



言うことやること全部が人を苛立たせるみたいだ。心の内で散々罵倒してやりながら暫く黙っていると、



「わ、次の信号点滅してる!

間に合うかな」


と言い出した。



無理だろ。というかまだ出血が止まっていないのでゆっくり歩きたい。


「間に合わす!」


そいつはいきなりそう言い放って他人の(僕の)自転車に飛び乗り、僕の右手を勢いよく引っ張って走り始めた。健康な自分は自転車で、出血してる怪我人は足で走れってか。


国道の横断歩道の信号は比較的点滅の時間が長い。久々の運動で息が切れる。

皮肉にも僕は傷の無かった右手まで痛めそうだが、間に合いそうだ。


"天野外科"という看板が少し遠くからこちらを覗いているのが見える。


夕陽が色とりどりのブロックで敷き詰められた歩道を照らしていて美しい。






何故か、その光景には見覚えがあった。





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僕にはピアノしか無かった。 珀桃 @the_apple

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