5.衝動


 仕事終わりに、例の先輩に呼び出された。用がある、と言われたのだった。

 夜空には一面重い雲が垂れ込めて、風は生温く湿っていた。雨が降りそうだ、と思っていたけれど、傘は持ってきていなかった。私が帰る準備を済ませて出口で待っていると、先輩が駆け足で来て、「急にごめんね」と言った。

「あの、今日でないとダメでしたか」

 ずぶ濡れで帰りたくはなかった。後日にできるならそうして欲しかったし、できることなら関わらないで欲しかった。そういう意味を込めての発言だったけれど、先輩には伝わらなかったらしい。

「……すぐ、終わるから」

 そう言って唇を引き結ぶと、「ちょっとだけ付き合って」と言って歩き出した。まっすぐ進んだ先には河川敷がある。あの辺りは電灯もさほど多くないから暗くなるのが早い。そこから帰れないこともないものの、意図がまるでわからず、困惑する。

 先輩の言葉に従う義理はなかった。逃げてもいいし、無視してもいい。

 ただ、近頃の先輩の言動にはうんざりしていた。せっかく会社でトイレに駆け込まずに済むようになったのに、このままではまたぶり返す。人が近づいてくるときのあのもったりとした空気感に、最近は晒され続けていた。どんな話だか知らないけれど、これでそれが終わるのなら、耐える価値はあるかもしれないと思った。

 私の中にあったのはうっすらとした怒りだけだ。攻撃をしてくる相手など、敵でしかない。


 私は隣を歩かず、数歩後ろから付いて行った。先輩はたまに振り向いて、私がいるかを確認しているようだった。昼間から薄暗かった空は、太陽を失っていよいよ黒く染まっていった。車道を通る車のヘッドライトが眩しく映る。

 河川敷へと続く人気のない道を先輩は進んでいった。迷う様子はなく、あらかじめ予定していたのをなぞっているようだった。

「……どこに行くんですか」

「うん、もうすぐだよ」

 そんなのは答えになっていない。問い詰めようとしたところで、先輩は立ち止まった。川を跨いでかかる橋の真下までやってきていた。視線を巡らせると、ホームレスが残したらしき青ビニールとダンボールがコンクリートの壁に沿って敷かれていた。

「何のつもりですか……」

 今日は普段より声を出す回数が多い。すべて先輩のせいだと思うと、胃が熱を持ってそれに応えた。

 先輩は鞄を地面に置きながら、振り返って私を見る。その目は、鏡に映る私のものと、どこか似ていた。

「初めて目があったね」

 そしてその笑い方は、同居人の彼女のものと重なって見える。何かを冷笑している、そんな笑い方。

 初めて目があったというのは、これまで私が意図的に目を逸らしてきたからだ。

 先輩は表情を変えずに、言葉を続ける。

「ねぇ、私のことが、憎い?」

「は……?」

「ずっと、嫌がってるよね。避けてるよね。拒んでるよね……。私のこと、嫌いだよね」

 沈む声と表情は一致していない。私は先輩に何か異様なものを感じて、後退り、警戒する。「君と同じさ」と家にいるはずの彼女が言った。

「何を……」

「ここに連れてきたのはね、ここならきっと逃げられないと思ったから。私たちの間には距離があって、あなたはいつでも立ち去れる。私とあなた、二人だけの場所。ここでなら、話してもいいでしょ?」

 先輩は私のことを意に介することなく喋り続けている。

「ずっと前からあなたを愛していたよ。あなたの家にはあの女がいるからいられなかった。会社だけの私。先輩としての私だけれど、あなたを愛せないあなたよりも、あなたを愛さないあの女よりもずっと、大切で、心配で、そばにいたいと思っているの。でも、あなたがそれを赦さない。その意味も、価値もないからと言って」

 何を言っているのかわからなかった。先輩が指している言葉の意味が、まるで理解できない。私の家にいる女というのなら同居人の彼女だ。なぜ先輩が彼女のことを知っているんだ。

 先輩の奥で、地面に染みが浮かんだ。やがて線となった雨は、すぐに景色を覆い尽くす。

「あなたは間違っている。間違っているなら、治さないといけないよね」

 思考も口も挟む余地を与えられない。強制的な押し付けだ。悪意も害意もなく……それが愛というものだと、彼女は言う。

 冗談じゃなかった。先輩のそれは、気持ち悪さしか私に与えない。

 愛なんてものを向けないで。私を愛さないで。愛することを求めないで。それは異形の姿をした異物にしか映らない。相反する嫌悪と吐瀉物しか、私には与えられないのに。

「わかっているんでしょう? こうあるべきだという理想像を思い描くくらいには。そして諦めているんだね。どうしようもないと匙を投げて、無理だとぼやいて……」

「やめて」

 私を責め立てる声がする。離れているはずなのに、頭の中で響いて、耳鳴りがした。

 けれど先輩は逆に微笑んで、さらに勢い込んで言葉を連ねる。

「ダメだよ。止めない。自分を愛さないのは罪だよ。愛されないのは罪だよ。だから認めなきゃ。受け入れなきゃ。あなたの思う人の腐臭と一体になって、側溝の汚泥の中で抱えこまないと。ずっとそのままでいるつもり? 私は嫌だよ。あなたも、そうでしょ……」

「やめて……」

 わかっている。わかっている。そんなことは、ずっと前からわかっていた。こんな私を望んでなどいなかった。

「やめてよ……」

 私の脆弱性に刃を突き立てるのもいつだって私自身だった。そして錆び付いた刃先で傷を抉りながら、こうするしかないのだと唇を噛んだ。私は賢くもなければ強くもない。賢明な判断もできなければ強者の論理も振り翳せなかった。

 救われないことだけが明白だった。助けが来ないことだけはわかっていた。自業自得の一人ぼっちで、家でも、外に出たって、他の在り方を選べなかった。

 こんな私を、赦して欲しかった。

 瞼閉じても耳を塞いでも無意味なのに、私は頭を抱えて、蹲って。

 生温かい重みが、私を覆った。

「ぃっ……」

 たった今まとわりついたものの正体を知っている。この心を抱きしめて離すまいと力を込めるものが何であるかを私は知って身を捩った。手放したくても手放せない。身体中のあらゆる場所からタール状の私が入り込んで私を支配して強制しようと躍起になって、暴れている。

「……いいよ。私が赦すよ。赦してあ──」

 限界だった。

 おそらくは先輩であったものを突き飛ばす。それはよろけて倒れこんで、見える。傷ついたように私を見る。「どうして?」

 どうもこうもなかった。こいつは、もううんざりだと何度いえばわかるのだろう?

「言うことを聞いてよ……」

 黙って何も言わず役立たずのままでいればよかったのに、しゃしゃり出てくるから。

 私はボールペンを握り込んで、先輩に馬乗りになっている。先輩は抵抗をしない。私を見つめて、

「あーあ」

 薄く、笑った。

 振り下ろす。振り下ろす。振り下ろす。

 肉を突き進む感触も音も粘ついた血の流れも、すべては私のもの。

 私が抱えている。私が見ている。

 そういう夢を見ているのだと、私は知っている。

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