雨の日の幸せ

北見 柊吾

ある雨の日

 外は、雨が降っていた。まるで雨が降っていることを主張するかのようにざあざあと雨粒が騒がしかったから、わざわざ窓の外を確認せずとも、それは事実として俺のなかに存在していた。


「まだ降っているねぇ」


「そうだな。まだ二、三日はこんな天気だとさ」


「えぇ、嫌。なんとかして」


「無茶言うな。そんなことができるなら、俺はそれで金儲けをする」


「このご時世じゃ、そんなに需要ないでしょ」


「……そうか」


 俺がパソコンで新しい小説を書いている間、萌はベッドに寝転んでスマホをいじっていた。


「ねぇ、終わった?」


「もう少しだけ待っててくれ。あと、数分で終わるから」


 俺は珈琲を口に運ぶ。それから萌にチラリと視線を投げる。


「そういえば、いいのか? なにか用事があるんじゃなかったのか?」


「こんな雨じゃ、帰りたくない」


「へぇ、ただの長雨かと思ってたけど、遣らずの雨になるとはな」


「なに、それ」


「萌が帰るのを邪魔するように降る雨。お前をここから逃がさないための、」


「うん、そっか」


「そっけないな」


 天気予報の言う通り、雨はやみそうになかった。止む気はないと言わんばかりにいたずらに雨音を鳴らしている。


 キーボードをたたく音と窓を叩き続ける雨の音が部屋のなかに響き渡る。二つの音は決してまじりあうことも強め合うこともなく、不協和音のように存在していた。


「ねぇ、ひま」


「なにかするか?」


「じゃ、しりとりしよー」


「どうぞ。なにから?」


「り。リービッヒ冷却器」


「久しぶりに聞いたな」


「いいでしょ、ほら、き」


「喜怒哀楽」


「その言葉があなたから出てくるとは思わなかったけど」


「少なくとも、『怒』は持ち合わせている自負がある」


「そうね、よかったね」


「く」


「九谷焼」


「キツツキ」


「えーっと、あ、キーボード」


「今、俺の方を見て思いついたな」


「いいでしょ、雨やまないんだし」


「理由になってない。ドレッドノート」


「なに、それ」


「昔の戦艦。超ド級っていうだろ? あのドっていうのはそのドレッドノート以上の戦艦が出てきたときに、」


「トートバッグ。欲しいんだよね、新しいの。買って」


「また今度な。グリズリー」


「り? い?」


「り。グリズリーに対するツッコミはなしか」


「あれでしょ、動物でしょ?白クマさんと幼馴染の」


「それはアニメの話だろ」


「現実世界でも仲良いよ、たぶん。白クマさんに冬眠を邪魔されてるって」


「そんなわけない。ほら、り、だぞ」


「立体起動装置」


「今度は本棚を見たのか?」


「え? あぁ、違う。アニメつながり」


「そうか。あー、ち、だったな。鎮魂歌」


「もうちょっとマシな語彙ないの?」


「ない。ほら、か」


「冠番組」


「……お前の言葉のチョイスも、俺とそんなに変わらないぞ」


「私はテレビっ子だったから」


「そうか、それならそれでいいや。ミンダナオ島」


「またそれ? しりとりの時、いつもそれ言うじゃん」


「次、う」


「別にいいんだけどさ。えーっと、雨後の筍」


「珍しいな。意味は?」


「雨が降った後はタケノコがよく生えてくる」


「……意味は?」


「今言ったじゃん」


「お前……山が綺麗に見えたら明日は晴れ、的なことか?」


「そうじゃないの?」


「あぁ、違うけど。いや、うん。合ってると思う」


「意味は?」


「似たようなことが連続して起こること」


「へぇ」


「興味ないのか。教養として覚えておいて損はないだろう?」


「分かった。じゃあ、こ」


「コバンザメ」


「明太子」


「高利貸し」


「塩」


「お菓子」


「えっ、なに、その小学生みたいな回答」


 萌は、飛び上がるように上体を起こした。その勢いに、俺も手を止める。


「間違ったことは言ってないだろ?」


「そうだけど。あなた今、何してるんだっけ」


「小説を書いている。読むか?」


「読まない」


 また、雨音が部屋のなかを満たす。


「塩」


「お菓子」


「いやいや、だからさ、もっと難しい単語なかったの?」


「別に、難しい単語を言うルールもなかっただろ」


「今、何書いていたんだっけ?」


「……小説」


「例えば故事成語とかさ? なんか、難しそうな単語いっぱいあるじゃん」


「例えば?」


「えーっと、大江山 いくのの道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」


「誰?」


「誰だっけ。昔覚えさせられたからそれ自体は覚えてるんだけど、そういうの忘れた」


「他には?」


「他? 音に聞く たかしの浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ」


「じゃあ、それ」


「ダメ、自分で考えて。私がまだ言ってないのなら、百人一首でもいいよ」


「まだあるのか?」


「ある。えーっと、三つはあるかな」


「ヒントをくれ」


「思いわび」


「いや、最初だけ言われても。俺は百人一首なんか覚えていないから」


「それこそ、教養で覚えておこうよ。というか、中学の時に百人一首大会……あぁ、隣の私に任せて何もしてなかったっけ」


 いや、俺が何もしなかったというよりは、決まり字まで読まれたら取る猛者が隣にいたせいで仕事がなかった、というのが正しい。だが、そんなことを言おうものなら、「だったら一枚でも取れるようにひとつでも覚えなさいよ」と言われるのが関の山だ。


「難しい単語であれば、なんでもいいって。ほらほら、故事成語でも四字熟語でも」


「音楽活動」


「あのね、四字熟語でうまいこと言ったみたいな顔しないで。そういうの禁止」


「沖の魚は塩を知らず」


「なに、それ」


「沖に棲む魚が海水のなかで生活しているのに塩を知らないように、自分にとって大事なものがあることが当たり前になってしまっていること」


「作らないの。他の人も知ってるやつを言って」


「なんでわかった」


「顔」


 ベッドの上であぐらをかいて座ったまま、萌は呆れたと言わんばかりに大きなため息をついた。なんだかいたたまれなくなって、俺も少しは真面目に答えを考える。


「おかず」


「え、それで許すと思った?」


「オーロラ姫」


「あのね、私の好きなもの言ったからって許すわけじゃないから」


「オズの魔法使い」


「簡単じゃん。みんな知ってるでしょ?」


「俺はライオンさんが好きかな。名前、忘れちゃったけれど」


「私はドロシーかな。じゃなくて、しりとり。お、でしょ」


「温故知新」


「しりとり終わっちゃうじゃん」


「王政復古の大号令」


「それのどこが難しいの?」


「傍目八目」


「うーん、こうなった以上弱い。もっといいのないの」


 俺はキーボードを打つ手を止めて考える。これ以上、ぱっとなにも浮かばない。


「お?」


「お」


 萌は、いたって真面目な顔をしていた。こうなってしまったら、萌は一歩も引かない。


 ***


 萌は窓の外を見上げて言った。


「あ、やんだ」


「今だけだろ?」


 萌は窓の外を指差す。音は止み、つかの間、晴れ間がさしていた。


「ほら、ちょっと来てよ」


 西の空にはこのあと雨を降らせるだろう灰色の雨雲がいたが、見上げた空は澄んだ群青色をしていた。


「ねぇ、公園行こ。今なら、たぶん誰もいないよ」


 引っ張り出されるように連れていかれた公園はどこもかしこもぬかるんでいて、とても気分は高ぶらなかった。それでも萌は、鼻歌まで歌っていた。


「お、水たまり、たくさんできてるじゃん」


 少し雨のにおいに想いを寄せている間に、萌は水たまりのふちにしゃがんで、俺に向かって手招きする。


 取り立てて綺麗でもない。けれど、萌は見入っていた。


 萌は水たまりから両手で水をすくう。


「ほら」


 雨水だから濁って淀んでいたが、萌の手からこぼれる水滴は透き通っていて綺麗だった。


 水をすくって水たまりに垂らす。その作業を萌は楽しそうに繰り返していた。その様子をじっと見ていると、俺を見て萌はきょとんとした顔をする。


「どうしたの?」


「いや、ちょっとした考え事をしてた」


「なに?」


「これを、幸福というんだろうなって」


「そういうこと言って、恥ずかしくないの?」


 萌は顔を赤くして照れていた。


「恥ずかしさは、ない。むしろ、喜ぶべきところだろ」


「はいはい」


「萌」


「なに? 改まって」


「しりとりの続きを思いついた。お前が好きだ」


 萌は考え込んでいるような顔をして、変な間ができた。あぁ、そういうことか。俺は真意がわかって言い直す。


「お前が好きだわ」


 萌は笑った。


「私も、好きだよ」


 手をつなぐ。その手を萌も握り返してきた。


「部屋に戻るぞ」


「うん」


「雨もいいな」


「たまには、ね」


「大事なことを思い出させてくれたんだから。沖の魚は塩を知らず、だろ」


「じゃあ、今度からはそれも認めてあげる」


 隣で微笑んだ萌の顔は、何よりもきらめいていた。

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