春風ひとつ、想いを揺らして
蜜柑桜
想い咲く、桜の花びら
……鳥の
瞼の向こうが薄ら明るい。
頭に被った布団から手を出すと、温まっていた指先がひやりとする。枕元をさぐってスマートフォンを布団の中に引き寄せ、ホームボタンを押した。
——六時半。
昨日、新型ウィルスの驚異から出された緊急事態宣言。都市の住人も外出自粛を求められ、在宅勤務が原則となった。
今日から職場に出かける必要もなくなったのに、いつもの時間に目が覚めてしまう。
のろのろと起き出して着替え、洗顔をする。いつもなら慌ただしく髪をとかして化粧をするところだが、その必要もない。パーカーに袖を通し、取り敢えずゴミを捨てに外へ出る。
太陽の光が斜めに射し、家々の壁も地面も、いつもと違う色に見えて、胸のあたりに何かが足りない気がした。
ゴミ袋にカラス避けの網をかぶせて身を起こす。踵を返しそのまま家に戻るはずの足が、一つ向こうの道へ踏み出していた。
朝の空気は涼やかで清々しい。まだ夢の中と錯覚しそうな静まり返った住宅街。地面を踏む運動靴の底に、パンプスよりも柔らかな反発を覚える。
その足先に、うっすら紅をさした白い花片がはらりと落ちた。
見上げた先には、満開に咲き誇る桜の木。
そういえば今日は、隔週で行く企画推進部への書類提出の日だった。
思い出したら、朝の冷気が妙に強く感じた。
ふと、「彼」の顔が頭に浮かんだ。
***
通勤時間も気にすることなく、十分な時間をかけて朝食を食べ終えると、食卓でパソコンを開いた。
膝に置いた大きなクッションに腕を乗せた姿勢でマウスを叩き、メールソフトを起動する。
部長の朝の挨拶と今後の方針、会計からの予算変更予定の知らせ、新人への対応について、同僚から新年度の挨拶……いつもの倍以上の新規メールが受信箱を埋めている。重要なものから開封しつつ、画面を下へスクロールしていくと、「彼」のアドレスが目に留まった。
スクロールを止め、とん、とん、と人差し指を動かす。
「今年度前半期で、この部署は最後になります。
よろしくお願いします。」
プレビューだけでも読めてしまう、たった二行の一斉送信メール。
一度開けたそれを、「未開封」に戻した。
***
在宅になったとはいえ、普段とやっていることは大して変わらない。データをパソコン上で処理し、資料のレイアウトを整え、外部とのやり取りを行う。ただ違うのは、普段なら出来たものを印刷して別部署へ手渡しに行ったり、その場で担当者に聞くちょっとした質問や確認が、クラウド共有やメールでのやりとりに完全に変わるだけで。
朝食のコーヒーマグを傍に置いたまま、あらかじめ持っていたタスクを進め、時折画面に現れるメール通知に応対する。
時計の針が真上に切り替わる直前、画面右上に封筒のアイコンが部長の名前と一緒に飛び出した。
『これお昼後に企画推進に確認して』
ファイルをざっと見て、ノート・パソコンの蓋を閉じた。
***
普段なら駅までの途中にあるパン屋か持参の冷えたお弁当を食べるところだが、家ならその必要もない。
即席とはいえ、たっぷりの野菜と魚介を和えた出来立てのパスタにサラダ。昼のニュースを聴きながら、休日さながらのランチで胃袋を満たした。
木漏れ日の降り注ぐ窓の外、青く繁り始めた葉っぱの向こうに、鮮やかな空の青が覗いて見える。
影のある屋内が窮屈に感じられて、淹れたばかりのコーヒーを片手に、ベランダから外に出た。
朝とは違う柔らかな空気が頬を撫で、冴え渡った青空が眩しい。
通勤列車に苦しむこともなく、オフィスの空調にも悩まない。着慣れたパーカーでクッションにもたれて、熱々のご飯をゆっくり食べて、食後の珈琲の香りを楽しんで。
いつもより仕事生活としては余裕があるはずなのに、ぽっかり抜けた空虚感。空虚なのにその感覚は、いやに意識をそちらへ向けさせる。
——「前半期で終わり」……
隔週にたった一度、話すか話さないかの間柄だ。向こうはきっと何とも思ってないし、自分も向こうをそんなに知っているわけじゃない。
学生みたいに若くもないし、しかも社内。下手したら気まずい。
そう思っていたはず。
それなのに、どうして会えなくなった途端に、余計に思い出すんだろう。
——次に「おはよう」、言えるの、いつになるんだろう。
ぼんやり見上げながら手摺りに寄り掛かった。
その時。
さぁっという葉擦れの音と共に、東からの風が空気を揺らした。
頭を押さえて振り返ったら、無数の白い花びらが踊りあがっていた。絵の具を塗ったような青の中に、薄紅を帯びた点描が散り広がっていく。
勢いを増した風に部屋へ戻り、急いで後ろ手に窓を閉めた。
ふと、手元に目を落とす。すると、濃いブラック・コーヒーに、桜の花がたゆたっていた。
***
コーヒーマグとスマートフォンをマウス・パッドの向こうに置き、パソコンの蓋を開ける。
昼前に見た部長のメール・ウィンドウの前に新規メールを立ち上げ、「彼」のアドレスを呼び出す。メッセージ欄を埋めると、部長からのファイルをドラッグ・アンド・ドロップ。
送信ボタンを押そうとキーボードから手を離し、マウスへ伸ばした。
ちらと視線を投げたら、右手の先に、白い花弁の浮かんだコーヒーマグが目に入った。
濃茶の中で眼を背けることができない、薄紅を帯びた白の一点。
マウスに触れた右手を軽く上げ、その向こうのスマートフォンを取り上げる。
ショートカットキーで書き上げたメール・メッセージを削除し、スマートフォンの通話アプリを起動した。
コーヒーの香りと一緒に、一つ深く息を吸う。画面に映る「彼」のアカウント名。
息を止めて、私は受話器のアイコンをタップした。
完
春風ひとつ、想いを揺らして 蜜柑桜 @Mican-Sakura
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