ドジで間抜けなウロボロス
ともかく、あの店員のことしか考えられなくなった。
一目見ただけの、名前も知らない人間によって、何十年もかけて堅牢にしてきた自意識の城が、一瞬にして陥落してしまったのだ。
認めたくはない。認めるということは、自分の今までを全て否定するのと同じだからだ。だが、これほどまで「気持ちいい」と感じたことは、今までの如何なる時でもなかった。
その事実が、一万回の慰めで構成されている私の口を弛緩させ、涎を垂らさせる。
枯れ葉のような蝶のことなど、すっかり忘れていた。今の私は、蝶を貪り食う蜘蛛になりかけていたのだから。
悶々とした気持ちは肥大し続けた。夜は眠れず、息は苦しい。あの店に今すぐ出向いて、この思いを全て打ち明けてやりたい。あまりに野性味溢れる吐露によって、禿げ頭の男性は泡を吹いて失神し、彼女は「ワイルドなオトコがタイプだったの」と告白を受け入れてくれるだろうか――
連日のように、彼女を手に入れる為の方法を思いつめ、結果的に「もし上手くいったら」の仮定のもと、妄想劇が繰り広げられた。
その中の彼女は甘噛みが上手かったので、自分の腕や脚に何個もの歯形が付くことになった。
自分の身体を食らって快楽に浸るのは、ドジで間抜けなウロボロスだけではなかったのだ。
ある日、野暮用が天から降ってきた都合で、あの店に向かうことになった。
まるで予想だにしなかったが、私はこれを「運命」だと思った。天の啓示にはこう記されていた。
『汝、告白せよ。さすれば、女の甘噛みを受けん』
仮にきっぱり断られたとしても、だ。その時は、甘酸っぱい青春の一幕として胸に秘めればいい。甘噛みの痕が痛むかもしれないが、時が癒してくれるだろう――私は万感の思いを込めて、ガラス扉を押した。
店の中には店員がいた。その髪は時間の経過で随分と長くなっていたが、あの時の面影はそのままだ。
胸がざわつく。嫌な予感が去来する。しかし、ここで勇気を振り絞らなければ、人々が美しい世界を生きるのを、マスをかいて観察するチンパンジーに逆戻りだ。
彼女と目が合った。さあ、約束の時間だ。「好きだ」と言え。「好きだ」と。神のお導きだぞ。早く。そうすれば、ほら。美しい世界で、じっくり甘噛みしてもらえるぞ。今度は堂々とだ。誰にも文句は言われない。早く、言え。こら、下の方は主張するな。ほら、スウェットパンツがもっこりとして――
おっきが最高潮を迎えた時、初恋の店員が見知らぬ声で語りかけてきた。
「カスミなら、あんたが理由で辞めたわ」
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