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 生活臭をつきつめたような潮の匂い、と波の音。港の一角を占める倉庫街にグッドマンはいた。夜の海は得体が知れない。空と海の境界があいまいでそこから先、自分を支えてくれる確たるものが存在しないように思えるのだ。明確なラインを引いて世界を啓いていく分類学を、グッドマンは好ましく思っている。

 コートの裾をつまんで少女が後を着いて来ている。車に残しておくこともできたがどう言ってもついてくることがわかっていたので、グッドマンはさせるがままにしていた。

 目的の倉庫は施錠されていなかった。少女が指さした。グッドマンは導かれるように光がもれている通用口をくぐった。コンテナがふたつほどあるだけで、倉庫はがらんとしたものだった。確かに人の気配はあった。目が慣れてくると、その全員が地面に倒れていることがわかった。眠っているようだった。死んではいなかった。銃撃戦があったようにも見えない。グッドマンが訝しんでいると、少女が男のひとりに近づいて、顔に貼りついているサングラスを剥ぎ取った。グッドマンは気がついた。倒れている全員が全員、似たようなサングラスをかけている――。

「グッドマン、この眼鏡スペックスはね、物をよく見るためのものじゃないの」

 少女がスペックスを手に近づいてくる。

「使用者のデータベースを参照して、その人が『もっとも欲しているもの』を見せる、そういうデヴァイスなのよ」

 少女が背伸びして、グッドマンの顔にスペックスをかけようとする。

「ずっと見続けられるの」

 そこは雨上がりの庭だった。芝生が、夕立の後の燃えるような日差しに輝いて、その中を十七歳まで飼っていた真っ黒なボクサー犬が跳ね回っていた。バスケットゴールのネットはとっくの昔に風雨にやられてなくなっていて、真っ暗になるまでシュートの練習をしているとついに自分のボールが本当にゴールに届いているのかわからなくなったものだった。キッチンの窓からは母がこちらを覗いており、匂いから少し早めの夕飯が用意されていることがわかった。なにかの、誰かのアニバーサリーだったのかもしれない。勝手口から出てきた母が、犬と跳ね回っていた自分を呼んだ。もうご飯よ、ヨシオ――

 違う。グッドマンはスペックスを剥ぎ取った。懐かしさで吐き気がした。気がつくと両手をついて座り込んでいた。馬鹿になった涙腺からは涙がとめどなく溢れた。視界の隅で帽子が転がっているのがわかった。

 少女は――帽子をつかみ、グッドマンは力の入らない身体を叱咤した。

 少女は胎児のように身体を丸めて、涙を流していた。顔にはしっかりとスペックスが貼りついていた。グッドマンはできる限りの丁寧さで彼女のスペックスを剥ぎ取った。

 彼女は泣きじゃくりながら叫んだ。

「かえして! かえしてよあたしのスペックス!」

「だめだ。これはだめだ」

「あたしはみんなと一緒がよかった! 特別なんていらない!」

「違う。世界はもともと苦痛に満ちていて、ろくでもない場所だ。そんな世界にどう向き合っていくのか、それからは逃れられない――それが、現実だ」

「あたしはそんなに強くない」

 少女は別の男からスペックスを剥ぎ取って、顔に貼りつけた。

 グッドマンは足首のホルスターから38口径を抜いた。銃声が響き、そして彼はおとなになった。


【了】

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スペックス 川口健伍 @KA3UKA

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