気持ちに寄り添った文体、これが本来の技術というもの

他の方たちも触れられている通り、3話仕立てのこの小説の1話目と2話目には独特の文体が用いられています。これは主人公である葉太くんの一人称小説なのですけど、1話目と2話目の地の文(葉太の語り)は、句読点が打たれることなく、滔々と、延々と、途切れなく、長い文章が続いていきます。もちろん、長文を破綻することなく成立させているその文章力の高さ自体素晴らしいのですけど、本当の素晴らしさは別のところにあります。

なぜ1話目と2話目にこのような特殊な文章表現が用いられているのか。さらに、なぜ3話目だけが通常の一般的な文体になっているのか。

ネタバレになってしまうので、詳細は語れませんけど、葉太くんをある出来事が襲います。それは理不尽で悲しい出来事なのですけど、その出来事に対して葉太くんがどう感じたのか、彼の内面、気持ちの描写は一切出てきません。

その出来事に対して、つらかったとか、悲しかったとか、やりきれなかったとか、なんでだよふざけんなよとか、通常なら感じるであろう気持ちを、葉太くんは一言も言っていません。でも、そんな内面描写がないにも関わらず、葉太くんはその出来事をずーっと引きずっていて、吹っ切れなくて、7年経っても未だに気持ちの整理がついていないのだろうな、ということが分かるのです。

なぜかというと、1話目と2話目にあの特徴的な文章表現が用いられているからです。

1話目と2話目で用いられている、途切れることなくやたらと饒舌で過剰でどこか自虐的で歯止めが利かない長い文章、何かに追い立てられるように滔々と紡ぎだされる言葉の羅列それ自体が、葉太くんの本当の気持ちを表している、私はそう感じました。

恐らく、凡庸な作家であれば、葉太くんの気持ちをそのまま何の工夫もなく詳細に描写することでしょう。そんな小説はもしかしたら、詳細な内面描写が素晴らしい……なんていう誉め言葉をもらったりするかもしれません。

この小説で用いられている表現方法は正直言って分かりにくいですし、気づかれにくいです。でも、本当に優れた技術というものは、優れていればいるほど目立たないものです。ただ単に技術をひけらかすためだけの技術ではなく、きちんとテーマに沿った技術であればなおさら。

この小説は1話目と2話目の特徴的な文章表現を経て、最終話で一般的な文章表現に戻ります。2話目と3話目とは時間的にも大きな隔たりがあり、さらに具体的には語られていませんけれど、葉太くん自身にも変化があったと想像できます。つまり、1話目・2話目とは明らかに葉太くんの内面は変化しています。その変化に伴って文体もまた、大きく変化しているのです。

ただ単に優れた文章力を表出しようとしているのではなく、登場人物の気持ちとその変化を表現するために特徴的な文体を駆使した、表現技術とはこういうことなのだという見本のような優れた小説だと思います。素晴らしいです。

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