第2話 湖畔問答
一、
「まさかそのようなことがあろうとは……」
しかし、今しがたこの下僕が語った内容は、七人目の行方知れずとなった袁傪の部下が、最後の連絡の中に記していたものと同じものであったからである。袁傪は、いよいよその
袁傪は
配下のもののなかには下僕の男に金を渡すことに嫌な顔をするものもいたが、そこが袁傪という男の性根というべきものなのだろう。事実、このお人好しの部分がなければ、とっくに
一行が馬を走らせているうちに、辺りは薄暗くなっていく。
寅の月の夜は早く、また冷たい。汝水のほとりにはいくつかの街や村があったが、それを少しでも外れると周囲に明かりもなくなることから、袁傪は陳郡へ向かう手前、近くの村に宿をとることにした。
配下のものたちに明日に備えて早めに休むように伝えると、自分は長安の方角に夕日を送るために表に出る。
しばらく
すると、年の頃は七十かそこらであろうか、老人が一人ぼんやりと汝水の流れをじっと見つめている。
「もし、ご老人。失礼だとは思うのだが、この寅の月の夜風は御身に良くない。早く宿に戻られるがよかろう」
袁傪は老人の寒々とした恰好を気遣う。
「ふむ。これはこれは、お心づかい感謝する。ところで、その身なり――いずれかの位の高い御方とお見受けするが、何用でこのような寂れた
老人は袁傪を値踏むようにじろじろと見ながらそう言う。
「……友を、何年も前に亡くしてしまった友のことを調べるためです」
老人は「そうか」と短く応えた後で、袁傪に背を向け、ぶつぶつと何か考えるような素振りをみせたかと思うと、もう一度向き直って今度はひどく薄汚れた冠をはずし、乱れた髪をさらに掻きむしる。そうすると、虱であるのか雲脂であるのか、とにかくそういうものが、ぱらぱらと老人の周りに舞っている。
「では、いずれか名も知らぬ
袁傪ははじめ、老人の言葉の意味がわからず、先ほど感じた畏怖のようなものが自分の思い違いであったかともう一度老人の顔をじっと見た。しかし、やはりその目にはいいようのない、何かの力を感じる――そして、次第にこの者はおよそ神仙か、あるいは
すでに人の世界となったこの世とはいえ、数百年も前にはまだこの大地に神仙や狐狸の類が
袁傪は隙をみせてなるものかと身構え、老人の問いかけへの答えを模索する。
「どうした、かような些細な問いにも答えられぬというのか? それほど難しい問でもあるまい」
老人はさっきまでとは打って変わって、ニタニタとまるで袁傪を嘲笑うかのような笑みを浮かべて答えを催促すると、一歩、また一歩とゆっくりと近づいてくる。袁傪の額には汗が滲み、思わずじりじりと後ずさりしながら、腰の剣に手をやる。
「ほう? その剣で
老人はげらげらと笑うと、また一歩ずつ袁傪に近づいてくる。
「御身が李徴を……わが友を虎の姿に変えたのか!」
袁傪はいつでも抜き放てるようにと剣の
「莫迦め。今はお主が儂の問に答える番じゃ」
老人はかまわず歩みを続ける。その口元はぶつぶつと何か
挙世皆濁 我独清
衆人皆酔 我独醒
袁傪はその詩を聞き、また自分がどこにいるのかを思い出すと、剣にかけてあった手を放し、老人に向かって深々と頭を下げる。そうしてから、こう答えた。
「……失礼とは存じますが、
すると、老人の動きがぴたりと止まり、今度は左右の口の端が吊り上がり不気味な笑顔が浮かび上がる。
「ははははは! では、もう一度、問うとしよう。儂は"身を清めるべきか否か"?」
「……御身が清らかなれば、衣も振って埃を払うものでしょう。それには及びません」
袁傪は即答する。老人の口はそのまま割けてしまうのではないかというほどにゆがみ、もう誰が見ても、その老人が「人ならざるもの」であることは明白であった。
「良い。では、儂からの最後の問いとしよう。儂は、"何故、ここにおるのか"」
最後の問いかけに答える前に、袁傪は
「……かつて、御身はその尊き清廉さによって、流罪となり、
老人が「いかにも」と短く応えたのに続けて、袁傪はそのままの態勢で続ける。
「
袁傪は下を向いたまま、老人の答えを待つ。いつの間にか日はすっかり落ちて、びゅうびゅうと冷たい風が吹いている。
「……わが力であることには間違いはない。元より、虎は儂の神威を象るものの一つであるのだからな。しかし、儂の業(わざ)ではない」
「それはどういう――――」
思わず袁傪が頭を上げた時にはすでに老人の姿はなかった。どこからともなく、あの老人の声だけが響く。
「……何者かが儂の力を盗んでおるのだ。奴らは儂の力を流行り病に変え、それを操っておる。今は儂の力が最も強く現れる寅の年、寅の月。袁よ、己の舌や鼻に十分に気をつけるがいい。けして、虎のそれにならぬよう、人のそれであるように」
そう言い終わったかと思うと一層強い夜風が吹き、袁傪は思わず両手で顔を覆う。しばらくして、風が止むと、あたりにはただ暗闇のなかで静かに流れる汝水だけがあった。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます