3.彼女
辛うじて安心できるのは、自分の家だけだ。マンションの階段を上り、表札のない部屋の前で立ち止まる。静まり返った暗闇を、通路の青白い光が照らしていた。鍵を回して、ドアを開ける。
「ただいま……」
「や、おかえり」
見計らったように、彼女は明かりも点いていない廊下に佇んでいる。腕を組んで私を見つめながら、「どうやらひどい目にあったらしい」と皮肉げに笑った。
「本当に……」
ぼやきながらパンプスを脱ぎ捨てる。彼女の傍を通って、リビングに向かった。歩きながら電気を点けていき、スウェットに着替える。彼女は後からやってきて、ソファに腰掛けた。
そして大げさに肩を竦めてみせる。
「この世界は、君に対して厳しいようだ。生きるのに向いていない」
世界が厳しいのか、私が脆弱に過ぎるのかはよくわからないけれど、少なくとも、日常生活を送る上で私にかかっている負荷は、健康的な人のそれより遥かに大きいのだろう。病的というよりは、病気そのものだ。
彼女は薄笑いを浮かべながら言葉を続けた。
「そこで、私の出番というわけだね」
「まぁ、そうだね……」
不本意ながら、という言葉は飲み込んで、私は頷く。私にとって唯一の、嫌悪の対象外。それが同居人の彼女だ。いつからか一緒にいるようになって、ここまで来てしまった。大学生で一人暮らしをするようになってからだったか……よく覚えていない。
「世界に見放された君を救済して差し上げよう。というわけで、ご飯にしようか」
「いや、お腹すいてないし……」
それに、まだ少し気分が悪い。食欲なんてあるはずもなかった。
「いいから。いけるって。何も食べない方がかえってよくないよ」
その自信はどこからくるのかがよく分からなかった。
結局根負けして、少量のシリアルを温かい牛乳で流し込んだ。幸い吐くことはなく、彼女の言うように何とかなった。私なんかより私を知っているような気さえする。よく見ているものだ。
「所詮は人も肉だよ。喋る肉塊」
「それが嫌なんだって……」
「自分も同じだから」
「そう」
「難儀だね、まったく」
彼女はとにかくよく笑った。気を落すことも、顔を歪めることもなく、世はすべてこともなし、とでも言うように、微笑みを絶やすことがない。
それはもちろん、彼女が外で起きることの当事者にならないからであるし、私のような機能不全を起こしていないからでもある。私にはそれが羨ましく、少し、嫉ましくもあった。
私は何に対するよりも、私自身の肉体と精神に対して無力だった。コントロールなんてできた試しがないし、いつだって振り回されている。私こそが私の奴隷であって、脅迫の中で生きることを余儀なくされている。
「風呂に入って、寝るべきだね。君がどれだけ嫌がっても、明日は来てしまうのだから」
「うん、そうする……」
洗い物をしてから、力なく頷いて彼女の言に従った。髪も乾かし終えてからリビングに来ると、彼女はソファで目を閉じていた。私はそれを放ったまま、自室の布団に潜り込む。
明日が来るのが怖いと思う。同じだけの痛みを同じだけの強度で与える一日の連続が、怖い。
けれど、眠ろうと思う。
明日が来なくて、もう一度私に生まれてしまうのは、もっと怖いのだから。
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