TRAiN

片宮 椋楽

Girl and……

「空いたよ」


 歩実あゆみは顔を上げた。

 電車に乗ったのは、赤い夕陽が姿を消そうとしている17時。横一列で並べられた座席は、革の色が青だと認識できないほどに埋まっている。座っている殆どの人がスーツ姿。帰宅ラッシュがこれから始まる、そんな予兆を感じさせる混み方であった。


「うん」


 目の前で立っていた慶太けいたは喉の奥で静かに返事をした。けれど、すぐにかけず、つり革を掴んだまま。

 考え事でもしていたのだろうか。空返事であったのかもしれないと歩実は改めて言葉にしようとしたが、直後慶太が顔を左右に振ったことで口をつぐむ。体も同じく捻っている。辺りを見回しているのだとすぐに分かった。


「どうしたの?」


 歩実は膝の上のリュックを少し持ち上げ、座る位置を軽く整える。知り合いでもいたのか。


「いや、お年寄りとかいたら譲ろと思って」


 自然と岩の割れ目から流れてくる湧水のようにさらりと答えた。別に特別な利益を得るための発言ではない。単純にそう思ったから、ただそれだけ。

 歩実は思い出したように、小さな笑みを浮かべた。彼らしい言葉を聞くことができてほっとしたのだろうか。それとも、好きになった理由が集約された一言に思わず顔が緩んだのだろうか。いずれにせよ、喜びの感情が歩美に湧き上がったことに違いはなかった。


「まもなくぅ中野ぉ」


 車内に男性のアナウンスが響いた。妙に甲高い声はどの車掌もマニュアルがあるかのようになぞっているが、今日は句読点の入りそうなところを妙に上ずって伸ばす癖のある人だった。

 埼玉方面に帰る慶太はこの電車で新宿まで向かい、埼京線に乗り換える。一方の歩実は神奈川方面。同じく新宿で乗り換える。二人がいられるのもほんの数分もない。


 車両にいないことを確認すると、慶太はおもむろに身体を回転させて腰を下ろした。同時に発した「よいしょ」の掛け声は、どこか仕事に疲れた中年男性のような抑揚。成人していないと二十一歳の今でも言われるほど年齢より幼く見える顔立ちとは真反対だった。


「優しいね」


 歩実は動きを目で追っていた。


「そう?」


「なかなかできないよ。目の前が空いたら、つい座っちゃう。疲れてるなら余計に」


 慶太は少し眉を上げた。初耳かというような上げ方だった。「疲れてたんだ」


「何でかは分かんないんだけどね」


 重い荷物を背負って登山しているかのように、全身に疲労という名の塊がのしかかっていた。そのせいで、指先の痺れる痛みや時折走る手首の鋭い痛みがある。


「重労働をしたわけではなく?」


「うん」理由が思い浮かばない、というよりかは、理由を思い出せなかった。


「妙だな……」


「でしょ?」


 取り留めのない会話なのに、心地よかった。


「ま、疲れは蓄積するものだから。今日の今日始まったとも限らない」


「だとしたら、相当疲れてるね」歩実はつんのめっていた口を緩めた。


「ご自愛下さい」


 慶太は目を閉じた顔を歩実に向け、薄い会釈をした。


「お気遣い、どうも」真似る歩実。


 電車が止まり、ドアが開く。炭酸飲料を開けた時のように軽く弾ける音がした。扉が一斉に開く。

 座って寝ていた人、つり革に捕まっていた人、手すりに付けられたプラスチックプレートに身を預けていた人。皆が同じ駅で降りていく。


「あのさ、超どうでもいいことなんだけど」


 発車直前、おもむろに慶太が口を開いた。


「あれ見てみて」慶太は小さく正面を指差した。


 空席となった席の後ろの壁に、透明なアクリル板があり、間には本の紹介文が挟まれていた。


「今こそやるっ!、ってやつ?」


 赤地に白抜き、最も目立つ文字の大きさ。タイトルより目立つ、キャッチコピーであった。


「ああ」


 前の席が埋まった。慶太は指を静かに収めた。それが発車合図に電車の扉が閉まり、動き始める。


「昨今はインパクト重視なことが多くない?」


「多い、かな」


「どうですか」


「どうですか?」


 歩実は眉間を少し寄せた。


「どうですか」繰り返す慶太。


「そう言われても……」


 特に何の感想も感情も湧かなかった。


「可もなく不可もなく?」


「まあ、私は今すぐやれる側の人間じゃないから、凄いなとは思うよ」


「ふむふむ」


「そっちは?」歩実は覗き込むように傾けた。


「インパクト大賛成。あった方が絶対良い」


 サプライズ好きな慶太のことだ、十中八九肯定的だろうと思っていた。


「次はぁ新宿ぅ」


 アナウンスが次の駅を知らせる。二人が一緒になれる時間は数分しかなかった。


 赤い光が電車の中に入る。窓に屈折し、方々を赤く鋭く照らした。歩実は振り返り、光源を見た。夕陽が眩しく光っている。思わず目を細めた。夕陽が沈みたくないと、空と離れたくないと抗っているように、歩実には不思議と見えていた。


「どうした?」


「ううん」


 正面に顔を戻す歩実。ふと目線が斜め左上の中吊り広告へ移った。赤い光線に照らされている。


「次はあれについて話せって」


 指し示した先を見て、慶太は「あらま、随分重いテーマだこと」と、目を細めた。


「インパクトもね」


 “人は死んだらどこへいく”。緑の背景に黒字で書かれた本のタイトルだ。


「どこいくかなぁ……」歩実は顎に摘むように、軽く手を添えた。


「よく言われるのは、あの世だよね。天国とか」


「けども、誰も見たことはない」


「そりゃあ、死なないと見れないからね」


 慶太は柔らかに応えた。


「なのに、この世とは違う世界があることは昔から言われてる。ほら、どんな宗教もあの世的な存在ってあるでしょ?」


「いや、分かんないな……そういったことを調べる時も機会もなかったし」


「まあそうだよね」


 歩実は会話の切り出し方を間違えたと反省した。もう少し話しやすい、他の話題に移りやすいことできっかけを作ればよかった。それにしても、何故自分でもこんなテーマの会話をしようと思ったのか、歩実は理由が思いつかなかった。心当たりもなかった。しかし、心にトゲでささったような、引っかかりを感じていた。


「あっ」


 前触れなく、慶太が声を出した。


「何?」


「いや、ちょっと思いついたというか」


「何を?」


「その、あの世があるってみんなが考えてる理由」慶太は斜めに顔を上げた。


「救いなんじゃないかな」


「救い?」


「死んでしまった人が、別の世界で生きている。しばらく会えないけど、そこで笑ったり走り回ったり、楽しんでるんじゃないか。そう思うと、何かこう、こっちで生きてる人が救われる感じがするでしょ?」


 遠い目の慶太。電車で遮られた東京の街並みを、それよりももっと向こうにある景色を見ているようだった。


「宗教って、今よりもより良く生きたいから求めるものじゃない。だからこそ、色んな宗教が同じように口を揃えてるんじゃないかな。この世で死んだとしてもあの世で生きてるから、大丈夫だよって。あなたはこの世で安心して生き続けてって。あの世があることで、みんなの心を救うんだよ」


 慶太はさらに付け足した。「とはいえ、だからといって今生きている人は死んじゃいけない。まだあるからって、そんな諦めてしまうことはしちゃいけないよ」


 歩実はリュックに顔を埋めた。落ちぬように囲んでいた腕の力も強くなった。


「まもなくぅ新宿ぅ」


 アナウンスが聞こえてきた。もうすぐ別れの時。


「どう思った?」


 続くアナウンスを打ち消すように、慶太は問いかけた。


「何が?」


「さっきの、あの世の話」


「ああ」歩実は口を開いて反応しながら、小さく頷いた。「うん、説得力あった」


「もし仮に俺が死んだとする」


「何、どうしたのさ、突然」


「いいから」慶太の表情が少し違ってみえた。「本当にあの世があったとして、俺がそこで生きていたら、歩実は救われる?」


 歩実は目を開いた。唐突で難しい質問に戸惑いを隠せなかった。安易に答えが出せるものではない。救われるかどうかなど、分からないからだ。人の死とは当事者にならなければ、理解などできない大きな事象だ。


「答えなきゃいけない?」


「うん、して欲しい」


「どうしても?」


としての頼みだ」


 歩実はキュッと口元を締めた。そして、リュックの上に口元を埋めた。


 電車の速度が落ちていく。人で埋まった駅のホームが見える。


「救われると思う。救われる」


「よかった」


 慶太は優しく微笑んだ。その表情を見た瞬間、何かは分からない。けれど、とても大事なことを忘れていることに歩実は気づいた。


「なら、俺は向こうで生きてる」慶太は歩実を見た。「だから、歩実もこっちで生きてくれ」


 白い光が窓の外から差し込む。夕陽のそれとは違う、あまりにも眩過ぎる純白な光。瞬間、歩実の脳に忘れていたことが流れ込んできた。


「思い出した……全部、思い出した。私、慶太のことが」


 喜びと戸惑い、不安と寂しさ。複雑に入り混じった眼差しを慶太に向けた。だが、もう顔は見えない。光が慶太を覆っていく。連れ去られてしまう。必死に掴もうとするも、手に感触はない。まだそこにいるのに、空を切ってるだけであった。


「待って、行かないでっ」


 光はそう叫ぶ歩実の視界も奪っていった。




 歩実は目を覚ました。そして、反射的に握る手の力を強めた。持っていた香典返しが膝上から滑り落ちかけたからだ。持ち直し、安定させた時、指先が痺れていることを気づく。曲げと伸ばしを繰り返して取り払うと試みるが、すぐには治りそうになかった。


「次は東京。東京です」


 男性の渋い声色で、自分が降りるべき新宿を乗り過ごしたことを知った。


 左の掌に何か落ちた感覚があった。見ると、そこには水滴一つがなぞるように跡を作っていた。おもむろに目元を擦る。いつのまにか涙を流していたらしい。理由は分かっていた。夢のせいだ。

 掌の雫を拭き取ると、ふと数珠に視線が向く。変に思われぬようにわざとつけ続けていたが、もういい。歩実は肩の方へ数珠を移動した。下から手首を割くように付いた黒い痕が現れる。横一線に伸びたそれを、歩実は指先でなぞる。日常生活送るには不自由はないが、触るとまだ痛みは感じた。


 会おうと思っても、会えない。あまりにも遠いところへいってしまった。


 人はいつだって失ってから大切なものに気づく“遅い生き物”であると、歩実は嫌というほど感じた。嫌なのに感じさせられた。

 考えれば考えるほど、また涙が溢れてくる。駄目だ。歩実は顔を上げた。そこには広告があった。


「人は死んだらどこへいく……」


 歩実は大きく書いてあるキャッチコピーを読んだ。心の中で反芻する。何度も何度も繰り返す。歩実は目線を落とし、唇を内側に巻き込んだ。次第に口元が震え出す。


 目を開き、瞬きを繰り返す。口から息を吐いた。ゆっくり大きく。

 顔を正面に戻し、大きく息を吸う。そして強い目をして、天井を見つめた。


「会いたい、凄く会いたい」小声で呟く。「けどさ、もう少しだけこっちで生きてみることにする。で、色んな話をお土産に持っていく。馬鹿馬鹿しい話でも広告でもなんでもいい、そっちも用意しておいてよ」


 歩実は真っ直ぐな目で微笑んだ。「また会おう、慶太」


 電車は走る、人と想いを乗せて。窓の外では、過ぎ去っていく街並みと新たに見えてくる街並みが刻々と変化する。その後ろで夕日が落ちていく。同じようで同じでない世界を静かに見守りながら、眩く儚い朱の色を放ち、地平線へ消えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

TRAiN 片宮 椋楽 @kmtk

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ