第2話 湖畔問答


一、


「まさかそのようなことがあろうとは……」


 袁傪えんさんは配下のものと顔を見合わせ唸る。

 しかし、今しがたこの下僕が語った内容は、七人目の行方知れずとなった袁傪の部下が、最後の連絡の中に記していたものと同じものであったからである。袁傪は、いよいよその汝水じょすいのほとりの宿に何かあるのだろうと確信する。


 袁傪は李徴りちょうの下僕であった男に幾何いくばくかの金を握らせ解き放ってから、汝水沿いの陳郡ちんぐん近くにあるという件の宿を目指すことにした。

 配下のもののなかには下僕の男に金を渡すことに嫌な顔をするものもいたが、そこが袁傪という男の性根というべきものなのだろう。事実、このお人好しの部分がなければ、とっくに兵部へいぶ尚書しょうしょになっていると長安でも噂するものは少なくない。しかし、一方でまた、そうでなければ商於しょうおにて虎となった李徴の言葉に耳を貸すこともなかったのであろう。




 一行が馬を走らせているうちに、辺りは薄暗くなっていく。



 寅の月の夜は早く、また冷たい。汝水のほとりにはいくつかの街や村があったが、それを少しでも外れると周囲に明かりもなくなることから、袁傪は陳郡へ向かう手前、近くの村に宿をとることにした。


 配下のものたちに明日に備えて早めに休むように伝えると、自分は長安の方角に夕日を送るために表に出る。


 しばらく人気ひとけの少ない通りを歩き、汝水と交わる場所まで出ると、古びた四阿あずまやが一つ見える。かなり痛んでいて額や柱の文字は読み取れず、あちこち塗装も剥げてしまっている。それでも、このような田舎町にしては珍しいものもあるものだと袁傪は中に入る。


 すると、年の頃は七十かそこらであろうか、老人が一人ぼんやりと汝水の流れをじっと見つめている。


「もし、ご老人。失礼だとは思うのだが、この寅の月の夜風は御身に良くない。早く宿に戻られるがよかろう」


 袁傪は老人の寒々とした恰好を気遣う。


「ふむ。これはこれは、お心づかい感謝する。ところで、その身なり――いずれかの位の高い御方とお見受けするが、何用でこのような寂れたむらになぞお出でになられたのか」

 老人は袁傪を値踏むようにじろじろと見ながらそう言う。



「……友を、何年も前に亡くしてしまった友のことを調べるためです」


 襤褸ぼろまとってはいるものの、顔にかかった乱れた白髪の奥からのぞく眼光の鋭さに、袁傪は思わず本当のことを口にしてしまう。老人の短い言葉の中には、不思議とそうさせるような力があった。


 老人は「そうか」と短く応えた後で、袁傪に背を向け、ぶつぶつと何か考えるような素振りをみせたかと思うと、もう一度向き直って今度はひどく薄汚れた冠をはずし、乱れた髪をさらに掻きむしる。そうすると、虱であるのか雲脂であるのか、とにかくそういうものが、ぱらぱらと老人の周りに舞っている。



「では、いずれか名も知らぬ大夫たいふよ。一つ答えてはいただけないだろうか。わたしは、"この冠を被るべきだろうか"。それとも被るにはおよばないだろうか」


 袁傪ははじめ、老人の言葉の意味がわからず、先ほど感じた畏怖のようなものが自分の思い違いであったかともう一度老人の顔をじっと見た。しかし、やはりその目にはいいようのない、何かの力を感じる――そして、次第にこの者はおよそ神仙か、あるいは狐狸こりのどちらかであろうと思うように至った。


 すでに人の世界となったこの世とはいえ、数百年も前にはまだこの大地に神仙や狐狸の類が跋扈ばっこしていたのである。事実、自分は虎となった李徴をこの目で見ている。そのようなものが存在していてもおかしくはあるまい。


 袁傪は隙をみせてなるものかと身構え、老人の問いかけへの答えを模索する。



「どうした、かような些細な問いにも答えられぬというのか? それほど難しい問でもあるまい」


 老人はさっきまでとは打って変わって、ニタニタとまるで袁傪を嘲笑うかのような笑みを浮かべて答えを催促すると、一歩、また一歩とゆっくりと近づいてくる。袁傪の額には汗が滲み、思わずじりじりと後ずさりしながら、腰の剣に手をやる。

 

「ほう? その剣でわしを切るというのか。いいだろう、やってみるがいい。なに、この枯れ枝のような身体を割くなど、実に簡単なことだ。早うそうするがいい」


 老人はげらげらと笑うと、また一歩ずつ袁傪に近づいてくる。

 

「御身が李徴を……わが友を虎の姿に変えたのか!」

 袁傪はいつでも抜き放てるようにと剣のつかをぐっと握りしめる。

「莫迦め。今はお主が儂の問に答える番じゃ」

 老人はかまわず歩みを続ける。その口元はぶつぶつと何かうたのようなものをつぶやいている。老人が近づくにつれ、その詩がはっきりと聞こえるようになる。


  挙世皆濁 我独清

  衆人皆酔 我独醒



 袁傪はその詩を聞き、また自分がどこにいるのかを思い出すと、剣にかけてあった手を放し、老人に向かって深々と頭を下げる。そうしてから、こう答えた。


「……失礼とは存じますが、御髪おぐしはひどく乱れているように見受けられます。ゆえに、そのまま、かぶるとよろしいかと存じます」


 すると、老人の動きがぴたりと止まり、今度は左右の口の端が吊り上がり不気味な笑顔が浮かび上がる。


「ははははは! では、もう一度、問うとしよう。儂は"身を清めるべきか否か"?」

「……御身が清らかなれば、衣も振って埃を払うものでしょう。それには及びません」

 袁傪は即答する。老人の口はそのまま割けてしまうのではないかというほどにゆがみ、もう誰が見ても、その老人が「人ならざるもの」であることは明白であった。



「良い。では、儂からの最後の問いとしよう。儂は、"何故、ここにおるのか"」



 最後の問いかけに答える前に、袁傪はひざまずき、両手を胸の前で組み、首を垂れる。


「……かつて、御身はその尊き清廉さによって、流罪となり、湖畔こはんをさまようことになったのちに、神仙へと昇華したと聞いております。しかるに、今はその逆さの御姿であるならば、この汝水のほとりで彷徨っておられるのではなく、目的をもってここに御座おわすものと存じます」


 老人が「いかにも」と短く応えたのに続けて、袁傪はそのままの態勢で続ける。


おそれ多くも、一つだけお答えいただきたい。李徴が人虎となったこと、また、わが配下の者が姿を消したこと――これは御身の力によるものでしょうか?」


 袁傪は下を向いたまま、老人の答えを待つ。いつの間にか日はすっかり落ちて、びゅうびゅうと冷たい風が吹いている。



「……わが力であることには間違いはない。元より、虎は儂の神威を象るものの一つであるのだからな。


「それはどういう――――」

 思わず袁傪が頭を上げた時にはすでに老人の姿はなかった。どこからともなく、あの老人の声だけが響く。



「……何者かが儂の力を盗んでおるのだ。奴らは儂の力を流行り病に変え、それを操っておる。今は儂の力が最も強く現れる寅の年、寅の月。袁よ、己の舌や鼻に十分に気をつけるがいい。けして、虎のそれにならぬよう、人のそれであるように」



 そう言い終わったかと思うと一層強い夜風が吹き、袁傪は思わず両手で顔を覆う。しばらくして、風が止むと、あたりにはただ暗闇のなかで静かに流れる汝水だけがあった。



(続く)

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