続・山月記

トクロンティヌス

第1話 歴々たる汝水の流れは、人をして愁へしむ

一、


 人の口に戸は立てられぬというもので、隴西ろうさい李徴りちょうという人物が人喰い虎になったという一件は、しばらくの間、長安で人々の話題となった。あるものは恐ろしい人虎の話として、またあるものは虎になってもなお、詩歌を忘れなかった李徴を哀れんで、その名を呼んだ。


 しかし、それも代宗帝の御代となり、暦が大暦へと変わる頃には人々のなかからすっかり忘れ去られ、もはや都で誰も李徴の名を呼ぶものはいなくなっていた。



 それは、当の袁傪えんさんとて同じことであった。


 商於しょうおでの一件ののち、浙江せっこうにて賊の反乱を鎮め、また贅の限りを尽くしていた先の宰相の排斥にも功を立てたことで、武人としては異例の兵部へいぶ侍郎じろうにまで昇りつめたものの、本人にはそれ以上の欲はなく、日々を忙しく勤めに費やしていたことで、李徴のことをすっかり忘れてしまっていたのだった。



 ――――ある年のことである。


 年の瀬が近くなり、凍えるような日のこと、李徴の子だというものが虢略かくりゃくから袁傪の屋敷を訪ねてくることがあった。素性を調べたところ、嘘をついているようでもない。袁傪が試しに屋敷に上げ話をすることにすると、博学才穎さいえいと言われた李徴の子だけあって、なかなかに利発で、また見目も麗しい青年であった。


 青年は父親の今際いまわきわを聞かせてほしいと袁傪に詰め寄った。聞けば、床に臥せることが多くなった母親、つまり李徴の妻は頑なにそれを拒んでいるのだという。


 袁傪が商於から戻り、それを李徴の妻に伝えた頃は、まだ目の前の青年も小さく、それゆえに心を病むことがないように――と隠していたのだろう。李徴の最後を知ってもなお、しっかりと受け止めたあの夫人らしい選択であると袁傪は心のなかで称賛した。また、当時もその凛とした姿に感動し、わずかばかりではあるが金子きんすを送ったことを思い出しもした。

 おそらくではあるが、それを目の前の青年の勉学に使ったことは、想像に難くはない。袁傪は子を守った夫人と、それをしっかりと受け止めた青年のために、真実を伝えることを決意し、口を開いた。


「……まさか、そのようなことが」

 袁傪の話を聞いた李徴の子は、あまりに驚きうつむいている。

「それでも儂は、自分を喰い殺さずに踏みとどまった父君ふくんを、今でも友だと思うている。これはその時に書き記した彼の最後の詩歌だ」

 袁傪はそういって商於の藪にて人虎となった李徴が詠んだ詩を書き写したものを、李徴の子に渡す。


   偶 因 狂 疾 成 殊 類  災 患 相 仍 不 可 逃

   今 日 爪 牙 誰 敢 敵  当 時 声 跡 共 相 高

   我 為 異 物 蓬 茅 下  君 已 乗 軺 気 勢 豪

   此 夕 溪 山 対 明 月  不 成 長 嘯 但 成 噑


 李徴の子はしばらくうつむいたまま、その詩をじっと見つめていた。

「父は最後の最後までこのように己のことばかりでしたか……」

 目にはすっすらと涙が浮かび、わずかに肩が震えている。袁傪はあの時にも感じた李徴の持つどこか自嘲じみたというか自分に酔っているような違和感を、目の前の青年もまた感じているのだろうと、何も言わずに見守っていた。


 しばらくの後、深々と頭を下げ、礼を述べて立ち去ろうとするその青年に、袁傪は「今はいずこにて何をしているのか」と尋ねた。すると青年はこれより出仕先を探すところですと答えたので、袁傪は「それならば、儂の知人が嶺南れいなんで人を探しているから話を聞きに行くと良いだろう」と急ぎ文をしたため、青年に持たせた。



 その去り際のこと。


 青年はふと思い出したように振り返り、袁傪に向かってこう述べた。

「父は……何故、虎になど成り果ててしまったのでしょうか」

 袁傪はその問について、李徴自らが最後に答えたことをそのまま息子に説いた。李徴の子はそれをじっと身動ぎせずに聞いていた。


「なるほど、己が心の持ちようであったと……しかし、閣下。人は心のあり方一つで姿形まで変容するような生き物でしょうか。私にはどうしてもそこが理解できないのです」


 李徴の息子はもう一度深々と頭を下げ、屋敷の外へと向かっていった。残された袁傪は、確かに数年前にあの藪の中で友から聞いた言葉は、今考えてみると疑問の残るものではなかったかと一人唸っていた。




二、


 李徴の子が袁傪の屋敷を訪れてから一月、やがて二月が過ぎようとしていた寅の月のある晩のことである。新年の冷たく澄んだ夜に浮かぶ銀の月が、格子戸でいくつかの筋に分かれて袁傪の執務室を照らす。部屋には幾人かの配下のものが暗い顔をして立っている。袁傪はその部屋中央の椅子に座したまま難しい顔をしていた。



「また戻らなかったというのか……」


 部下の報告に袁傪は心を痛めていた。


 あの日、李徴の息子の言葉が引っかかった袁傪は、すぐに李徴が最後に立ち寄ったという汝水の街にある宿を調べた。すると大乱の折の記録が抜けてはいるものの、李徴のようにその宿を最後に姿を消した人間が多くいることがわかったのである。この一連の失踪事件を不審に思った袁傪は、刑部けいぶ戸部こぶに探りを入れたものの、「そのようなことはない」と兵部の干渉を露骨に嫌がる始末であった。


 そこで、袁傪は自らの配下である兵部の武人を幾人か、汝水のほとり陳群近くの宿へ遣わすことにした。汝水流域は代宗帝になる少し前に、小規模とはいえ賊らによる蜂起のあった地でもある。表向きは視察とし、少人数の派遣にしたのである。



 ――――しかし、それが裏目に出たといってもいい。


 それらの配下はいずれも戻らず、それどころか便りも途絶えてしまったのだ。先頃送ったものは来月子が生まれると言っていたはずだ。袁傪は大いに落ち込んでいた。


「あの宿に一体何があるというのでしょうか……」

 長く袁傪に仕える配下の一人が唸る。

「わからぬ。しかし、わからぬ以上調べる他ない。今度は……儂が行く」

 袁傪は答える。

「まさか、閣下自らとは!」

 配下のものたちは慌てて袁傪を諫める。

「馬鹿者! 先の者でもう九人だ。これ以上配下の武人を失って何もせぬのであれば、儂の立場もいよいよ危うくなるというもの。事実、尚書はすでにこの一件を嗅ぎつけてこちらに探りを入れてきているのだぞ」

 そう言ったところで、袁傪ははたと"ある事"に気づく。

「まて、これまであの宿に向かったものの素性を……特に金周りの事について調べてはくれないか」

「……閣下、それはどういう意味で」

 配下のものたちは一様に頭をひねっている。

「少し気がかりなことがあってな。明日の晩、もう一度ここに集まってくれ。よいか、この一件についてはこれまでと同じく、他言無用だ。先ほどのことも誰にも気取られてはならぬ。たとえ、同じ兵部のものにもだ。わかったな」

 袁傪は厳しく言いつけると、その晩は散会となった。



「閣下……これは……」

 昨晩と同じように寅の月の銀色の月光が部屋を照らすなかで、袁傪と配下の十数名は調査結果を見て驚いていた。連絡を絶ったものにすべてにがあったのである。

「……まさかこのようなことがあるとはな。しかし、これで儂がくだんの宿に向かう他ないということだろう。支度を」

 袁傪はすぐに配下のものに命じる。

「か、閣下! 小隊までとは言いません、せめて数名、随伴のものを」

 側近たちの懇願を受けて、袁傪は配下のなかでも剣の腕のたつものを数名引き連れ、かつて李徴が最後に泊まった汝水のほとりにあるという宿を目指すことにしたのだった。



 長安を出て商於を過ぎ、やがて汝水の流れが見えてくると、袁傪はふと馬を止め、しばらくその流れに見入っていた。

 なるほど、この歴々と流れる様は君の暮らしていた虢略から見えるであろう黄河とまではいかぬが、さぞ心に響くものがあったに違いない――と、今は亡き友のことを思い出していた。




三、


 袁傪をはじめ一行は、李徴が泊ったという陳郡近くの宿の手前、汝水と黄河との距離が最も近くなる辺りに留まっていた。ここである人物を探さねばならなかったからである。


「捕えてまいりました」

 配下の者二人が一人の男を袁傪の前に連れてくる。身なりはぼろぼろで伸ばし放題の髪には虱が湧き、前歯のほとんどが抜け落ちている。


 男は李徴の下僕であった。


「……何故ここに連れて来られたかはわかるな?」

 袁傪が冷たくいうと、男は涙ながらにゆるしを懇願する。この男は病に伏せた李徴の財産を盗んで逃げたのである。

「今はそのことを聞きたいのではない!」

 袁傪は奥歯を噛みしめて拳を強く握る。その地獄の獄卒のような表情に男は恐れ、小便を垂らす。


「……李徴が姿を消す前に何か変ったことはなかったか」


 袁傪は容赦なく男をきつく睨みつけ、問う。配下のものたちが「答えよ!」と男の背中を叩く。男は泣きながら必死で当時のことを思い出そうと頭を掻きむしる。


「へ、へい……旦那様は江南こうなんの旅で受け取った謝金を数えながら、『奥様とお子様を養うにはやはり足りぬ』と嘆いておいででした」

「それすらもお前に奪われたというのにな」

 袁傪が吐き捨てると、男はひぃと悲鳴をあげた。

「その他には何かなかったか」

 袁傪はもう一度ぎろりと男を睨みつける。男はもう一度悲鳴を上げ、また虱だらけの髪を掻きむしった後で、何かを思い出したように顔を上げる。



「あ……そういえば……だ、旦那様が病に伏せる前の晩、ゆうげを召し上がっていた時のことで……しきりに首を傾げて『はて、味がせぬ』と」





(続く)

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