2.嫌悪
日はとっぷりと暮れて、なめらかな質感の風が頬を撫でる。吐き出した息は熱を持って、後方へと攫われて消えていった。
結局、吐き気をどうすることもできず、私は最低限の言葉とお金だけを残してあの場を去った。異物を見る視線の中、あの先輩だけが私に声をかけ続けていた。
「気をつけて帰ってね」
善く生きるというのは大変だろうな、と鞄を肩にかけながら私は思う。香水と油とアルコールと人間の匂いが充満する密室から抜け出して、ふらふらと帰路を辿る。こんなのは二度とごめんだ、と心の中で吐き捨てた。
合コンの話が出た時、同じ部署の上司はさもいいことを思いついた、とでも言うように、嬉々とした表情で私を誘った。できるだけ直接的にきっぱりと「無理」と伝えたはずだったのに、それをどう勘違いしたのか、美辞麗句を並び立てた挙句に、望んでもいない助言をくださった。
素材は良いんだから、前髪とか短くして、猫背を治して、もっと笑って、しっかり前を向いて、人間らしく。
距離を詰めてくるのに後退ったら、眉を顰めて「そんなに嫌がらなくても」と言う。
人間らしく。随分と大層な言葉だけれど、私はとっくに人間だし、それをやめられないのだって身をもって知っている。人間以上でもなく人間以下でもなく、私は人間だ。それがまやかしならどれほど良かっただろうと幾度考えても、何一つとして変わりはしない。厳然たる事実がのしかかるのみだった。
黙っていて欲しかった。彼らの口は、一切の躊躇もなく残酷な言葉を垂れ流して、溝の中でもがく私にガラス片を突き立てる。より善く人間らしく。それだけのことが、私にはあまりにも難しいのに。
先輩たちの想像の中に、私という異物は含まれない。その振る舞い、在り方は、“一般”というてらてらと光を反射するグロテスクな言葉の皮膜で私を覆い尽くして、窒息死するのを待っているようですらある。
上司は私が出て行く時も、わけがわからないという表情で固まっていた。いなくなった後、言い訳のように何やら宣い始めるだろうけれど、それは別にどうでもいい。私の醜態を見て、今後は積極的に関わりを避けてくれればいいと思う。
人の密集する場所を避けるためには、会社と自宅を徒歩で行き来できる距離にする他ない。電車もバスも、公共交通機関と呼ばれるものはどれもダメだった。人と接触し続ける可能性があるものは、可能な限り排除しなければならない。
物理的にも社会的にも距離を置いて、できることなら自分自身とも離れていたかった。この肉体もこの意識もこの魂も、人であることからは逃れられない。今生にあって、他者との繋がりの一切を絶つことは不可能以外のなにものでもない。
なぜこんな風に生まれ落ちてしまったのかなんて、両親に聞いたってわかりはしないだろう。私はたぶん、お母さんの子宮の中で羊水に溺れて喘いでいる時から、自分の生を疎ましく思っていた。
一体何のために、どうして私は生きているのだろうと、ふと考えることがある。真っ当に過ごせなかった学生時代に取りこぼした問いかけは、未だに私を苛んで、けれど答えはとっくにわかっていた。
怖いからだ。私はあの世を信じない。私は死後の安寧を夢想しない。今ここにある確かな苦痛から手を離したら、その先のものに対して私は無力だ。前頭葉の発達によって果たされた意識の拡張が人の特異性であるというのなら、私たちはきっと死後もまた人として舞い戻る。何も変わらず、すべてを忘れて同じことを繰り返す。
だとすれば、死はループの間隔を狭めることに他ならない。そんなのは嫌だった。そんなことになるくらいなら、この吐き気を抱えたまま生き続けて、恐怖を遠ざけることを私は選ぶ。
だから、私は生きている。この生臭い人肌、粘膜、血液を纏って、漫然と心臓を鼓動させる。
それ以外なんて、考えたくもなかった。
私は私が嫌いだ。
なぜなら、私は人間でしかありえないのだから。
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