SOMEBODY PICK UP MY PEACH

緯糸ひつじ

TOMORROW IS IN YOUR DANGO


 実家の本棚には、まだ中学生時代の教科書が並んでいた。新しい本は机に積まれてる。

 ビニール紐で縛ってさっくり捨てるなり、段ボール箱に仕舞って押し入れに置くなりすればいいのだが、大人になっても僕にはそれが出来なかった。

 思い出の扱い方が下手だった。

 黒いネクタイをゆるめて、本棚の国語の資料集に手を伸ばす。ぱらぱらと捲れば案の定、正岡子規が落書きの魔の手に落ちていた。長髪だった。


 あまりにも中学生らしい、模範的ないたずらで苦笑する。たぶん当時はゲラゲラと笑いながら刻んでいたものだろう。そんな些細なものでも、ある程度の成熟を経てしまえば、ノスタルジックでいわゆる「エモい」みたいな感情を生めるものなんだな、と感心してしまう。


 思い出は美化される、馬鹿馬鹿しさや苦々しさでさえも。

 そのせいだ。本棚に並んでいた教科書を片付けられないのは。捨てられないのは、どうしても美しく見えてくる過去を否定するような感覚になるからだ。

 押し入れに仕舞ってできる空の棚、そこにもっと充実したものを埋めれられる自信は今はない。

 思い出の扱いの下手さ。

 親の影響は多いにあると思う。記念日はあまり祝わなかった、アルバムもつくらなかった、過去に関してはさっぱりとしたものだった。でも、がらくたを取っておくタイプだった。家には有象無象が適当に並べられていた。祖父の囲碁盤の上に最新の週刊誌が重ねてあったり、大きいトラックの玩具の荷台に古いカセットテープが無造作に詰められていたり。とりあえず整理整頓への無頓着さは、過去への関心のなさを示してるようだった。

 それ以外にも、この両親は少々変なところがあった。


 僕が保育園児の頃には、もう父と母は高齢だった。いつも初対面の人に「優しいお爺ちゃんといつも一緒でいいね」と言われて「違うよ、お父さんだよ」と僕は返しては、大人の微妙な表情を見ることになった。

 うちの父母は、周りと違うんだ、と思うようになった。しかも年齢だけではない、なにかもっと大きな欠落があるのではないか。幼心にトゲが刺さったような感覚を持っていた。

 トゲは何処にあるんだろう。

 それは案外、すぐに判明した。


 お前は桃から生まれたんだ。

 保育園児の頃に「赤ちゃんはどこからくるの?」という、これまた模範的でピュアな質問をぶつけたときに出た、父の言葉だ。

 父と母は神妙な顔立ちで「お前は桃から生まれてきた」と言った。

 なんだそれは。「橋の下から拾ってきた」みたいな乱暴な冗談だろうか。「コウノトリが運んできた」みたいなフォークロアにしてはオリジナリティが過ぎた。聞き流すに限るな、と思った。

 だけど、父と母はその後もことあるごとに、桃から生まれた桃から生まれた、と繰り返して、その主張は覆さなかった。さすがに中学生の頃に「いいかげんに、その質の悪い冗談はやめてくれ」と伝えたが、父はばつの悪い真面目くさった顔で「それが真実なんだ」と呟いた。諦めた。


 僕は桃から生まれたらしい。

 つまり僕を今まで育ててくれたのは、実の父母ではない。彼ら二人は血のつながりはない、育ての親なのだ。

 桃から生まれた証拠を見せろと言ってみたものの、アルバムや記念に無頓着な父は「ないなぁ」と渋い表情をするばかりだし、母は「ヘソの緒がないのが証明にならないかしら」なんて言っていた。悪魔の証明だろ。無いものを見つけろなんて。


 自分の出自の馬鹿馬鹿しさ。川原から拾ってきた桃から生まれたなんて馬鹿馬鹿しい話は、僕の心を鬱屈させるには充分だった。

 実父母は誰だ。そもそも人が桃から生まれるか。

 尽きない不条理な疑問は、思春期のアイデンティティ形成にしっかり影を落とす。

 小学五年生あたりから僕は、鬼退治にのめり込むようになった。


 * * *

 

 教科書を戻そうとすると、隙間の空いた棚からぱらっと封筒が落ちた。気になって開けてみると、写真が数枚入っていた。

 中学時代の僕がそこにいた。

 おまえは現像しないだろうから、と友人が気を利かして渡してくれたものだった。

 一枚ずつめくって確認すると、一枚の写真で手が止まった。

 夜遅く自動販売機の前で、僕を含めた男子三人と女子一人で撮った自撮り写真だった。

 たしか、春休みだ。卒業式を終えたあとの、高校入学前の浮き足だった気分を思い出す。

 中学最後の思い出づくり、そんなささやかな旅の中で撮った写真だった。

 くすぐったいような、懐かしい気分が込み上げた。

 思い出は美化される。勝手に美しくなっていく。

 物自体は埃を被って褪せていくのに、それが抱える過去は抽象度を上げ、表面が美しく仕上がっていく。

 もしかしたら、あの頃が人生のピーク、ゴールデンエイジだったのかもな。そんな嫌な想像に苦笑する。

 ふと、あることに気づいた。

 こんな子なんて居ただろうか?

 僕は目を細めた。右端にいる女子だ。カメラを見つめる瞳がクールで大人びた雰囲気で、吸い込まれるような気がした。

 思い出は美化される。勝手に美しくなっていく。

 中学最後の思い出づくり。その記憶に、この女子は居ないことになっている。

 彼女と過ごした記憶は、そんなに苦々しい思い出だったのだろうか。抽象度を上げて塗りつぶしてしまいたい過去の人だったのだろうか。

 手元にあるこの過去は、当時も本当に輝いてたのか。


 * * *


 中学生になってから僕は、放課後をすべて鬼退治に費やしていた。

 町に降りてきた鬼を倒していく。近所のおばちゃんに感謝をされる。「いつもありがとね。これでも持っていき」と桃の缶詰めを受けとったりする。

 有り余ってる力と鬱憤を発散して、なおかつ誰かに感謝をされて自尊心を満たす。中学生の僕は、鬼退治をひとつひとつこなしていくことで、出自の違和感を忘れていけた。


 父は、鬼退治を快く思っていなかった。

 父に鬼退治を知られたときは、こっぴどく怒られた。暴力はいけない。耳にタコができるほど聞いた。

 反抗期の僕は、それでも父には内緒でひっそり鬼退治を続けた。

 もう一度見つかったときに「悪いことはしてないじゃん」と不満をぶつけると、父は烈火のごとく怒り、挙げ句「暴力だけはいけない」と吠えながらビンタをしてきた。頭の中がバグる気分だった。

 それ以来、父は鬼退治の話題は出さなくなった。父も、自分の中の矛盾を処理しきれなくなったのだろう。不器用なのだ。身体は細く、とことん暴力は嫌いだった、でも言葉だけで子供を説得できるほど強くもなかった。

 なよなよした父が手を出すほど怒る。

 ショックを受けるには充分の出来事だったが、それで改心するには僕はまだ若すぎた。


 母は「身体をいっぱい動かすでしょ?」と毎日、出かける前に僕が好きなきび団子を作ってきた。あんたが選んだことなら好きにしなさい、と陰ながら応援してくれた。中学生時代の三年間、ずっと鬼退治ができたのは、母のおかげで間違いない。

「これも、最後のきび団子だね」

 母は言った。中学生最後の春休みだ。

 高校入学するとともに、鬼退治は辞めて勉強に集中する、と僕は伝えていた。

 僕は、きび団子をお腰に付けてママチャリに乗り、鉄道の高架下にある、ブランコしかない狭い公園へと向かう。並木道の桜は散り始めて、散った桜の花びらを自動車が蹴散らしていた。春休み特有の空気に、心を弾ませていた。

 そこで待ってるのは、スポーツバイクに腰掛けた犬だった。


 * * *


 僕は本棚から引き出した、中学校の卒業アルバムを閉じた。

 犬。卒業生の写真の中には、封筒を渡してくれた友だけが見つかった。

 写真の大人びた女子は、同じ中学校の同級生じゃないのか。

 だがそれはもっともな話だった。同じ中学校で、まともな友人は犬くらいだ。


 * * *


 入学式当日、犬と席が隣だった。僕はすでに拗ねてた子供だったから、誰かと積極的に友達になろうとは考えていなかった。鬼退治なんてのは誰彼構わず共有できる趣味ではない。父の態度で身に染みた僕は、友達は作らないほうがのびのび鬼退治できるだろうと思った。

 教室の指定された席に座る。無愛想な顔を作り、剣呑な雰囲気、いわゆる「話しかけるなオーラ」を醸し出す。

「おはよう」

 犬が言った。自分の目論みはあっさり破られた。犬は人懐っこく愛嬌があって、それにゴールデンレトリバーみたいに笑みを浮かべた顔のせいか誰からも好かれるようなタイプだった。

「ひとつくれよ」

 お腰に付けたきび団子を指差した。

 後から聞くときび団子には興味が無かったらしい。話しかける口実を探してただけだった。

 怖そうな奴には早めに話しかけるべきだと、犬はのちに語っていた。挨拶でキレる奴は居ないし、怖がらそうとする奴はびびってる奴を品定めしてるのだから、最初に敵意も媚びも見せずフラットな感情で先制するのが大事なんだ、と教えてくれた。

「べつにいいよ」

 僕は犬の打算なんて露知らず、きび団子を差し出す。それから僕らは仲良くなった。犬は、鬼退治についても「へぇー」と興味無さげだった。人の趣味にとやかく言ったりレッテルを貼るような奴では無かった。


 * * *


 この日、彼女は最初っから集合場所に居たわけじゃない。

 卒業アルバムのあてを外した僕は、封筒の写真を見返していた。長期戦を予想し、缶チューハイをあけて学習机に置いた。

 中学最後の思い出づくり、夜ではなく昼頃に撮った写真も一枚残っている。

 男三人だけだ。僕と犬と、もう一人。

 あの女子は、この写真の中にはいない。

 高架下の狭い公園、ブランコの前。

 僕らが遊ぶときは、決まってここに集合していた。

「じゃあ、こいつがらみか」

 僕は写真のなかのヤンチャ坊主を、指でとんとんと叩く。猿だ。


 * * * 


「なぁおまえ、鬼退治してるらしいな?」

 中学二年の春。犬と一緒に帰宅しようと中学校の門を通るときに、猿に話しかけられた。制服は他校のブレザーで、かなり着崩している。ヤンキーだ。

 睨み付けるような目線は、僕を品定めするようだった。猿は口を開く。

「おれ、隣の区で鬼退治をしてんだ」

 地元では負け知らずなんだぜと自慢気に話してから、肩に気安く触れてくる。

「知ってんのよ。お前がすげぇって、こっちの町まで話が届いてんだ」

 猿の瞳はキラキラしていた。

「おれらが組めば、ぜってぇ最強だと思うんだわ」

 僕の都合を聞かない強引さに、厄介だなと思いつつも、何かが起こるのではないかと期待感が膨らんだ。それが、僕の腰に着けたきび団子を差し出す理由だった。

「おまえの母ちゃんのきび団子、うめぇな」

 猿がひどい味音痴で、何でもうまいと言う奴だと知ったのは、その数ヵ月後だった。

 そういえば、犬は「俺、あいつ嫌いだったわ」と初対面の頃の印象を語っていたっけ。


 鬼退治しにいくぞ、は犬と猿と遊ぶ口実に変わっていた。その頃には、桃から生まれたことなんて意識する日は少なくなった。

 三人で鬼退治するようになってから役割分担が決まった。僕と猿が鬼を叩きのめし、ルックスが良くて愛想の良い犬が近所のおばちゃんたちから大量のプレゼントをせしめていた。

 リュックサックが戦果でいっぱいになる頃には、街は暗くなっていた。アーケードの商店街を他愛ない会話をしながら、自転車で通り抜ける。

 猿が誰かに気づいて、声を上げる。

「あれ、雉じゃん? 何してんの」

 犬が当然、質問する。

「雉って誰?」

「一年の時のクラスメート、良いやつだ、頭もめっぽう良い」

 そう言いながら、自転車のスピードをゆっくり落として、雉の横で停めた。

 雉はクールな佇まいの女子だった。

「私は塾帰り、猿は?」

 切れ長の目に、視線が吸い込まれるようだった。猿は、あっけらかんとした感じで「鬼退治だよ」と言うと、雉は「そっか、たしかに猿はそれしかないか」と返す。

 生意気で威圧感のある猿と、涼しげにやり取りできる女子は、僕らの中学校にはいなかった。

「この人達も?」

 と聴かれて猿は「おお、そうよ」と言う。なんとなく雉には猿と同類だと思われたくないな、と思ってしまう。

 雉は、パッと僕のほうを見て声を上げた。

「あ、きび団子だ。それ、好きなんだよね。ひとつちょうだい」


 * * *


 そうだ、雉だ。

 はっと記憶が甦り、心拍数が上がった。

 思わず立ち上がり、危うく缶チューハイを倒しそうになった。

 だが、しかし。

 彼女とは、それほど親しくはなかった。

 僕らは鬼退治で、雉は塾帰りで、すれ違う度に挨拶するくらいの仲だった。

 夜遅く自販機の前で撮った写真を見る。

 何故ここにいたんだっけ。

 苦々しくて、塗りつぶしたい過去だったとしたら、何があったのか。


 * * *


 集合時間に二十分遅れて、猿が甲高いブレーキ音を鳴らしながらクロスバイクを停めた。猿の頭には桜の花びらが一枚乗っていた。

「わりぃ」

「最後の最後まで遅刻かよ。しまんないな」

 猿は遅刻常習犯だった。

 僕と犬はソシャゲに勤しんでいたので、キリが良いとこまで待て、と猿に命じる。猿はブランコをぶんぶん振りながら待った。

「よし、行くか」

 僕はママチャリのスタンドを上げる。待ってましたとばかりに猿はブランコから飛んで、着地で砂煙を上げる。

「さぁ、鬼ヶ島いこうぜ。中学最後の思い出づくりだ」

 猿は面を上げ、にやりと笑った。

 鬼ヶ島。そこは鬼の根城みたいなものだった。小学校の頃には「あそこに近づくなよー」と教師がしつこく言う場所で、市内でも有名だった。

 鬼ヶ島までは自転車で三時間くらい掛かる。

 春休みに暇を持て余していた僕らは、自転車で川の土手のサイクリングロードを走りながら、鬼ヶ島まで向かったのだった。

 大きな川は視界がひらけていて、空がすこんと抜けていた。金属バットの軽快な音ともに野球少年の元気な声が聞こえる。春の風が頬を撫でて抜けていく。

 会話はすぐに無くなり、しりとりが始まり、猿が飽きてうやむやに終わり、黙ったところで女子高校生の集団を追い抜かし、猿は言った。

「うちの高校には、かわいい子いるかなー?」

「いても猿には、なびかねぇよ」

 犬が返す。

「はぁ? 何だよ。そういや犬んとこの女子の制服可愛いよな。おれんとこ園児の制服みたいだぜ。絶対制服可愛いとこのほうに可愛い子は集まるもんな」

「自分で高校、選んだんだろ?」

「頭悪くて、選ぶほどねぇわ」

 猿は眉間にしわを寄せて、こっちに変顔を向ける。

「あー、結局、中学三年間、三人とも恋ひとつできなかったな」

 猿はがっはっはと笑う。僕は知ってる。

 犬はあほみたいにモテていた。僕は一度同級生に告白したものの、鬼退治なんてやってるやつは無理、と駄目だった。

「めっちゃ悔しい!」

 猿は、本当に悔しそうな顔をする。

 悔しいか。僕には悔しいと感じるような恋はなかったな、と記憶を探ると一人の顔が浮かんだ。

 雉だ。


 * * *


 中学三年。高校受験まで一年を切った四月、春風がそよぐ夜だった。

 アーケードの商店街にある小さな文具店から僕は出ると、道行く人のあいだから、雉の哀しげな顔が目に入った。

 雉と、隣にもう一人。男だった。背が高く制服も違う。

 他校の同級生? いや、高校生か。

 雉は俯いて黙ったまま、その男の制服の袖をぐっと掴んだ。男は困惑と嫌悪が混じったような表情で雉の手を振り切って、じゃあな、と言った。彼は自転車を漕ぎだして僕の横を通りすぎた。

 出来事は一瞬だったが、良い雰囲気ではなかった。見てはいけない場面を見たかもしれない、と思った。見てないことにしようとも思った。

 男の自転車を追った視線を、雉へと振る。すると雉の視線と偶然ぶつかる。彼女ははっと驚いた表情をすぐに曇らし、僕に近づく。

「見てた?」

「ごめん」

 謝ったら認めたも当然だった。


「部活のOBで、たぶん今は元彼氏」

 雉は、バドミントンのラケットを入れたバッグを背負っていた。

 同じ中学校の先輩で、二つ歳上。中学生にとっては、その頃の高校生はずいぶんと大人に見える。

「高校には、大人で綺麗な子もたくさんいるんだろうね」

 悔しさが混じったようなため息を吐き、雉は言った。先輩は高校生になってから態度が素っ気なくなっていったらしい。

「……そうなんだ」

 気の効いたことを言えれば良かったが、その頃の僕にそんな引き出しはなかった。きび団子を渡すくらいしか出来なかった。


 次の日の鬼退治は、情けない自分を振り切りたくて荒っぽくなった。


 * * *


 僕と犬と猿。三人とも、へとへとだった。でも、鬼ヶ島での鬼退治が終わって妙な清々しさがあった。

 自動販売機が煌々と光って、夜の広場を照らしていた。海の匂いがかすかに鼻をつついた。広場から見える、鬼ヶ島球場のナイター照明が静かに佇んでいた。

 地面には桜の花びらがまばらに落ちていた。

 ベンチに座って、自販機の光を眺める。

「あー、三時間の移動のあとの鬼退治は、堪えたな」

 猿は大きなため息を吐き、ペットボトルの清涼飲料水を一口含む。口元の切れた傷に染みたのか、表情が歪む。

「これから、また帰るの、きつくね」

 がこんと自販機から缶が落ちる音を聞く。犬は缶コーヒーを選んでいた。

「もう電車で今日は帰ろう」

 犬は、じゃあ友達この辺に住んでるからチャリは一晩置かせてもらおっかと、ラインを打ち始めた。

「てゆうか、腹へったわ。コンビニ行ってくる」

「あ、俺も、トイレ借りたい」

 犬と猿は、コンビニの光へと向かって歩いてゆく。

 広場は静寂に包まれた。これで中学生活は終わりなんだなと思うと泣けてくる。夜が染みる。こんなに楽しい時間を友達と過ごせるとは、入学当初は思っていなかった。

「ほんとにやったんだ、鬼退治」

「え?」

 突然の声に振り向く。電灯の淡いスポットライトの中に、雉がいた。

「久しぶり」

 僕は素直に驚いた。

「な、なんでここに居んの?」

「ちょっとね。わざわざ来たんだ。猿がグループラインで『鬼ヶ島に行くんだぜ、最後に大暴れだ!』って吹いてたから、ここに居るんだろうなとは思ってた」

「高校入学前に、人恋しくなったか」

 背の高い元彼氏の顔を想像しながら言った。

「違う違う、それ」

 雉は指を差した。

「きび団子、それ最後に食べたくなって」


 雉はベンチに座った。お腰に付けたきび団子は、袋を広げてベンチに置く。

 それをひとつつまんで、僕は聞く。

「そういえば、進路どうしたんだっけ?」

「第一志望通ったよ」

 名前を聞いてみれば、他の市にある進学校だった。

「もう会うこともなさそうだな」

「今まで、ずっと塾帰りに偶然会ってただけだしね」

「変な関係だよな」

 雉は涼しげに笑った。

「初めて会ったときのこと、覚えてる?」

「うん、猿が雉を見つけたとき」

「あのとき、しっかり勉強しよう、準備しようと思ってたタイミングだったんだ。高校受験で忙しかった先輩を間近で見てたから。それに先輩に、もっと良い子に見られたくてさ」

 先輩とは、元彼氏のことだろう。雉にとって先輩への感情は、好きというより、憧れに近かったのかもしれない。雉が大人びてるように見えるのは、先輩に大人びて見えてほしくて、そうなってたのかもしれない。

「なんか私の人生の『これから』ってタイミングに、きび団子があるんだよね。『高校受験を頑張ろう』『先輩に振られたけど立て直そう』とか」

 僕を差し置いてきび団子かよ、と思うところがあるが僕は黙って聞くことにする。

「で、今日。もうすぐ中学生活が終わると思うと、なんか寂しくなっちゃって。怖くなっちゃって。高校生になって生活がガラッと変わるのが」

「うん、わかるよ」

「だから、きび団子を食べようって思ったんだよね。不安を振り切るための、きび団子。みたいな」

 馬鹿馬鹿しい話だけど、と雉は苦笑いして付け加える。

 僕は馬鹿馬鹿しいとは感じなかった。なにより僕の鬼退治だって、今の親が本当の親じゃないってことから来る不安を振り切るために始めたようなものだ。

 不安を全然関係のないもので解消するのは、ごくごく普通のことだと思った。

「あのさ」

 僕は口を開く。

「たぶん雉だったら、これから何があっても大丈夫だと思うよ。僕なんか鬼退治ばっかでいつもちゃらんぽらんでさ、毎日コツコツ目標に向かってる雉を見て輝いてんな、強いなって思ってたんだ」

「鬼よりも強い?」

「うん。なんとなくだけど、すごい自信がある」

 雉は、手に持ったきび団子をまっすぐ見つめて呟く。

「そっか、ありがとう」

 心なしか、安堵が混じった声に感じた。自惚れなのかもしれないけれど。

「あ、血が出てる」

 雉が気づく。僕がきび団子を取る手の指の付け根あたりから血が滲んでいた。握りこぶしを作って殴るとここに傷ができる。

 雉は紺のタオル地のハンカチを取り出す。

「返さなくていいから。きび団子のお礼」

 その言葉を貰わなくたって、返すことは出来なかったと思う。この日以来会っていなかったからだ。

 公園の入り口から遠く声が聞こえた。

「あ、雉じゃん。鬼退治の雄姿を見に来たか」

 猿と犬がやってくる。砂を踏み鳴らす足音がざっざっと夜に響く。雉はふわっと手を振る。

「まぁ、そんなところ」

「だか、悪いな。もう終わっちまったんだ。残念だな」

 犬も猿も、雉の唐突な登場には、あっけらかんとした態度だった。からっとした二人だな、と改めて思う。良い友人を僕は持った。

「記念写真とっとこうぜ!」

 猿はスマホを取り出して、自撮りモードにして四人をフレームに入るよう調節する。

「いくぜ。はい、チーズ!」

 スマホのライトが瞬いた。僕は猿のカメラの向こうにある夜桜を見ていた。


 * * *


 思い出した、完全に。

 なんとなく記憶に蓋をしていた理由が分かったかもしれない。

 苦々しい思い出だからじゃない。僕にとって雉は、淡い憧れだった。鬼退治なんかに明け暮れていた自分にとって、彼女の大人っぽさと真っ当さは別世界の輝きに見えていた。

 だから忘れようとしていたんだと思う。大人になった僕は、歳を食ったわりに冴えていなくて、中学時代の雉の真っ当さにすら追い付いてない気がするから。

 雉はいま、何をしてるだろう。バリバリ仕事をしているかもしれないし、結婚して家庭を築いてるかもしれない。でも、どんな想像をしたとしても、たぶん上手くいってるはずだと確信だけはあった。


 僕は自室から台所へ向かう。ちょうど母が冷蔵庫から麦茶を取り出すところだった。

「母さん、昔作ってたきび団子、あれ、どう作るの?」

 僕は空の缶チューハイを捨てながら母に聞いた。

 珍しいこと言うね、じゃあ今日作ろうかと、言って母は目尻に深い皺をつくる。


 きび団子食ったら、本棚のものを段ボールに詰めよう。それからのことは、また明日。


 * おわり *

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