第3話 心泰く帰する処は、何ぞ人世にのみ在らんや


一、


 翌日、袁傪えんさんは昨晩あったことを配下の者たちに伝え、一同はこの一連の出来事が人知を超えたものであることを改めて理解した。剣の腕が立つものばかりではあるが、一様に困惑し、その顔は皆暗い。

「閣下、ここは尚書しょうしょのお力を借りるべきではないでしょうか」

 一人の部下が言う。

「実のところ、儂もそう考えている。此度の件はおそらくは我らだけの手におえぬであろう。しかし……しかし、だ。ここから長安にとって返し、尚書の軍勢を連れて戻るとなるとゆうに十日はかかる。それだと、寅の月が過ぎ、かの神仙の言う"時期"を逸してしまうのではないか。儂はそこが気にかかっている」

 袁傪は眉間にしわを寄せ、素直に心のうちを吐露する。その言葉に配下の者たちも押し黙ってしまった。


「……閣下、それでは部隊を二つにわけるほかありますまい。一方はこのまま陳郡ちんぐんへと向かうもの、もう片方は長安の尚書へと伝え、兵部の軍勢を連れて戻るもの。どうか、私を陳郡へと向かわせていただきたく――」


 男は姓をとうあざなを仲といい、男の兄もまた袁傪に仕え、五人目の行方不明者となった者であった。

 さらには、袁傪と仲の兄、それにかの李徴は、同じ故郷で勉学を共にした友でもあった。ゆえに、仲のことは幼少の頃から本当の弟のように知っている。その仲においては、兄の死に計り知れない怒りを覚えているのであろう。袁傪の前で跪き、礼をするその腕が微かに震えているようにも見える。


「仲よ、お前の気持ちはわかるが、怒りに震え、冷静さを欠いたお前をみすみす死なせるわけにはいかぬ。お前は残れ」


「しかし!!」


 袁傪は陶の言葉を左手で遮り、そのまま部屋の入口に近いところに立っていた二名の部下に指示を出す。

「お前たち二人はこれより急ぎ長安に戻り、此度の件について尚書閣下に報告し、援軍を頼んでまいれ。儂の剣の一振りを閣下に渡し、事態は急を要する、と告げよ。残りの、、趙、ようの三人は儂と共に件の宿へと押し入る。


 そして、仲よ。お主はここに残り、もしも四日四晩のうちに――寅の月が終わるその日までに儂や他の三人が戻らぬときは、追ってやってくる尚書の軍勢と合流し、我らが入った宿ごと焼き払うように伝えよ」


 仲は何も言わず、項垂れたまま、袁傪の言葉が終わるのをじっと耐えていた。袁傪が「では、各々準備に取り掛かれ」とうながしてもなお、しばらくはその場にとどまり、おそらくは泣いていたのであろう、袁傪が立ち去るまで顔を上げることはなかった。




二、


「良いのですか?」


 汝水流域を河の流れに沿い、馬で陳郡の宿に向かう折、袁傪の横につけた馬上から胡が尋ねる。河面は寅の月の冷たい空気に磨かれ、きらりきらりと輝いている。


「何のことだ」

 袁傪は胡の方を振り返ることなく、問い返す。

「陶のことです。こう言ってはなんですが、陶は我々の中では――いえ、長安に残る我らの隊のなかでも最も剣の腕が立ちます。こちらに加えた方が良かったのではないかと」

 袁傪や胡の後ろについている趙や楊もおそらくは同じ思いなのだろう、じっと袁傪の答えを待っている。それを察してか、袁傪は馬を止め、他の者の馬が同じように止まるのを待ってから、ふうと一息吐いて答える。


「……腕が良いから、だ。

 仮に儂やお前たちがあの李徴のように人虎へと変わり、民や帝に害なすへとなり下がった時には、何とする? 宰相との最後の戦いからすでに十年を超えて平和が続き、今や宮中での権力や保身にしか興味のない"あの"尚書や、その配下の将たちではどうにもならぬであろうよ。今の長安には、あやつしか……陶仲しか人虎となった儂らを止めることはできまい。そういうための人選だ」


 胡は「そうでしたか」とだけ短く答えると、再び走り始めた袁傪の馬に続く。他の二人も無言でその後を追う。しかし、三人の配下の者たちの顔は先ほどまでと比べて、少しだけ厳しく、またどこか誇らしげにも見えた。



 そろそろ陳郡にさしかかるというところで、袁傪一行は傷ついた一人の男を見つける。それは先に偵察に向かわせた配下の者の一人であった。全身に酷い傷を負い、衣服は男の血でべっとりと濡れている。呼吸は荒く、おそらくはもう長くはもたないと判断した袁傪は短く「何があった」とだけ尋ねる。男は焦点の合っていない両の目を声のする方向に向け、必死に言葉を吐き出そうとする。その多くは意味のあるものにはならなかったが、途切れ途切れではあるものの最後の言葉を絞り出した。


 簡易ではあったもののこと切れた男の弔いを済ませた袁傪らは、最後に男が手渡してきた血に染まった白地の布切れを確認する。それはどうやら薬を包むためのものの一部なようで、そこには墨で薬の名前らしきものの一部と詩が一説書かれている。


 

  心 泰 帰 処 何 独 在 人 世


 (心が落ち着く安住の地が、何故人の世だけだというのでしょうか)




「……しかし、そのようなことがあるものでしょうか」

 配下の一人、楊がうめくようにつぶやく。その顔は険しく、それはまた他のものも同じであった。

「わからぬ。わからぬ、が――仲を残してきたのは正解だったかもしれぬ。今度ばかりは儂も危ういかもしれん」

 配下たちは口々に「そのようなことは」とか「閣下だけでも引き返して下さい」だとか、悲鳴にも聞こえる声で叫ぶ。



「宿に泊まると次第に咳が止まらなくなり、たまらず主人の薬を飲むと――――人虎になる、か」


 袁傪はやがて遠くに見えてきた件の宿を見ながら、険しい表情のまま、そうつぶやいた。



(続く)

 

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続・山月記 トクロンティヌス @tokurontinus

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